学習通信051005
◎働いて生きるか、闘って死ぬか=c…

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 ところが、自然観の激変〔初版では「自然観における激変」〕がそれに見あった実証的な認識材料を研究が供給する程度に応じてしか起こりえなかったのにたいして、歴史把握にとって決定的に重要な方向転換をもたらすことになる歴史上の諸事実が、すでにそれよりもずっと前に影響を及ぼしはじめていた。

一八三一年にリヨンに最初の労働者蜂起が起こっていた。一八三八年から一八四二年にかけて、最初の全国的な労働運動であるイギリスのチャーティストの運動が、その頂点に達した。

ヨーロッパの最も進歩した諸国において、一方では大工業が発展し、他方ではブルジョアジーの新しく獲得した政治支配が発展するにつれて、プロレタリアートとブルジョアジーとの階級闘争が、こうした国ぐにの歴史の前面に現われてきた。

〈資本と労働との利害は一致する〉、とか、〈自由競争の結果として全般的な調和と全般的な国民福祉が実現される〉、とか言ってきたブルジョア経済学の諸学説は、もろもろの事実によってますます的確にその嘘を暴かれるようになった。すべてこうした事柄は、もうしりぞけようがなかった。

同時に、きわめて不完全ながらこうした事柄を理論的に表現していたフランスおよびイギリスの社会主義も、もうしりぞけようがなかった。しかし、まだ駆逐されていなかった古い観念論的歴史把握は、物質的利害にもとづいた階級闘争を、そもそも物質的利害というものを、認めていなかった。

生産もすべての経済関係も、この歴史把握では、「文化史」の従属的要素としてまったくつけたりに出てぐるだけであった。
(エンゲルス著「反デューリング論 上」新日本出版社 p41)

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機械の破壊

 工場と機械ができてから、かつての牧歌的な生活から非人間的とさえいっていい生活に投げこまれた労働者たちは、彼らの憎しみの的を、まず機械そのものにむけた。一八一一〜一七年ごろのこと。イギリスにネッド=ラッドと名のる、そしてだれもその姿を見たことはないという神秘的指導者のうわさが広がった。彼は伝説のロビン=フッドがかつて住家としたシャーウィドの森に本拠をおいている、ともうわさされた。しかし彼を指導者とする運動は現実に存在した。ラダイト反乱といわれる運動である。彼らは機械やエ場を破壊してまわった。そのなかには新機械の発明者たち、たとえばケー、ハーグリーヴズ、アークライト、カートライトなどの工場や住宅もふくまれていた。もちろん政府は弾圧した。一八ー三年に集団裁判が行われ、多数の絞首刑や強制移送がいいわたされた。

 このような機械破壊という形態をとった労働者の反抗は、ヨーロパで大陸でも十九世紀三〇、四〇年代におこった。もちろんこうした形態ばかりではなくストライキという形態をとった労働運動もおこってきた。フランスでも、すでに一八二五〜二七年に低賃金と労働条件の改善をめざしたストライキが発生した。このため七〇〇〇人の労働者に対して一二五〇件の起訴が行われた。ストライキは法律で禁じられていたのだ。とりわけ有名なのは、三一年のリヨンにおける四万人の絹織物工のストライキである。闘争は暴動化し、労働者が数日間市政を掌握したほどであった。労働者たちのスローガンには「働いて生きるか、闘って死ぬか」、「政府打倒! 蒸気機関をやっつけろ! リヨン労働者万歳!」とあった。

 ドイツでも一八四四年、シュレージエンのオイレングビルゲの麻織工たちが、生活苦の原因が機械の導入であると考えて、機械破壊の暴動をおこした。一八九二年、ハウプトマンの戯曲『織工』が発表された。彼は、この戯曲の冒頭で彼の父に捧げる言葉を掲げ、そのなかで「お祖父さまが、少年時代貧しい織工として、この劇中の人々と同じように、機を織っておられたということは、父上の昔語りに伺いました。そのお話に私の戯曲は胚胎しております」と書いている。この戯曲は、一八四四年のシュレージエン織工の機械破壊行動をほぼ正確な史実にもとづいて展開している、といわれている。

チャーティズム

 こうした労働者の悲惨な状態と反抗のなかで、だんだんに労働者の地位と生活の改善をはかる法律も制定されていった。なかでも、イギリスで顕著な前進がみられた。一八〇二年、一九年、三三年と工場法が制定され、ことに三三年の工場法で、やっと絹以外の繊維工場で九歳以下の少年労働の禁止、十三歳以下のものの労働時間が週四十八時間、十八歳以下が週六十九時間ときめられた。また二四年には、一八〇〇年以来の団結禁止法(労働組合の禁止)が廃止された。

 だが工場法で労働時間が短縮されても、工場主は賃金を引き下げることなどによって対抗したので、労働者の生活の改善はけわしかった。そのうえ一八三六年から四二年にかけて不況、恐慌がイギリスをおそった。このとき一八三八年から約十年間にわたってチャーティズム運動がおこった。この運動の目的は、一八三二年の選挙法改正では満たされなかった改革を実現することにあった。そして改革要求を「人民憲章」としてかかげた。ここからチャーティストという名がはじまる。憲章は@成年男子普通選挙権、A議員の歳費支給、B秘密投票、C議員に対する財産資格制限の廃止など六項目を要求した。この運動を推進したのは全国憲章協会(一八四〇年成立)であった。

 一八三九年には一二五万にのぼる署名が集められ、議会に請願書として提出されたが、ただちに拒否された。そして政府は軍隊と警察を動員してチャーティスト指導者たちをとらえた。地方では暴動がこころみられたが、弾圧されてしまった。その後、一八四二年にも三〇〇万人の署名による請願、四八年にも同様のこころみがなされたが、いずれも議会による請願拒否、指導者の逮捕や投獄によって敗北した。

 この運動は、直接的には選挙権の不平等をなくす運動であったことはいうまでもない。それと同時に、この時期の不況や恐慌で悩んでいた労働者たち、とくに機械制工場によって押しのけられつつあった手工業労働者たちのやり場のない不満の爆発だった。ある下層労働者の指導者はいった。

 「家庭に幸福をもたらし、またパンと肉とビールをもたらすと信ずるがゆえに、普通選挙権を要求する。」
(前川貞治郎・望田幸男著「世界の歴史 16」講談社 p113-117)

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◎「階級闘争が、こうした国ぐにの歴史の前面に現われてきた」と。