学習通信051007
◎その両方をとること……
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一九三七年七月十日
巣鴨拘置所の顕治から目白の百合子宛
六月三十日付の手紙この間受け取った。盲腸あたりはっきりせず、冷していて返事おくれた。
要するに、生活の純化、理性そのものの科学化、その理性と感情の統一、青鞜派婦人的でない真の新しさ、個人の解放に力点をおいた、個人主義的自立性でない協同的献身の情熱、低いところの合理化でなく、仕事にたいする勇気ある謙譲と努カ──作家であろうと何であろうと、こういうことが成長のモラルではないだろうか。
いささかのごまかしのない、生活の自己矛盾を正視する、リアリズムの勇気──トルストイのような人間の場合、そのほか大作家として生きたすべての人は、その自覚の限内では、いつでも根限りで自己矛盾に対して来ている。そこに、自他にたいする冷厳な、リアリスティックな観察と描破が生れた。
ユリの生活も、いろいろの要素を昔から脊負って来ているのだから、時間的にも環境的にも旧い生活が永く、その臭いは強く今日もしみ込んでいるのだから、完成されたものとして自身をいささかも考えず、常にハンブルに旧い要素に対することが大切だね。
生活の規準が日常化したり、地滑りしたりすると、自分の姿がみえなくなる。生活と意識の関係は実に現金である。断片的で分り難いかもしれぬが、約束した返事の一部となろう。
夏ぶとん入れてほしい。昨年のは少し短くて閉口した。よく陽に乾して。でないと。ペチャンコとなるから。からだの本、もう届いてもいいころだと待っているのだが。昨年十二月来の頼みで、これで五度目だよ。発行所が分ればこちらで求めるのだが。しらべたいことがあるから。いつか返送した、ネル腰巻、ハラマキ、腹を暖める時入用だから欲しい。風呂敷一枚も。小包類二度に届いている。差入屋への弁当類依頼は、この前のいつまでで終り、新しくいつまで頼んであるかはっきり手紙で知らして貰いたい。先月二十日頃から何だかよく分らないから。なお、こちらで買うこと前に言った通り。
金の工合はどうなのか。ユリのゼスチュアはいつもピーピーらしいから──今月はないとか、不定期にしたり、少くしたり──無理は頼みたくないから本当のところを知らして欲しい。
僕は大乗的にできるだけからだは大切にし、少々の入費位、外で入院していると思えば何でもなしと構えているのだが、間違いやそちらのひどい犠牲の上で養生するほど「自愛」はしないから。富雄より来信。野原の家、屋敷の話だが、彼としては尤もの気持なのだ。今一度詳しく頼母子の担保関係を知らしてくれ。富美子へとしての心付はできたろうか。以上忘れず知らして欲しい。(ふとんはからだの工合で、毛布だけでは寒いときがあるから)
心を用いる必要のない一般のことと違って、僕らの生活は僕らが直接の責任があるのだから単なる懸念というような性質のものではない。
ゲーテがエッケルマンに、人は何事かを為す前に何者かでなくてはならぬという意味を語っていたと記憶するが、同様に僕の心底では、ユリが書いているもののことなどはむしろ生活の結果なのだから、それ自体が少々どうでも私生活にたいする根本評価には関しないのだ。
生活の雰囲気のデティルについても。いつかは、女大学式の「忍耐」を指したのではなく、夫婦生活が共同の合理的基準に立つかぎり、気儘な離合はきまぐれに属するが、生活の規準が相違し、一方が一方の発展にブレーキとなり、又は公私における一方の破廉恥がある場合など、むろん、歴史・生活・真理のために「離合」は必然性を持つ。これも誤解のないよう。では又。
一九七三年七月廿六日
目白の百合子より巣鴨拘置所の顕治宛
第廿一信 きょうはあれからかえって、すっかり安心をして、喉がかわいてかわいて。たくさん番茶をのんでトマトとパンをたべて眠りました。私はいつも永い仕事を一つ終ると本当にのうのうして眠るのに、今度はお目にかかったとき、沢山の気にかかることがあったので、珍しくよく眠らず、疲れがぬけなかったので病気したりして。
昼ねから醒めて、体を洗って、新しい仕事を考えながら二階で風にふかれていたら、不図思いついて狭い濡縁の左の端れまで出てみたら、そこから四つばかりの屋根を越してあなたも御存じのもとの私の家の二階の裏が見えました。間に自動車の入る横通りが一つあって、それから先なのに、屋根と梢とでその道路の距離は見えず。眺めていて、あのニ階にさした月の光の色をまざまざと思いおこし、ここに今自分たちの生活があること、そうやって昔の家の見えること、それらを非常に可愛らしく思いました。
あの屋根とここの濡縁との間にある距離はその位だけれども、私たちの生活は何とあれから動き進み、豊富にされてきているでしょう。そのためどれほどの人間らしい誠実さと智慧と堅忍とがそそがれているでしょう。
世間では、私たちをある意味でもっとも幸福な夫婦と折紙をつけています。私はもちろんそれをいやに思ってはききませんが、そういう人々の何パーセントが、何故に私たちが幸福な夫婦であり得ているかという、もっとも大切な点について考えをめぐらしているだろうか、とよく思います。
七月十日づけのお手紙を私は三度や四度でなく読んで、こういう手紙を貰える妻の幸福そしてこわさというものをしみじみと感じました。貴方は何と私を甘やかさないでしょう。(こわいのはむかしからだけれど)あの手紙の中には小さい感情でいえば、普通の意味で、私に苦しい言葉もあった。たとえば、ユリのジェスチュアは云々。──ジェスチュア? そう思う。あぁと思う。ジェスチュア。だが幾度もとり出してよみ直して、しまって、こねているうちに結局私にのこるものは、生活態度について、貴方が私の可能性を認めた上で求めていらっしゃる水準のより高いところへの健全な激励だけです。
あの手紙にたいする答えは、きょうお話したこともその一部分です。私の生活の経済的な面をこまかく書いたことはなかったけれども、一昨日、林町へ行って書類をしらべるまで、私はいろいろのことを知らなかったのです。去年の春かえってから、ことしの正月こっちへ越すまでは入院
の費用やその他で、自分の分などの話も出さなかったし、こっちへ移ってからは大体四十円程、私のつかえる分としてもって来て、私はそれをあなたの分として、至って素朴な形でやっていたわけです。日常生活は稿料でやってきています。(中略)
目の前に電燈の色が暑いので、昼光色をつけました。水色のような電球。これだと虫が来ないというが来ている。
稲ちゃんは廿五日に子供たちをつれて、無理をして保田へゆきました。健造曰く「母チャン、どうしたって二十五日おくらしたら駄目だから。日記に、廿五日ホダヘゆきましたってもう書いちゃったんだから」だって。
栄さんは、姉さんが、あやうくイソチキ結婚に引かかりそうになったので、そのこわしに出かけ、かえって来ました。もしかしたら又もう一度ゆくかもしれず、そうしたら壷井さんも行って一ヶ月あっちで暮す由。あのひとこのひと皆行ってしまって、私はお喋り相手がないわ。
七月八月は映画も音楽もロクなのなし。仕事をして暮す。但し、この家は縁側がなくて、いきなり硝子戸なので、風は通るが落着かず。でも私は、あなたにたいしてこういうことは云えません。
夏、腸をこわすと実にへばりますね。私はまだしっかりしない。あなたの方もなかなか照りつけるでしょうね。木蔭がないから。お体についても、私は緊めつけられるような、息の出ないような苦しい心痛からはもう自由になりました。しかし腸なんか敏感だから、そのためにも私は一層よい女房にならなければならない。
愛情なんて、実に必要を見出してゆく直覚、努力、探求のようなものですね。人にたいしても人生にたいしても。決して空なものではないし。主観的なものでもない。愛しているという自分の感情をなめまわしているなんて、何て結局はエゴイストでしょう。
(これは小説の中に考えていることとくっついているが)「海流」はチョロチョロ川がすこし幅をつけて来て、いろいろの錯綜もあらわれて来て、やや調子もでて来ました。面白いそうです。「雑踏」より進歩して来ているところもある。技術ではなく、現実に向う態度で、私はこの長篇を努力して書き終るとやっと小説における自身の今日の到達点を具体化できると信じ、本気です。
きょうは何となく愉しい。私もこれで案外しおらしいのだから、どうぞ呉々もそのおつもりで。これから仕事。では又。もう九時だからねていらっしゃる刻限ですね。どの窓だろう。お大事に。
(宮本顕治・宮本百合子「十二年の手紙 上」筑摩書房 p81-84)
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人生を変えた一言
彼と私は、いつの頃からか二人だけで会うようになり、将来を語り合うようになった。私自身は、大学に入学してあまり日もなく、気分的にはまだ子どもを卒業していなかったので、どういう将来を選ぶかについて深刻に考えたことはなかった。物理学の分野で仕事を進めていければいいなあ、ぐらいの漠然としたヴィジョンが関の山で、具体的にどういう職業が可能なのかについてさえほとんど知識がなかった。仕事をしない人生を思い浮かべたことは一度もなかったが、それはまだずっと先のことだというのが正直な気持ちで、まったくのんびりと構えていた。
だから二人で将来の夢を語り合うなかで、「一緒に生きていこう」という彼の発言が出たときも、最初のうちはあまり現実的な間題としてはとらえていなかった。彼のほうも学部の四回生で、就職も決まっていないのだから、将来は海のものとも山のものともついていない。
それでもあれこれ話をしているうちに、私も「のんびりヴィジョン」を卒業して、もう少し真剣に生き方を検討する必要があることに気づき始めた。時代は今から四十数年も前である。女性が仕事と家庭を両立させることはむずかしいというのが、世の中の一般的な考え方だったし、私白身もつきつめて考えてみると、仕事と家庭の両立は困難だろうと思うようになった。物理学を含めてすべての科学の分野で、女性科学者の数そのものがそもそも少なかったし、その数少ない先輩たちも独身で研究を進めている例が多かった。
物理学は勉強するほどにおもしろさが増していく気がしていたが、自分で何か新しいテーマで新しい研究成果を出せるかという点になると、話は別である。とてつもなく困難な事業にちがいない。学生だった私にとって、物理学は険しくて巨大なエヴェレストのように目の前に聳え立っていた。出産、育児をしながら片手間に取り組めるような対象ではない。他のことをすべて横に置いて取り組んでも成功するのはむずかしそうに思われた。
理系の学問は、実験装置や研究文献が整った環境で、系統的な教育を受け、その後の研究も同様の環境のなかで系統的に進めることが必須である。文章を書いたり画を描いたりという職業では、どちらかというと個人的な指導でも、場合によっては独学でも、ある程度は習得でき、あとは本人の感性が勝負を左右することもあるかもしれないが、理系の学問では事情がまったく違う。理系の分野で女性研究者が少ないことの、一番犬きな原因は理系の教育・研究に関するこの事情にある。
一方、私は子どもはどうしても産みたかった。私は戦争で父親を奪われ、母が働いて私と妹を育ててくれた。母と祖母と妹と私の四人が肩を寄せ合って暮らした女家族で、母や祖母の苦労を見てきた。友達の家に遊びに行った時など、お父さんとお母さんがいて、兄弟姉妹がたくさんいればさぞ心強いことだろうと思った。子どもを一ダースくらい産んでバックナンバーのようにそろえ、家の中いっぱいに子どもの声が満ちあふれている家庭、というのがずっと夢だった。
物理学を続ける夢と、結婚して子どもをたくさん産み育てる夢とは、それぞれに大きな夢で、専念しなければ実現しそうにない。そういうわけで、結婚するなら物理は諦めなければならないだろうし、物理を選ぶなら結婚生活には負担が多すぎるだろう、と私は考えた。私がなすべき決断は、仕事か結婚かの二者択一である。どちらを選ぶべきか、私はしばらくかなり真剣に悩んだ。
でも結局はあの時点でも、どちらかの選択を迫られたら、考えたうえで最終的に仕事を選んだだろう。自分の仕事を持たず、経済的にも精神的にも配偶者にただ依存しているという構図は、どうしても自分の人生とは考えられなかった。たとえ、形の上で結婚して仕事を続けたとしても、仕事が二の次になるような生き方は間題外だった。
頭の中であれこれ思案した末、結婚という選択は諦めようという方向に私の気持ちが傾きかけたとき、彼は不思議そうな顔で、「物理と僕の奥さんと、その両方をとることを、どうして考えないの?」と私に聞いた。まるで、ショートケーキにするかシユークリームにするかを決めあぐねている人に向かって、「欲しいなら両方食べればいいじゃないか」と言うときのように、あっけらかんとした口調だった。「こんなに当たり前のこと、どうして分からないの?」とでも言いたげだった。
目から鱗が落ちる、とはあのような状況を指しているのだろう、と私はその時のことを思い出すたびに考える。そうか! 欲しいものは自分の手で獲得していけばいいのだ。世の中の習わしや価値基準に束縛される必要は毛頭ないのだ。私の心に絡まっていたありとあらゆる桎梏が音を立てて崩れ落ちた。私の心は、大きな重圧を解かれて、鳥のように空高く飛翔した。ああ、自由になれた、と心が歓喜の叫びをあげている。
これまで、どんな形にしろ拘束されるということが一番嫌いだった。それでも気づかぬうちにかなりの束縛を抱え込んでいたらしい。そしてそれらは外的要因によるものではなく、自分が自分にかけた自己暗示のようなものだったのだ。何かがうまくいかないとき、自分の努力不足だとは認めずに、外的要因に言い訳を求めようとしていたのかもしれない。
その意味で、自分で自分の心を縛っておくことは、楽な生き方だといえるだろう。あらかじめ逃げ道を用意できる面があるからだ。ところが、自分自身を自分から解き放ってしまうと、そこで可能になる「限りない自由」とひきかえに、「限りない責任」も生じてくる。でも、自由に生きることができるなら、どんなに高価な代償を払っても高すぎることはない。伴って生じてくる「責任」も「面倒」も「大変さ」も、みんな引き受けてやろうじゃないの。私は体中から闘志が湧き上がるのを感じた。
それ以後の私の生き方では、この時の彼の言葉がいつも原点となった。そもそも彼自身が、ものごとにとらわれない自由な心を持っており、世の中の縛りに拘束されない自由な生き方を、至極当然のことのように実行していた。そして、なにより偉いと思ったのは、自分以外の人間が自由に生きることをも、同じように尊重する姿勢を、しっかり貫いていることだった。
二人で将来を話し合ったとき、彼は「一生懸命勉強して、少なくとも二人のうちのどちらか一人は博士号を取ろうね」と言った。まだ学部の学生だったから、博士号を自分の将来設計の中に描くことなど私はしたこともなかったので、人生のそういう時点でこんなに先の夢を具体的に語れる彼を、ほんとうにスケールの大きな人だと思った。しかも、「僕はきっと取る」ではなく、「少なくとも二人のうちのどちらか一人」という言い方も、彼の考え方の柔軟さを表している。
女だから男だからという発想はまるでなく、女性の私を対等に扱ってくれていること、さらに、「二人」を単位にものごとを考えてくれていることが、私にはこのうえもなくうれしかった。
(米沢富美子著「二人で紡いだ物語」朝日文庫 p62-67)
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◎「生活の規準が日常化したり、地滑りしたりすると、自分の姿がみえなくなる。生活と意識の関係は実に現金である」と。