学習通信0510080910-合併号
◎シスモンディの解決策……

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 しかし、これまでの社会主義は、この唯物論的歴史把握とあい容れなかった。

それは、フランス唯物論の自然把握が弁証法およびいまからそう遠くない時代の自然科学とあい容れなかったのとまったく同じである。

これまでの社会主義は、なるほど現行の資本主義的生産様式とその諸結果とを批判したけれども、これを説明することができず、したがってまたそれをかたづけることもできなかった。

この生産の仕方をただ単純に悪いものだと言って排斥することしかできなかったのである。

肝心なのはしかし、一方では、〈この資本主義的生産様式をその歴史的連関のなかで示して、それが或る特定の歴史的時期にとって必然的なものであるのだからその没落も必然である、ということを示す〉、ということであったし、他方では、〈これまでの批判が事柄自体の行程によりもむしろそれのまずい諸結果のほうに向けられていたために依然として隠されたままである、この生産の仕方の内的性格を暴き出す〉、ということであった。

このことは、剰余価値の発見によって果たされた。不払労働の横領が、資本主義的生産様式とそれによって行なわれる労働者の搾取の基本形態である、ということ、資本家は、自分の労働者の労働力をこれが商品として商品市場でもっている価値いっぱいに買う場合にさえ、それにたいして支払ったのよりも多い価値をその労働力からたたき出す、ということ、そして、この剰余価値が、結局のところ、有産階級の手中に絶えず増大する量で積み上げられていく資本のもとである価値総量になっているのだ、ということ、こうしたことどもが証明されたのである。

資本主義的生産の由来も資本の生産の由来も、どちらも説明されたわけである。

 このニつの偉大な発見──唯物論的歴史把握と、剰余価値を手段とする資本主義的生産の秘密の暴露と──は、われわれがマルクスのおかげで手に入れたものである。この二つの発見によって、社会主義は科学になった。いまさしあたって問題になるのは、この科学をそのすべての細目と連関とについてさらに仕上げていく、ということである。──
(エンゲルス著「反デューリング論 上」新日本出版社 p42-43)

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J・C・シスモンディとフランス思想

 スミスおよびその後継者に対するドイツでの反応は、国家をロマン主義的に擁護するか、それとも、リストの場合のように、国家の機能的役割を明瞭に認識して擁護するかのどちらかであった。フランスでは、革命前の国家も革命後の国家も、人々には悪い記憶しか残っていなかったので、ドイツでのような誘惑は存在しなかった。すでに見たとおり、フランスの経済学者のうちで最も有力だったジャン・バブチスト・セイは、スミスを採用してそれを系統立てたりしたのであり、そのセイがフランスを代表する声となった。

フランスにおけるスミス批判の傾向は、フランスの思想史の傾向に沿ったものであって、『国富論』で明確化され主張された経済システム、十九世紀初頭には──きわめて明白なその社会的影響をも含めて──その実態をあらわにした経済システムを見つめて、その価値と目的とを問題にすることであった。このシステムは本当に人々が欲するものなのか、または欲すべきものなのか、という問題である。フランス人は生活の質を味わうことを追求し、財の多いことも含めた「量」と生活の質とを軽々しく混同しない傾向があり、そうした傾向がいつもフランス人の誇りであり、長所でもあった。産業が盛んになるとどういう良いことがあるのか、という問いが最初に発せられたのがフランスであったのは驚くにあたらない。

 フランス語で著作した批判者のうちで最も興味深い人物はジャン・シャルル・シスモンディ(一七七三−一八四二年)であった。彼は『国富論』が刊行される三年前にジュネーヴで生まれた。彼がのちに有名になったことの一つはスタール夫人〔フランスのロマンはの作家 訳者〕との長い交際であって、それはジュネーヴに近いコペの町で一八〇三年に始まった。彼女のサークルで活動していた人たちの著作は、経済学に関係したものも含めて、公衆の注目を集めないものはほとんどなかった。そのころはまだ若い著作家だったシスモンディは、アダム・スミスの熱烈な弟子として立ち現われたのであるが、一六年ほどあとに経済学に戻ったときの彼は、自分の若いころの見解に対して重大な疑いを表明するようになった。

 すでに触れたように、一八世紀の末になると、産業革命の社会的影響の重大性が明白に現われていた。男、女、子供を含む労働者は、イングランド中部からスコットランドにかけて、工場に群がるようになっていた。ひとたび工場に入ると──エ場町へ入っただけで──労働者は、工場主であり資本家である雇用主の権力に従属し、その思いのままになった。賃金、労働時間、騒音、悪臭を放つ工場や家、うらぶれた短い生涯などに対して、労働者は抗議することもできなかった。こうした現実を最もよく例証するものとして或る改革の試みがあり、ほとんどすべてのヨーロッパ人がそこを訪問・観察したのであった。

それはデーヴィッド・デール(一七三九−一八〇六年)のニュー・ラナークのことである。デールはスコットランドの資本家、博愛主義者だった。彼はグラスゴーとエディンバラの孤児院へ出かけて行って、孤児院をからにし、そこに住んでいた孤児たちを自分の模範工場町の寄宿舎へ引っ越しさせた。ここに移った子供たちは、繊維工場で一日わずか一三時間の労働を要求された。そして、彼の養子でユートピア的改良主義者ロバート・オーエン(一七七一−一八五八年)が彼の後を継いで、人をあっと言わせる改革をしたのちには、一一時間労働となった。子供たちは、その暇な時間には、授業と娯楽を与えられた。当時の改革とはこのようなものであった。

 新しい資本主義の陰惨な社会状況は、十九世紀の初めにはフランスでも目につくものとなっており、シスモンディはこの状況に強く反発した。彼の反対論の一部はリストを想起させる。「あらゆる苦しみは大陸の生産者にのしかかり、あらゆる享楽はイギリス人に残っている。」彼もマルサスとともに、近代産業は過剰生産へ向かう不可避的な傾向があると考えた。どれだけの生産をすべきかは個々の生産者によって決められるが、工場に働く大衆が何を必要とするかについては、その大衆がそうした判断をするわけではない、というのだ。発明はおおむね有害な結果をもたらすと彼は考えた。しかし、彼が主として考えたのは労働者のことであった。

 シスモンディの最大の貢献は、社会階級というものを認識し、それを特徴づけたことであった。彼は、「二つの社会階級、金持と貧乏人、資本家と労働者、の存在について語った最も初期の経済学者の万人であって、彼はこの両階級の利害が……いつも衝突し合うものであると見なした。」

 ここから始まった論争は、マルクスとレーニンによってとり上げられ強められたとき、史上くらべもののない非難毒舌を生み出すこととなる。スミス、リカード、マルサスは、雇用主、または疑いなく地主が、労働する人々よりも暮し向きが良いことは認めた。もっと正確に言うと、これを当然のことと考えた。しかし、この三人の見解によると、雇用主──資本家または地主──は貧乏人の不幸の設計者ではない。労働者が単に生存するだけの状態へ向かって滑り落ちる悲惨さは、彼らが繁殖することに無節制に熱中していることの結果であり、彼ら自身のせいである、というのであった。

ところがシスモンディにあっては、金持は貧乏人の敵であり、資本家は労働者の敵であるとされた。いまや国家は強者に対して弱者を守るべきである。「富の進歩から何らの利益も得られない人々がその進歩の犠牲に供されるのを防ぐ」ことが国家の役割だ、というのである。

 古典派は、貧乏人の貧乏を貧乏人自身の責任にしよう、金持の良心が貧乏人の状態によって煩わされないままにしておこう〔このことについては本書のあとの章で再び述べる〕と努力していたのに、そこヘシスモンディがひどい不協和音を投げ込んだのである。繰り返して言うと、貧乏人は彼らが貧乏であるという事実に責任はなく、彼らは金持によって抑えつけられているのであり、階級が階級を圧迫する、というのだ。その後の一五〇年にわたって、幸運な人々はこうした考え方を遺憾に思い、それを非難することとなる。

最近の例をあげると、一九八四年のアメリカ大統領選挙のとき、共和党の副大統領候補ジョージ・ブッシュは、言い回しが多少柔軟な人と見えて、民主党の大続領候補ウオルター・モンデールを、「金持と貧乏人に階級を分けるようアメリカ人民に言いきかせている」として非難した。本当の罪はモンデールにあるのではなく、ジャン・シャルル・レオナール・ド・シスモンディから出たものなのだ。

 しかしながら、神経過敏な人は、シスモンディの解決策がどういうものであったかを知れば、心が安まるであろう。彼の解決策も、フランスおよびフランス的経済思想のひびきが強い。それは、産業資本主義から農業ならびに職人の独立的な仕事へ後退せよというのだ。工場労働者は自分のつくり出すものを知らないが、職人にはそれがわかっている。したがって、労働者が搾取から逃げ出せるうえに、シスモンディがこの体制につきものだと考えた過剰生産も回避される、というのであった。
(J・K・ガルブレイス著「経済学の歴史」ダイヤモンド社 p138-141)

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社会主義思想の流れ

 イギリス労働党左派系の学者として有名なG・D・H・コールが,ウィリアム=モリス(19世紀のイギリスの詩人、社会主義者)の本を読んであっさり社会主義者になったとつぎのようにいっている。

 「わたしは当時の多くの人がそうだったように,道徳と礼節,および美的感覚の立場から社会主義者になった。わたしはわたしの仲間の人間に上品なことをしてもらいたかった。わたしはすべての人間がわたしと同意し,人生のよい機会にめぐまれるべきであると考えた。そしてわたしは貧乏の醜さとそのうめ合わせとして金もうけにあくせくする醜さとをともに憎んだ。わたしの周囲はまったくそういう醜さでうずまっていると思った。わたしはいまなおこの3つは社会主義者たるべきすぐれた基盤だと考える」。

 いつの時代にも社会の矛盾をつき,その変革やそこからの脱出を求める思想や運動があった。その発端となるものはコールのように道徳,礼節,美的感覚(一言でいえば正義感)であったり,信仰であったり,生活の実感であったりし,その主張,意見もさまざまに分かれるが,そのうち,私有財産制に社会の矛盾の基本をみて,それをただすことによって階級対立のない社会を建設しようとする考えを社会主義とよぶことができる。したがってそれは私有の概念や権利が明確になる近代社会の形成とともに生まれ,その発展とともに,理論的にも運動的にも発展した。
 さかのぼればすでにギリシアのプラトンが私有のおこなわれている国のために法律をつくることを拒否しているが,ルネサンス時代のイギリスのトマス=モアやイタリアのカンパネラがヨーロッパでは社会主義思想の先駆者だった。モアは私有財産の下には正義はないと説き,カンパネラは私有財産は個人的な結婚生活から発生するものだから結婚を国家的事業にしなければならないと主張した。

 同じ考えはピューリタン革命のときのディガーズの指導者ウィンスタンリーの「私有財産こそ人間がそのもとで苦しんでいるのろいであり,重荷である」という言葉に,また二月革命で活躍したプルードンの「財産とはせっ盗である」という言葉にうけつがれた。

 初期の社会主義思想は,ほとんど世界のあらゆる場所に発生したといえる。民族運動の高まったハンガリーやポーランドやアイルランドでもみられたし,中国や日本においても同じだった。

 太平天国の「天朝田畝制度」は,「田あればともに耕し,食あればともに食し,衣あればともにはき,銭あればともに使い,いずこも平等に,人はみな飽食暖衣しなければならぬ」という基本思想にたっているが,それはモアやカンパネラ以上に現実的な社会主義思想だった。

 江戸時代中期の安藤昌益は「直耕直食の真人」である農民を搾取することは許されないと,階級関係に目を向けて,封建社会否定の思想を築き上げた。

 もっとも基本的な問題点として生産手段の私有の問題をとり出して,科学的社会主義を確立したのがマルクスとエンゲルスだった。二人は空想的な理想ではなく,到達されなければならない未来社会として社会主義社会をえがいた。その事業をなしとげるのがプロレタリアートであリ,かれらにかれら自身の行動の条件と本性を自覚させるのが科学的社会主義の任務であるといった。
(土井・片山・堀越・吉村「新講 世界史」三省堂 p355)

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◎「このことは、剰余価値の発見によって果たされた」と。