学習通信051011
◎労働学校で学ぼう!
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「生きづらい」「むなしい」「本当の自分じやない」「傷ついている」「満たされない」「居場所がない」「だれも信じられない」「消えたい」といったかなり深刻なことばをつかいながらも、いったいどうしてそんなことになっているのか、自分でもわかりかねているのです。
(香山リカ著「生きづらい<私>たち」講談社現代新書 p4-6)
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はじめに
私たちがいま直面しているのは「生きる意味の不況」である。
一部屋に一台テレビがあるような暮らし。一家に一台も二台も車があるような暮らし。それはこの地球上で一握りの人たちのみに許された豊かさである。しかしその中で私たちは生きることの空しさを感じている。自分がいまここに生きている意味が分からない。自分など別にいなくてもいいのではないか。自分が自分でなくてもいいのではないか。
そんな社会は決定的におかしいと私は思う。紙も鉛筆もコンピュータもある。しかし道具はふんだんにあっても、それを使って夢を描くことができない社会。一生懸命働き、社会に貢献してきた人たちが、自分たちにもはや価値はないと思わされ、老後の不安に駆られるような社会。どう考えてもおかしくはないか。
経済的不況が危機の原因だと言う人は多い。しかし、私たちの多くは既に気づいている。景気が回復すればすべてが解決するのだろうか。問題の本質はもっと深いところにあるのではないか。私たちをこれまで支えてきた確かなものがいまや崩壊しつつあるのではないか。
私たちの「生きる意味」の豊かさを取り戻すこと。そのためにこの本は書かれている。何が私たちから「生きる意味」を奪っているのか。その原因を探り出し、そこを突破して、いかに自分自身の人生を創造的に歩むことができるかを考えたい。そしてひとりひとりの生きる意味に支えられた、真に豊かな社会の未来図を描き出したい。
生きることに悩んでいる若い人たちから、人生の後半を歩むエネルギーのありかを探し求めている年配の方々まで、「生きる意味」を求めているあなたに、心からの応援のメッセージを届けたい。その熱い思いとともに、この本をスタートさせたいと思う。
(上田紀行著「生きる意味」岩波新書 p1-2)
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人は何のために生きるのか
自我の確立(自己の人格の形成)の過程で青年の出会う疑問はいろいろあると思いますが、そのなかで「人は何のために生きるのか」「人生の目的とは何か」という疑問は重要なものだと思います。ただ漠然とそう思っただけですぐに忘れた人もあるでしょうが、かなり深刻に考えた人もあるでしょう。
筆者なども高校生ぐらいの頃に、友人とこんな疑問を語り合ったことを思い出します。私たちは第二次大戦の敗戦後の荒廃と混乱の時期に青春時代を送った世代ですから、いまの青年のみなさんとは違うのかも知れないとも思っていたのですが、最近、私の接する学生諸君や労働学校の青年労働者の人たちと話してみると、意外にも私たちの若かった頃と共通するところがあるらしいので、ちょっと驚いたり安心したりしています。
ずいぶん旧い話になりますが、昔、旧制第一高等学校の生徒であった藤村操という哲学青年が、「人生とは何ぞや。いわく不可解」という言葉を残して日光の華厳(けごん)の滝に投身自殺をした事件が有名となり、哲学を勉強しすぎると自殺したくなるらしいという俗説が世間に広がったりしました。自殺することはないと思いますが、彼も何のために生きるのかということに悩んだわけです。いまはそんなこともなくなりましたが、筆者の学生時代には、哲学科に進学したいというと親に反対され、止むなく法学部や経済学部に移っていくという雰囲気がまだありました。
旧い藤村操の時代から、現代にいたるまで「人は何のために生きるのか」という問題は、青年たちのぶつかる間題であり続けているようです。私たちはこの問題から考えていきましょう。
「人は何のために生きるのか」というこの問題は、きわめて抽象的な問いかけの形になっていますが、ここにはいろいろな具体的な間題がからまっていると思われます。
まずこの問いに直接に解答することはたいそう困難なことだということを告白しておかねばならないでしょう。比喩的な形で臨機応変の答えを出すことはできるでしょうが、理論的に整理され体系だてられた答えはできないと思われます。この問いは簡単な問いのようですが、少し考えてみると実に複雑な問題がからんでおり、しかも人びとの哲学的(思想的)立場によって多様な答え方がある問いだということがわかると思います。
石川啄木の歌に(『一握の砂』)
「さばかりの事に死ぬるや」
「さばかりの事に生くるや」
止せ止せ問答
というのがあります。
あまりにも早く世を去った詩人石川啄木のいかにも青年らしい歌の一つです。これは明治の青年たちの精神情況をよく示していると思われますが、同時に現代にもよく通じるテーマではないでしょうか。なんとも生きにくいこの世、死んでしまいたいほどでもあるが、やはり生きていたいといった青年の気持ち。しかし人生の目的について議論をしても簡単には答えは出ないよと彼はいい、ともかくもこの人生を生きてみるべきだ、一回かぎりの人生なのだからといっているように感じられます。いささか観念的ですが、ほほえましい歌です。人生の目的について明確な答えを見出せなくても、どんなに生きにくい人生であっても、私たちも勇気をもって生きていこうではありませんか。
ところで「人は何のために生きるのか」、「人生とは何ぞや」というこの問いは、これに直接に体系だった答えを出すことはきわめて困難な問いなのですが、したがって多くの場合、私たちはこの問いを胸の奥にしまいこんでいるのですが、しかし、@何かのはずみで思い出し、問い続けないわけにはいかない問いなのではないか。Aそしてこの問いはきわめて抽象的な形の問いであるけれども、この問いのなかには実はさまざまな具体的な問題がふくまれているのではないかと思うのです。
「人は何のために生きるのか」というこの問いは、人生の目的と自分の人生の価値とか意味とかを知りたいという要求でしょう。目的とか価値とか意味とかいうとひどく難解で観念的・抽象的なことがらのようですが、よく考えてみると具体的な現実が基礎となっていることがわかると思います。人がおかれている現実の条件はさまざまに異っていますから、この問いの出てくる現実的内容は人によってさまざまですが、それらをけっして抽象的なものとしてではなく、具体的なものとして把握することが必要ではないでしょうか。
具体的な現実のなかで
「人は何のために生きるのか」というこの問いは、たとえば青年たちが世間のしきたりや習慣、あるいは社会や政治に疑問を感じて、これらに反発し、自由でありたい、主体的でありたいという気持ちから出てくる問いであるかもしれません。
あるいはこの間いは、価値観が多様化して、何が善であり何か悪なのか、何か正義であり、何か不正義なのかといったことが解りにくくなっていることから、どんな価値観をもって生きたらいいのかわからないという問いであるかもしれません。
あるいはこの問いは「人は何のために働くのか」という労働の目的についての疑問をふくむものかもしれません。現代日本の超過密労働の現状から出てくる当然の疑問でありましょう。
先ほど紹介しました石川啄木も、前述の歌だけ読むと「さばかりの事に死ぬるや」「さばかりの事に生くるや」と人生の意味や価値について、抽象的なことをいっているようですが、彼は新聞記者としての安い賃金によって両親と妻子を養わねばならぬ明治の青年でした。
はたらけど
はたらけどなおわが生活楽にならざり
じっと手を見る
こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂げて死なむと思ふ
あまりにも有名な彼の歌ですが、ここにはきわめて具体的に彼の日々の労働と生活苦とそしてそれにもかかわらず前向きの労働への意欲が感じられます。
また彼は社会問題にも敏感で、たとえば一九一〇年に日本帝国主義が朝鮮全土を植民地支配するにいたったのを憤り、次の歌を残したのでした。
地図の上
朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ
秋風を聴く
人生の意味についての彼の疑問はそのような時代の現実を基礎として発せられた問いであったと思われます。
「人は何のために生きるのか」というこの問いは、学生などの場合には何のために学問をするのか、科学は何のためにあるのかという問いであるかもしれません。科学は大企業・大資本の利潤のために利用されるばかりで、労働強化や環境破壊をひきおこすなど人類の福祉に役立っていません。また学問の府であるべき大学が政府や財界によってゆがめられ単なるエリート養成機関に変えられようとしています。このような状況ですから、青年とくに学生諸君がこれらの問題に疑問をもたざるをえないのは当然であり、そのようなさまざまの疑問を集約して、「人は何のために生きるのか」という問いになっているのだと思われます。
先にふれた藤村操の場合でも、「人生とは何ぞや。いわく不可解」と書き残していて、まったく抽象的に人生に悩み、そして哲学の勉強をしすぎて自殺したように世間は誤解している傾きがありますが、彼の場合にも当時のさまざまな具体的な悩みがあったのだと思います。一説によると失恋問題が背景にあったともいわれていますが、ともかく哲学を勉強しすぎたから自殺したという単純なことではないと思われます。
人は何のために生きるのかという問いに、一般的なかたちで、しかも体系的な答えを出すことはきわめて困難だということを解ってもらえたでしょうか。そして人は「何のために生きるのか」という抽象的とも思われる問いのなかに、「生活の苦しさ」や「労働の厳しさ」や「人間関係のむずかしさ」などへの悩みがふくまれているかもしれないということ、人は誰も具体的に生きているのだから、ということを書いてきました。
(鰺坂真著「哲学入門」学習の友社 p18-25)
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科学的社会主義のものの見方・考え方というものは、私たちの活動の基礎でもあり、いろいろなものごとを考える根本でもあるわけですから、それを本当の意味で身につけるには、不断の勉強が必要です。その勉強には、本を読むこともあれば、実際の活動もあり、その活動を分析し、考えをめぐらすこともある。はっきり言えば、自分の生涯にわたって勉強を積みあげてゆくもの、きたえてゆくものだ、そういうつもりで取り組んでほしい、と思います。
(不破哲三著「科学的社会主義を学ぶ」新日本出版社 p11-12)
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◎「科学的社会主義のものの見方・考え方というものは……いろいろなものごとを考える根本でもあるわけですから、それを本当の意味で身につけるには……はっきり言えば、自分の生涯にわたって……積みあげ……きたえてゆくもの」。
◎労働学校を青年の中に広げることは青年にとってとても重大だ。