学習通信051012
◎やりがいのある仕事……

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やりがいのある仕事ってなに?

 突然、ヘンな話題だと思うかもしれないけれど、みんなは葬儀社の人に会ったことある? ほとんどの人は「ないよ」と答えるだろうけれど、中には「おじいさんのお葬式のときに手伝ってくれた背広の人たちが、たぶんそうだと思う」なんていう人もいるんじやないだろうか。

 どんな人の命もいつかは終わる。そのとき、たいていの場合は葬儀がおこなわれるわけだけれど、そのすべてを準備し、取りしきるのが葬儀社の仕事。亡くなった人をきちんとした葬儀で送り出したいと思いながらも、家族はショックや悲しみでなにも手につかないことが多い。だから、葬儀社の人たちの役割はとても重要だ。でも、ふだんから葬儀の話なんて縁起が悪い、と考える人もまだいるので、葬儀社の仕事の中身などはほとんど知られていないよね。どちらかといえば、社会を陰から支える地味な仕事。

 このあいだ、大きな葬儀社の社長さんと話す機会があった。とてもやさしくあたたかみのあるその社長さんは、おもしろい話を聞かせてくれた。「最近、うちの会社に就職したいという若者が増えているんですよ。就職難ということもあるでしょうけれど、どうもそれだけではないようです。別の企業に合格したのに、どうしても葬儀社に、と希望して来る人もいるのです」

 「若者たちは、これまで地味な仕事と思われてきた葬儀社に、どうして就職したがるのだろう?」私がそう質問すると、社長さんは答えてくれた。「それは、私たちの仕事が人を助け、感謝される仕事だからです。今の世の中、直接お客さんからありがとう、おかげで助かりました≠ニ言ってもらえる仕事は、なかなかないでしょう?」

 たしかにそうだ。ふつうの会社や役所につとめても、自分のした仕事が直接、だれかを救うという機会はまずない。私も大学で授業していて、学生に「先生、いいこと教えてくれてありがとう」なんて言われたことはない。病院では「ありがとう」と言われる場面もあるけれど、「ぜんぜんよくなりません」と苦情を言われることもけっこうある。心から「あなたのおかげで本当に助かりました! ありがとう!」と言われたことが、これまで何回あるだろう?

 それに比べれば葬儀社の仕事では、ほとんど必ず家族の方がたから「ありがとう」と感謝されるそうだ。仕事しながらも、「私は今、この人たちのために役立っているんだ」と実感することもできるはず。そう考えれば、若者が葬儀社を「やりがいのある職場」と考えるのは、とても正しいことのように思えた。

 お金とか世間の評判とかではなく、「やりがい」のある仕事につきたい、という今の若者たち。本当にやりがいのある仕事を見つけるのはむずかしいことだけれど、その気持ちを忘れずにがんばってほしいと思う。みんなにとって、「やりがいのある仕事」ってなんだと思う?

□あなたが仕事を選ぶときのポイントはなんですか
□給料は安いけれど楽しい仕事、給料は高いけれどつらい仕事、どちらを選びますか
□あなたのまわりに「やりがい」のある仕事をしているおとなはいますか
(香山リカ著「10代のうちに考えておくこと」ジュニア新書 p6-8)

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私たちが生きる資本主義社会とその矛盾

本来喜びである労働が

 人間の人生は、社会のしくみと無関係ではありえない。
 資本主義社会のしくみの中で生きる私たちの人生は、資本主義という経済のしくみからくる独特の法則によって大きく左右され、その法則を無視して、勝手気ままに生きようとしても、けっして真の自由を手にすることはできない。

 労働、つまり働くことは、人間にとって単に生活を維持するためだけのものでなく、労働そのものの中に喜びやおもしろさが潜んでいる。機械や道具を使って何かをつくるときも、ディズニーランドのような娯楽施設で子どもたちに夢と感動を提供するときも、医療・福祉の現場で患者や障害者に治療やケアをするときも、私たちは社会的な役立ちを実感し、自分白身の社会的な存在感や誇りのようなものを感じることができる。同時に労働そのものの中で、昨日できなかったことができ、昨日分からなかったことが今日理解できたなど、自分自身の人間的な成長が確認でき、うれしくなるものなのだ。

 ところがこんなにも意義深い「労働」が、資本主義というしくみのなかでは、労働者にとって「嫌なもの」「つらいもの」「苦痛に満ちたもの」になっていく。

 これをマルクスは「労働の疎外」とよんだ。労働者が苦労して生み出した労働の成果が資本家に搾取され、資本家の富がますます大きくなり、資本家が労働者を支配する力もますます大きくなる。労働者は人間なのに、人間らしく生きる力を奪われる。結局、労働者は働けば働くほど、自分で自分の首をしめる──こんな悲しいことがあるだろうか。

 生産の現場では利潤最優先の号令のもとで、「生産のための生産」がすすみ、人も自然も破壊され人間らしさがうばわれる。富の蓄積と同時に貧困が蓄積される。医療が「人を殺し」、教育が「人をゆがめる」。どんな仕事について働いてもそこで人間らしさが奪われ、自分が自分でなくなる。人間らしく、自分らしく生きるために、どうしてもこの社会のしくみそのものを変えなくてはならない。

資本主義の基本的な矛盾

 資本主義には基本的な矛盾がある。それは、生産が「社会化」されているにもかかわらず、生産手段の所有が「私的」なままであるというところにある。
 この「社会的」と「私的」という言葉に注目してほしい。

 つまり社会的に「みんな」でつくったものなのに、生産物が資本家の「私的なもの」となるというところに問題があるのだ。

 資本主義のもとでも自営業のように自分で生産し、自分のものとする、つまり個人的生産と私的所有という具合に矛盾しない場合もある。しかし社会の圧倒的な生産手段は一握りの大資本家のもとに集められ、労働者によって日々生産される巨大な富が大資本家によって私的に取得されている。これが基本矛盾だ。

 ところで生産された商品が売れてこそ、利益が手にはいるのだが、肝心の商品を買って消費する人々=働く人々の賃金は低く、その購買力が抑えられている。だから商品はそう簡単には売れるものではない。売れないのに生産しても意味がない。そこで生産は縮小、人員削減、ひどい場合は工場閉鎖、全員解雇となり、働く人々の暮らしを根底から脅かすことになる。

 長期にわたって深刻な不況が続く背景には、国民の消費購買力の低下がある。生産しても肝心の消費がすすまないというこの深刻な「矛盾」は、資本主義社会が続くかぎりつきまとう。資本家は激しい競争に打ち勝つために最近のIT化のように技術の革新に余念がない。しかし、恐ろしい勢いで生産力が引き上げられても、肝心の消費がまったく追いつかない。商店には商品が山積みされ、倉庫は売れない商品であふれる。そしてやがて経済恐慌へとつきすすむ──こんなことが何回もくり返されてきた。そのたびに多くの中小企業が整理淘汰され、幾百万の労働者が職を失い路頭に迷うという悲劇のなかで、一方では巨大な資本が形成されてきた。

 そしてイギリスなどの独占資本が19世紀後半から20世紀のはじめに、国内であきたらず海外に搾取の場を求め多くの国を植民地として支配し、軍事的な力を背景に侵略し、横暴の限りをつくしてきたのである。古代ローマ帝国やモンゴル帝国とはちがい、独占資本が他の国に支配の手をのばす。こうした帝国主義を現代帝国主義という。

 20世紀の100年間に、二度にわたる世界大戦があった。この戦争の根本原因も資本主義のしくみそのものにある。
(中田進著「人間らしく自分らしく」学習の友社 p54-57)

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◎「意義深い「労働」が、資本主義というしくみのなかでは、労働者にとって「嫌なもの」「つらいもの」「苦痛に満ちたもの」に……これをマルクスは「労働の疎外」と」。

労働学校で学ぼう資本主義社会のしくみを、そして働きがいを取りもどす活動へ。