学習通信051017
◎モーツァルトは生活者として……

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一九三九年 三月九日
 巣鴨拘置所の顕治から目白の百合子宛

 三日付の手紙有難う。七日着。『母』昨日届き、興味をもって読んでいる。『中国統一ヘの歩み』一応送る。大変有益なものだから読んで御覧。片上さんの全集が出たことはよかった。どの位収録され得るかと思うが、三巻の中にエッセンスを盛るには骨折だろう。

『その年』。こういうまともな姿勢なしには描き尽し難い主題を、今日のジャーナリズムヘ送ることが適当しているだろうかと考えられる位、今日作者としては困難があったことだろう。明確な印象が語られている程、ジャーナリズムの包容性とは反比例するのだから。

作家が、歴史的ブログラムの点で後退しないためには、どんな形で発表するかを顧慮しないで、書きたいものは十分に書き下す、芸術的にも理念的にも最大の成長力で。まじめに成長を志すためには、結局こういう努力が必要となるのではないだろうか。

ジャーナリズムの世界でも、出来るだけ価値ある現実的な主題を扱うことは作家としての健全さを示すものだが、今日の現実的可能をはっきり知って、真の第一義的創作は、自らそれに適当した形で育てて行く必要があろう。

外国や歴史の舞台に取材した象徴性ある作品は、狭くるしい場合のジャーナリズムに消極的な主題を送り得る一つの面となるね。ユリの久し振りの作品の誕生を祝うとともに、今からの勉強の困難さを感じた。同時にその中でまともに成長する者の栄誉ある課題をも。「えぐさ」のこと。『辞苑』でみると、のどに刺戟を残す味という意味の説明をしているが、要するに深い強靱さ、単音でない後味だね。ユリが正しく云っている通り「折れども折れざる線」とも云える。

これはディレッタント風でない強靱な生活力、意志と神経の貫徹した生活力か陪胎として生れるものだ。『信吉』や、『鋪道』がそのままになったのは、この生活力の内的必然としてでなく、当時の文学の大衆性の一面的理解や、ジャーナリズムの外部的注文等をモメントとして、いわば心臓からより頭脳でかかれたことに重要な一因子があると思う。生活条件の変化は『鋪道』の場合確かに不可避的要因をなしているが。

作家としても、生活者としも、努力の対象がその日暮し的な「快活な移り気」で変えられず、実に根気よく徹底的に追求されることは、大成のためには大切だと思う。生理学者パヴロフの遺訓がここでも想起される。「私は私」式の小市民的自主性でなく、真理に対する熱誠さに基く自律性に外ならない。僕はユリが作家としても、生活者としてもこの自律性によって、純粋な清澄さと、強靭な深さのある世界を築きあげることを深く期待する。僕等が今年の課題とした早寝や義務勉強も、この強靭な自律性の体得のための道標となるものだと考える。だんだん向上するだろうが、食事時間を五時間前後おくことが理想的なわけだから、そのためにも早起、従って早寝が否応なしに必要となろう。自分で種々の条件を考えて日常律をつくり、それが合理的である以上、最大限にそれに近づけることに「向上」が生まれるのだと思う。

 『詩集』には全く豊穣な物語があるね。山頂や泉のほとりの番人が、自然の光景の雄々しさに驚嘆して生れてはじめて真の自然の威力や美観に目ざめ、幾多の詩句を思わず唱えながら、しかも自身その詩句の魅力の深さを教えられて知るところなど、あの詩集の圧巻だった。

 寿江ちゃんの健康も先日の話で大分分った。大事に。暖い四月がくる。ユリも詩集や哲学の本や書きものや薬などでたのしく忙しいことだろう。
(宮本顕治・宮本百合子「十二年の手紙 上」筑摩書房 p144-145)

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 旅をしない人間は哀れな生き物


 モーツァルトの生涯にわたる旅にはどのような意味があったのだろう。遠くから自分の育ったところ、住んでいるところを絶えず振り返ってみるということ、そこに才能を開花させるための非常に大きな意味があった。モーツァルト自身が手紙の中で、「すべて自分は旅を通して学んだ。旅をしない人は石のような人間になる」と、そういう言い方をしています。モーツァルトの人生にとって、旅行が非常に大きな要素を占めていたことがわかる。ヨーロッパのあちこち、とくにイタリアにはよく行っています。

そういう旅の体験を通して、単に生きる知恵を得たというだけではなく、世の中がどんな変化をしているか、ヨーロッパがどのように変わりつつあるのかを肌で感じ、時代を大きな流れとしてとらえることを身につけたのではないだろうか。そういうことを手紙にまじめに書き記すということはなかった。書いているのは、近況のほか、出会った人のこと、変てこな事件、あるいは下がかった話とか、数字の遊びとか、言葉遊びのたぐいです。しかし、時代の変化はよく見ていたのではないかと思います。

 それはモーツァルトの生き方からわかります。彼はザルツブルクでの安定した地位を、ある時期に捨て去ります。宮廷のお抱え楽師だったモーツァルトには決まった年収があって、それなりの住まいや地位が保障されていました。しかし、彼がお仕えしていたコロレド大司教と、考え方や肌合いの違いがあって、それがモーツァルトに辞職を決断させたというのが通説になっている。

 たしかにそれも一つの理由でしょうが、それよりも、モーツァルトは時代が微妙なかたちで、しかし明らかに変化しているのを肌で感じていたのではないかと思います。ゆっくりとではあれ、貴族の時代から市民の時代に変化していく。貴族が社会の上層部を占めて国を支配している旧来の貴族社会、国王を頂点とした王政、そうした旧来の社会制度がかなりのテンポで崩れかかっている。コロレド大司教をはじめとするローマ・カトリックの大物たちも宗教的貴族です。とくにザルツブルクでは、大司教が同時に領主でもあり国の政治の長でもあった。大司教のもとに集まる司教たちは貴族にあたる地位をもち、宗教的権威と貴族性が重なっていた。モーツァルトは、そういう社会がいまや形骸化し、徐々に市民の時代に向かっているということを実感していたようです。

 モーツァルトが手紙に書いていることでおもしろいと思うのは、自分がどこで演奏するのかということを、常に両親、とくに父親に伝えていることです。「ミラノのこの劇場で演奏します。だから自分はこういう演奏をするつもりです」。あるいは「○○のホールの音の響きぐあいは非常にいい。たいへん気に入っています」とか、「あのホールではこのボックスがいいんです。このボックスで聴くのがいちばんです」というぐあいです。それはふつうの人からすると小さなことのようですが、モーツァルトにとってはとても大きなことだっただろうと思います。

 というのは、モーツァルトの音楽は非常に軽妙で、飛ぶような軽さと響きがあり、装飾がはっきりしている。演奏する場所によって音が湿るようなことがあってはいけない。音が澄んで乾いているということが、軽快で細やかなモーツァルトの音楽には必要な条件だった。だから自分が演奏する会場がどこであるかということは、モーツァルトにとってはたいへん大きな問題だった。こういうことを気にした音楽家は、あの当時、ほとんどいなかったと思います。

 モーツァルトの手紙にも、自分が演奏会場を気にすることを他人にいぶかしがられた、という意味のことが書かれています。しかし、自分の曲が演奏されるということは、作曲家にとっては表現の問題であって、表現者が効果に敏感であるのは当然でしょう。モーツァルトが演奏会場のことを考えるということは、つまりは自分の音楽をどのように考えたかということです。それは作家が自分の文体に気がつくのと同じようなもので、自分の音楽を批評家の目で見ていたということです。モーツァルトは、そういう目をもった最初の音楽家ではないか。

 自営業者の草分け

 天才モーツァルトと言われますが、生涯を通して苦労もなしに、わき出る水のようなかたちで名曲をつくりつづけたのでしょうか。むろん、そうではなかった。一時ひどいスランプ状態に陥っています。二十歳前後から数年間のモーツァルトは、いわゆるさえない状態でした。モーツァルト自身が自分に対して不満で、不快がっている。自分が自分の作品に対して気持ちよく接していられない。職務ですから作品はいろいろなかたちでつくらなければならなかったのですが、しかし、自分の創作ということに関して、そして生き方ということに関して、わき起こった疑問を払拭しきれず、自分を改革する決意を固めていた時期だった。

 モーツァルトは自分が仕えている君主、ザルツブルクのコロレド大司教とけんか別れのようなかたちで定職を捨てることになります。ちょうど三十五歳のときです。そのあと三十五歳で死ぬまでの十年余り、彼が住んだのはウィーンです。そして結婚し、子供が六人できた。

 モーツァルトに六人も子供がいたのか、といぶかしく思われる方がいるかもしれませんが、当時は生まれても育たないということがよくありました。モーツァルトの子供も六人のうち四人が早死にし、生き残ったのは二人だけ。モーツァルトはそういう家庭を支え、生活しなければなりませんでした。その意味で、彼が安定した地位を捨てたのは大きな決断だった。

 いわばサラリーマン生活を捨ててフリーになった。財産とか遺産などというものがあったわけではないので、音楽で稼いで生きた最初の音楽家と言える。多かれ少なかれ、誰もがお抱えでご主人さまからの頂き物で生活していた時代です。そうしたなかで、モーツァルトは演奏会の入場料、あるいはピアノの個人教授、それから楽譜の出版などによって生活しようとした。そう決断したのは、「自分はこれでやっていける。不安定ではあれ、家庭をもっても何とか生活できるはずだ」という確信をもったからでしょう。そのときに、ザルツブルクを捨ててウィーンに移り住んだ。

 ウィーンは当時、パリに次ぐ大都市です。人□でいうと二十万、郊外を加えると四十万近くの人々が住んでいた。しかし、モーツァルトは町の大きさよりも、ウィーンという都市のもつ特徴に自分の未来をかけたのだと思います。ウィーンに移ったあと、貴族たちとの世界から市民たちとの世界へと付き合いを移していきます。当時のウィーンの町では、新たに商売や事業を始めて成功した人たちが、次第に市民層として社会的地位を確立してきていた。

 そのような人々のために、モーツァルトは自分の演奏会を興行として催しました。自分のコンサートのための会場を自身で決め、自分で切符を売る。コンサートの切符も自分で作成し、それに割り印を押したりする作業もしていたようです。モーツァルトは生活者として、あまり見えないところで非常に地道な努力を続けた人でした。

 演奏会で支援してくれた人々に、次はその作品の楽譜を出版して買ってもらう。当時は著作権というものがありませんから買い取りです。どんなに優れた大作であれ、一度限りの収入ですから、それほど大きな頼りにはできなかったようですが、出版というかたちも生活を支えた一つでした。

 モーツァルトは、これまでのひも付き音楽師から脱皮し、お仕えの身ではなく、自分のワザでもって自由に生きた最初の人です。とてもおもしろい特徴だと思います。

 生活苦が生む芸術

 自立できると判断したのは、ヨーロッバ全体を旅しながらいろいろな町を見て、社会全体の変動というものを感じ取っていたからでしょう。いずれこういう方向に進んでいくからには、こういうかたちで職業が成り立つはずだという見通しを立てていたせいだと思います。

 この二十五歳からの十年間は、天才モーツァルトの才能がみごとに花咲いた時期です。才能とは、何かに専心すれば花咲くというものではありません。子供ができ、生活の苦労が一度に押し寄せ、絶えず不安がりながら、その場限りであれ、どんどん仕事をしていく。そのようななかでこそ才能は発揮され、いちばんよい作品が出てくるのではないでしょうか。どうも芸術とはかなり意地の悪いもので、理想的な条件を整えたからといって傑作ができるわけではなく、むしろ貧しい状況のなかで開花する。何とか今月の生活費を稼がなくてはいけない、とにかくこの注文の仕事をしなくてはならないと、そのような切羽詰まったなかでこそ、初めてみごとな作品が生まれてくるようです。

 オペラでいいましても、三十歳のときに「フィガロの結婚」、三十一歳のときに「ドン・ンョヴァンニ」、三十二歳のときに三大交響曲といわれる「第三十九番」「四〇番」「四十一番」、これらの名曲を実に短い期間につくりあげています。次いで、オペラ「コシ・ファン・トゥッテ」、女ごころを取りあげて、少し意地の悪いところもある作品です。そして亡くなる前に「魔笛」を完成させた。ほんの四年か五年のあいだに、われわれが絶えずオペラというと思い出す名作が立て続けにできあがっていくわけです。

 モーツァルトはこの時期、非常に不安定で、暮らしの見通しが立つようで立たないような状態でした。そんな生活苦のなかで、初めて彼の才能が開花したといえる。

 たとえば「コシ・ファン・トゥッテ」、女はみんなこんなものだ、という意味合いのタイトルのオペラです。女ごころの移り気がテーマになっていて、男と女、二組の男女がお互いをだまし、だましたつもりがだまされているという、そんな恋のさやあてを描いた喜劇調のオペラです。だましだまされるのがゲームであり、ゲームが音楽を成り立たせている。お互いにだまし合い、だまされたふりをする。あるいはだましたつもりでだまされていることを知っていて、しかもだまされたことには気がつかないふりをする、といったぐあい。このいろいろな「ふり」というのが、ゲームのときのさまざまな手にあたるわけです。そして、そういう要素がこのオペラをつくりあげている。ゲームだからルールがあり、ルールに基づいて恋を楽しむ、あるいは恋のさやあてを楽しむ。恋愛をからかったようでありながら、このオペラはとても知的なものです。

非常に知的な遊びで成り立っている。恋というものはだましだまされながらも、裏切り裏切られながらも、しかし、とても楽しくてすてきなことだ、ということが全体にわたって語られている。

 その知的な遊びのおもしろさ、恋にからめた楽しさが序曲から終わりのめでたしめでたしというところまで一貫して流れている。

 モーツァルトの妻はコンスタンツエといいますが、それほど音楽に深い理解がある女性ではなかったようです。しかし、家庭のなかのモーツァルトは、よきお父さんとして振る舞っていたし、場合によっては、子供以上に子供っぽい父親というモーツァルト像が見えてくる。彼は服が好きで、着物道楽でした。ちょっと気が向くとすぐにフロックを買ってみたり、そろいのものだとか、セパレーツだとか、やたらに派手な服を買ってくる。

それを着て家族をおもしろがらせたり、おどけてみたりした。仕立て屋と壁紙の職人に未払いがたくさんあったと記された『遺品目録』という資料がありますから、服や部屋の模様を変えてみるのが好きだったのだと思います。立て続けに大作を仕上げていくという天才モーツァルトと、派手な服を着て子供をおもしろがらせている背の低いちょっと太り気味のお父さんとが、同じモーツァルトであるというところがおもしろい。

 フリーメイソン

 二十八歳から亡くなる三十五歳までの七年間、モーツァルトはフリーメイソンという組織に入ります。フリーメイソンは、ふつうは「秘密結社」といわれている。

 フリーメイソンとモーツァルトというのはやっかいな問題で、多くの人がさまざまな説を立て、いろいろな資料を引用した研究書が多数ありますが、最終的にはよくわからない。本来、秘密結社ですから、文書とか記録をあまり残さないのです。組織そのものが文書や記録を残さないという前提に成り立っているので、後付けがしにくい。ただモーツァルトがフリーメイソンに入ったことは確かだし、フリーメイソンの会合に出席している情景を描いている絵もありますから、ある考えがあり、その考えのもとにそういう組織に入り、そしてある役割を果たしていたことは確かです。

 フリーメイソンのフリーとは「自由」という意味です。フリーメイソンについてはいろいろな見方があるので、ここではあまり触れませんが、ただ時代とともに生まれて、その時代を真剣に考える人であれば、やはり自分もその結社に入ってみたいと思うような、そういう組織でした。

 当時の身分制社会は、国王がいちばん上にいて、大公、大貴族、そして貴族層がいるという縦につながっている社会でした。すべてが縦系列で、ピラミッド型をした頂点に王、権力者がいる。こういう縦型社会のなかにあって、秘密結社は身分制をいっさい問わず、身分を超えて活動する横型の組織です。身分を問わないで社会を見、あるいは社会を変えるために、横の組織としてできあがっていった。その場合、時の権力、組織と表立った衝突をしないために、秘密というかたち、秘密というルールを基本にすえて変化を促そうとした。

社会の矛盾が見えてきて、亀裂が始まり、これまでの縦の構造ではそれが解決できないと感じた人々が、横の組織として結社というものをつくってきた。モーツァルトが非常に早い時期に、しかもかなり真剣な思いをもってこの組織に入ったことは間違いないでしょう。

 最後の「魔笛」という作品は、フリーメイソンの思想を盛り込んだオペラではないかという解釈があります。その解釈にただ従うだけではいけませんが、やはり「魔笛」がフリーメイソンと関係があるということは事実だろう。フリーメイソンの組織内で用いられたコミュニケーションの道具にあたるものと、「魔笛」に使われているものがよく似ています。フリーメイソンは、絵図とかジェスチャーとか、身につける飾りでもって意思を伝えました。「魔笛」がそういう思想をある程度代弁するものであったという見方ができます。

 楽しく生きる

 モーツァルトは音楽の世界だけではなく、社会や自分が生きている時代というものをとても真剣に考えていたと思います。その真剣さの内容は、のちの考え方とはいささか質を異にしているかもしれない。モーツァルトにとって、人生というのは楽しく生きるためにあった。日常生活は、もちろん心配したり、悲しんだり、絶望したり、怒ったりするものだが、そうであっても、やはり人生は楽しく生きるためにある。社会もまた楽しく生きるためにある。しかし、楽しく生きようとすると障害が出てきてしまう。管理とか、警察の規則だとか、教会のお達しなどというものです。

 モーツァルトが死ぬ二年前、一七八九年にフランス大革命が起こります。社会の大変動となる最初の事件です。革命というのは非常にわかりやすい社会の変動の徴ですが、もっと目立たない変化の兆候、集会を規制する規則だとか、広場で催しをするときの禁止項目といったものが次第に増えていく。モーツァルトは音楽というかたちで人々を楽しませる人ですから、どうしても広い場所とか演奏会場とかが必要になる。そういうときに、これまでは何の問題もなかったところに、いろいろと規制が始まり、当然、許可を取らなくてはいけない、ということが多く起こってくる。要するに、人間をこまかく規制する社会に変化していった。

 モーツァルトはベートーヴェン(一七七〇〜一八二七)より、わずか十四年ほど早く生まれただけなのに、モーツァルトのことを調べようとすると、文書が少ないので苦労する。ところがベートーヴェンになると膨大な資料があります。何月何日にベートーヴェンがどこそこで演奏したときに、どういう人が来て、何時から何時までやって、何時に終わって結果はどうだったということまで、全部調べがつく。それほど文書が多い。広場で、あるいは教会で演奏するとなると許可願いを出し、その許可がどう聞き届けられて、どういうかたちで実現して終わったか。そのあとどういう金銭的な処理がなされたか、などということもすべてわかります。いわば管理社会に入っていくわけです。

 もう一つ、モーツァルトの時代と比べてベートーヴェンやシューベルト(一七九七〜一八三八)の時代になると、音楽家の大半が独身者です。結婚に関心がなかったのではなく、結婚できなかった。モーツァルトのときには問題がなかったのに、シューベルトの時代になると、年収の証明書を出さないと教会が結婚を認めない。音楽家は年収というものが非常に不安定ですから、証明書が先に出せません。すると教会が結婚を認めない。しかし人間は結婚はできなくても恋愛はします。したがって、結婚しないで生まれる子供たちが非常に増えてくる。そういう社会構造であるからには当然のことでしょう。
(池内紀著「自由人は楽しい」NHKライブラリー p25-38)

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◎「作家としても、生活者としも、努力の対象がその日暮し的な「快活な移り気」で変えられず、実に根気よく徹底的に追求されることは、大成のためには大切だと思う」と。