学習通信051018
◎自分がむけてくるという感覚……
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一九三九年三月十八日
目白の百合子から巣鴨拘置所の顕治宛
机の上の瓶の紅梅は、もう散りかけたので下のタソスの上にもってゆき、今はおひささんが夜店で買って来た菜種の花。よみせの薄暗がりで買っただけあって到って貧弱な茎や葉をしていて。
初歩の経済について、古い好人物大工のウエストンさんの説の誤りを正してやっている文章。実に面白くよんで居ります。チンダルのアルプス紀行は、科学者が科学について書く文章の実に立派な典型であって、ファブルなど誤りの甚だしい一例と感じましたが、こういう種類の文章の見本として文学的にさえ面白い。
手に入っていること、底の底までわかっていること、情熱をもってつかんでいること、あらゆる現実の解明の見事さは、それなしには文章の輪郭の鮮明ささえもない。
芥川龍之介の文章は作文です。嘘ではない。しかし彼の力がとらえ得る狭さをスタイルの確固さでかためようという努力がつよくみられる意味で作文的です、少くとも。文学の永生の一要素はスタイルであると彼はいい、メリメを愛した。しかし面白いわね、彼が今日および明日よまれるとして、それは彼の生涯の歴史的な矛盾の姿がよませているのだから。この場合、スタイルさえもその矛盾の一様相として現れている。
こういう筆致の生きている文学史が書きたい、今日の文学史が。ひどくそういう欲望を刺戟します。小説も書きたいと思わせる。この筆者の親友の筆致はこうしてみると含んでいる何かがすこしちがいます。親友も実に卓抜であるが、こんなにはわたしを自身の仕事へかり立てない。これは興味がある点です。特にこの文章は大工のウエストン爺さんにわかりよいと同じに私にわかりよいからでもあるでしょうが。
この本の中にこういう忘れられない一句がありました。「時間は人聞発展の室である」時は金なりという比喩との何たる対比。人間が生活と歴史について、まじめな理解を深めれば深めるほど、時間がいかに人間発展の室であるかを諒解してくる。「睡眠、食事等による生理的な」云々と、時間の実質が討究されているわけですが、こういう一句は適切に自律的な日常性というあなたからの課題へ還って来て、それの真の重変性というか、そのものが身についたときの可能性ポテンシャリティの増大について、人間らしい積極性というものが、決して低俗な几帳面さと同じでないということについて理解させる。(益々よく、という意味。)(中略)
何と私たちは尻重でしょね(この複数は、あなたと私というより、私程度の誰彼のこと)人間よりも動物らしいでしょう。生活にあるはっきりとした美しさというようなものの味い。非常に高い程度の簡明さ。それは決して単純ではない。亜流的文学は、この頂点を目ざさず、紛糾の現象的追っかけに首をつっこんだきりです。はっきりとした美しさの現れるためには欠くべからざる集注力、統一力、ひっぱる力。えぐさもまたその一つとして含まれていると思われます。そういう情熱の湧き得る人生の源泉はどこにあるかということ。ここの究明に至ると、そこにある新鮮さは不死鳥的なものがあります。
ね、私の宿題の表も些か形式からその本質へすすみつつありますね。
──略──
十七日。
(さて、この頃十番以内になるためには相当の馴れを要します。)
十四日づけのお手紙をありがとう。十六日着。小説のことはいろいろと経験になって大変有益でした。一面にはあんなに書きたくて、心こめて書いたものだったから、反対の効果であったりしなくてよかったというようなところもあります。主題の性質についての話、それから以前からジャーナリズムとの角度について云っていらしたこと、それらが極めて具体的に納得されました。そのことでは多くのものを得ました。習慣でジャーナリズムを一義のように考えるといっていらしたことね、その点も複雑な現実性でわかり、これまでその限界というものは十分に見つつ、書いてゆく気持ではやっばり一番自分にのぞましいものにとりついているところ、その辺デリケートで、あなたがいっていらした真意もどちらかというと一面的に理解していたようなところがあります。
(中略)一つ二つならず会得したことがあって(書いて生活してゆかねばならぬものとして)生活的にも興味があります。文学の問題としてみると、際物でない作品に対する要求は自然の勢としてつよいのであるが、その要求の表現が、非現実な夢幻的な方向に向ったりしがちであることも、現実の語りかたの条件の反映として強く現れています。今に鏡花でも再登場するかもしれず。露伴までかえっているのだから。
勉強は十二日以来相当量進捗して居ります。今経済に関する初歩。三つの不可分の要素はわかります。そして、今日のトピックに沈潜するためにも、文学の展望の上にも尽きぬ源泉として活気の基になることもわかります。(十五日の雑談でも語っていますが)。勉強などというものは、ある程度深入りすると一層味が出てもう自分から離さなくなる、そこが面白い。そしてそこまでゆくのが一努力というところも。
(中略)こっちの側をよくもりたてて、五円よりはすこし、よけい収入もあるように計ってやってゆきましょう。増上慢の語。これは古い言葉ね。おばあさんが、ほんとにまア増上慢だよとか何とか云っていたのを思い出します。女の科学や芸術の分野における悲劇ということは実によくわかります。低さから生じる。ちやほやしてスポイルするのも低さなら、頭を出すのもぐるりの低さから、そして自身の裡に十分その低さと同質のものがあることを自覚しないところ、「えらい」ように自分を思うところ、そこに悲劇の胚種があります。(中略)
男の生活の低さ、その一段下の低さ。そういうものは本当に一朝一タに解決されないもので、実に歴史の根気づよさがいると思われます。本年は私はどこか心の底に絶えぬよろこびがあります。それは自分がすこしずつ、すこしずつ点滴的だが変って来つつあることを感じていますから。そして、じっと考えればこれは私たちの生涯にとって一つの大切な転機をなしつつあるのだと思います。去年から今年にかけてね。このことは考えるたびに一種のおどろきの感情を伴います。自分がむけてくるという感覚。
これは何という感じでしょう。いくつかの山や谷を通ったことです。或期間は、全くあなたが、自分の足をただ受け身にだけ動している私を押して坂をおのぼりにもなったのだから、本当にすまなかったし、今は表現以上のありがたさです。そして忘られないのは、栄さんへの手紙で書いていらしたこと。一点の辛さは女の成長に限界をおいていないからだという一句。あれが私を電撃したときの心持。窒息的な女房的なものの中に自分から入っていることを知ったびっくり工合。(自分に直接宛てて書かれているものから、それをよろこびとしてつかみ出さずにいることのおどろき、ね)あすこいらが悪い状態のクライマックスをなします。私たちの生活の中に決して二度とくりかえすまいと思う圧感でした。
今になってあの時分のこと考えると、クリシスというもの(ひろい生活的な意味で)の性質がわかります。ああいう風に風化作用的にも浸み込む、或は出る、のね。日参のおかげで、その期間があれだけで転換の機会が来たと思います。私の盲腸炎はそんなことからいっても何だか実に毒袋がふっきれた感じね。毒々しかったと思う。
伝記については、云われているその点にこそ私の文学的人生的興味の焦点があるのです。日本の文学の歴史の推移との連帯で。それではじめて日本の作家が世界的な作家の評伝をかく意味が生じるわけですから、私たちの生活というものがぎゅっとよくまとまって、能率もましてくればうれしいと思います。もとのリリシズムの一層たかめられた実質での私たちの生活というもの。そのことを考えます。──以下略
(宮本顕治・宮本百合子「十二年の手紙 上」筑摩書房 p145-149)
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労働者が労働日をもとの合理的な範囲にまで短縮しようとくわだてるのは、あるいは彼らが法律による標準労働日の制定を強制することができないばあいに賃金の引上げ──たんに強制された剰余時問に比例するだけでなく、それよりも大きな比率での賃金の引上げ──によって過度労働を阻止しようとくわだてるのは、彼ら自身と彼らの種族にたいする義務をはたすだけのことである。労働者は資本の暴虐な強奪を制限するだけである。
時間は人間の発達の場である。思うままに処分できる自由な時間をもたない人間、睡眠や食事などによるたんなる生理的な中断をのぞけば、その全生涯を資本家のために労働によって奪われる人間は、牛馬にもおとるものである。彼は、他人の富を生産するたんなる機械にすぎず、からだはこわされ、心はけだもののようになる。
しかも近代産業の全歴史がしめしているように、資本は、もしそれをおさえるものがなければ、むちやくちやに情容赦もなくふるまって、全労働者階級をこの極度の退廃状態におとしいれることをやるであろう。
(マルクス著「賃金、価格および利潤」新日本出版社 p170-171)
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◎「人間が生活と歴史について、まじめな理解を深めれば深めるほど、時間がいかに人間発展の室であるかを諒解してくる」と。