学習通信051019
◎酸素の真の発見者……
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一九三九年三月十九日
目白の百合子から巣鴨拘置所の顕治宛
手紙がかたまらずに着くと思うとうれしいこと。
発見ということについてこの序文(第二巻への)の中になかなか面白いことが云われて居ります。酸素のことですが。十八世紀には酸素がまだ知られていないで、物の燃えるのは、燃素という仮定的物体が燃焼体から分離されるからと考えられていたのですってね。
十八世紀末にプリーストレーという科学者が燃素ともはなれて、一つの空気より純粋の気体を発見し、又誰かが発見したが、二人ながら従来の燃素的観念にとらわれていて「彼等が何を説明したのかということさえ気づかずに、単にそれを説明しただけであった」ところが、パリの一科学者が燃素が分離したりするのではなくて、新しいこの光素(酸素)が燃焼体と化合するものであることを発見し、真の発見者となった、と。そして「燃焼的形態において逆立ちしていた全科学をばここにはじめて直立せしめた」と。
経済関係の基本的な点にふれて云われるが、どうもこの燃素的観念というものは、ひとごとならず笑えるところあり。文学における現実の発見とは何であるか。作家の内的構成がどんなに主観的範囲に限られて在ったかということを思います。自分の生活でだけ解決していることを、社会的に解決したように思ったり。現実の発見ということは文学を直立せしめるものであり、其故(それゆえ)なまくらな足では立たせられぬというところでしょう。面白い。
十四日の手紙で、文学の対象は(芸術家の対象と書かれています)無限に広いと云っていらっしゃる言葉。翫味百遍。この短い言葉のなかに、どれだけの鼓舞がこもっているでしょう。それから、私の二十三信にもかきましたが、ジヤーナリズムとの角度のこと。私はひとりクスクス笑っているのです。だって、これも発見の一つでね。あなたという方の発見の一つの面をなすので。私は非常に単純ね。甘やかしていえば一本気とも云えるかもしれないが、そういうお鼻薬は廃止にしたから、やっぱりこういうところに、苦労知らず(ジャーナリズムとの交渉で)のところがあるのだと思う次第です。なかなか興味がある、発見というものは。私は幸だと思います、こういう発見をも世渡りの術的には発見しないでゆくから、(或はおかげさまで)。
こういう点について考えると回想がずーっと元へまで戻って一つの場合が浮びました。それは私たちが一緒に生活するようになったとき婦人公論で何かその感想をかけと云ったでしょう、そのとき私が三四枚真正面から書いて、戻してよこしたことがあったの覚えていらっしゃるかしら。あのことを思い出します。そしてああいう風にしか書かなかったことを。──今ならきっと、読む女の人の生活を考え、客観的に諸関係を考え、書けたでしょうね。自分より、ひとのためにね。そんなこともよく考えてみると面白い。(中略)
ねえ、ここにこういうことがあります。「我々は自分で理解するという主たる目的の」ために二冊の厚い八折判の哲学の原稿を書いたということ。──自分で理解するためにそれだけの労をおしまなかった人たち。その労作がこのようにも人類生活に役立つということ。こういう展開のうちに花開いている個性と歴史。自分そのもののひろく複雑豊富な内容。この文字はこれまでその本の解説にもついていてよんだのですが、新しくうけとるものがあります。私は自分で理解するためにどれだけの努力がされているでしょう。
これについて又もう一つ面白いことがある。人間の内容のレベルということについて。一定以上の内容の到達をとげている人は、坐臥の間に、それ以下の人間がウンスウンスと机にかじりついている間にしか行わないことを行い得るということ。そういう練達のこと。休む時間に高等数学をしたときいて私はびっくりするけれども、休む時間に私が小説をよむといったら、本をよむのが休みかとおどろく人もあると思えば、人間の段々とは長いものですね。でも本当に、私は自分で理解するためにどれだけのことをしているでしょう。文学においても。再び文学のプログラムのことが浮ぶ。これは他の誰彼にわかっていないように私にも分っていない。正しく今日までの過程も跡づけられていない有様です。かえって踏みかためられた小道には雑草といら草とが茂っているままです。
この二巻の選集をあなたから頂いたのは一昨年のことでした。私たちの満五年の記念に。なかなかこまかい編輯です。ダイナミックな編輯ぶりです、科学の三つの源泉を、より深い勉強へと導く形において。
十九日。きょうは朝大変寒くて水道が凍りました。乞食が来ておむすびを呉れというので梅干入れてやった。この頃こういうのは珍しい。金をくれと大抵いいます。
日曜だから、けさは、こうやっていると安心するだろう、といっていらしたそういう工合のなかで暫くじっとして、雀の声をきいて居りました。月曜日にゆけるようにしておいて本当によかったこと。なかなか先見の明がおありだと思いました。四曰なんかもたない、そう思いました。
この前の日曜の私の手紙、ロダンの手のことを書いた手紙、もう着いている頃でしょう。土曜にそのお話はなかったけれども。おひささん、結婚をする相手の人がいやというのでもない、しかし勉強もやりたい気がするというので全く落付かず。きょうもその二つのことで出かけるとか出かけないとか、朝飯もたべずきょろついています。
生活というものを型にはめて、おかみさんになればもうあり来りのおかみさん生活ばかりをするように考え、勉強するといえば御亭主なんかと思う。それがそもそも古臭いので、相手がちゃんとした人で、いずれ一緒になっていい人と思うならば、ぐずくせず一緒になって、相談して、一年ぐらい勉強やれるように生活を組み立ててゆくのが本当だということを私はいうのですが。一生一緒に暮すのだから一年待てない訳はないというのは変で、一生一緒に暮すなら、一年ぐらいの暮し方を相談してやれない法はない、という考えかたでなければ。けれどもおひささんをみて、自発的な愛情からでなしに結婚に入ろうとする若い女の人たちの心理がよく思いやられます。男の方には、様々の理由から結婚は内容的にリアルであって、或はリアルすぎる位ですが、ああいう若い、感情遊戯などですれていない娘にとって、結婚はきわめて抽象的な内容で、しかも形ではごくリアリスティックに迫って来るので、たじろぐところが生じるのですね。
私としてもいい経験となります。おひささんはごくフランクに相談するから。きよう、勉強のことも打ち合わせかたがた相手の人に会おうとして、いるところへ電話かけたら(八時前)留守。勤め先へかけたら休み、だそうですとがっかりしています。何だか、普通大森辺の工場につとめている廿八九の男の生活としてピンとくるものが私にはあるが、おひささんはどう考えているかしらと思って居ります。私は黙っている。しっかりした人という定評があるのだそうですが、ボロを出さないという形でのしっかり工合では、とも思われます。普通の男の普通らしさとして一緒になれば、故障になるようなものでもないかもしれず。わきでみていると気になります。
さて、これから一勉強。きょうから過去の経済に関する学問への批評にうつります。
この本は厖大な一系列の仕事が多年にわたってどのような一貫性で遂行されてゆくかということについて、実に興味ふかくまじめなおどろきを感じさせます。そしてますます前の方にかいたこと、即ち自分自身に理解するために、努力しつくす力、紛糾の間から現実の真のありようを示そうとする努力というものが偉大な仕事の無私な源泉となっているか、云わばそれなしでは目先のパタパタではとてもやり遂げ得るものでないことが痛切に感じられます。文学作品の大きいものにしても全くおなじであり、プランデスだって十九世紀の文芸思潮に関するあれだけの仕事は、その日暮しでしたのではなかったこと明白です。更にそのように無私で強力なバネを内部にもち得るということそのものが、どんなに強力な現実把握上で行われるかということも語っています。
専門的に云えば、私は極めて皮相的な一読者でしかないことを認めざるを得ない。宝が宝としての価値の十分さでわからない。何故ならそれだけの準備がないから。しかし現実の問題としてははっきりわかります。そこが学者でないありがたさ。面白いわね。
このような突こみ、総合性、様々に示唆的です。心にある文学的覚書(その中で文学のブログラムをわかってゆきたいと考えている)の核へ種々のヒントが吸いよせられてゆく。この前書いたものを継続して、而も文学の諸相をもっとも歴史の土台に深く掘りさげてかき、その過程でブログラムについても理解してゆきたい、そう思っているので。一年に一つずつそういうものを百枚か二百枚かいて、一よりニヘと深めひろげて行ったらずいぶん面白いものでしょう。子供っぽい正義派的フンガイなんかよりもね。
法律より経済の方が面白いということ、わかる気がします。
さあここでめぐり会った。亀井氏を筆頭とするロマンチストたちが盛に引っぱりまわして、ごみだらけにしていた一句が。(芸術に関する)例のギリシア神話のことです。「困難はギリシア芸術及び史詩(ホーマー)が或る社会的発達形態と結びついていることを理解することにあるのではない。困難はそれらが今も尚われらに芸術的享楽を与え、且つ或点では規範として又及びがたい規範として通るのを何と解するかにある。」ここを引用し、
「人類が最も麗しく展開されている人類の社会的少年時代が、二度と還らぬ段階として何故永遠の魅力を発揮してはならぬというのか?」「彼等の芸術が吾々の上に持つ魅力は、それを生い立たせている未発達な社会段階と矛盾するものではない。魅力はむしろ後者の結果であり、未熟な社会的諸条件──その下にあの芸術が成り立ち、その下にのみ成り立ち得たところの──が、ニ度と再び帰らぬこと、はなれがたく結ばれている」
等を引用して、全く逆に使った。そして、「大人は二度と子供には成れぬ」という意味の深さ、更に「子供の純真は彼をよろこばせ、彼は更にその真実をより高き平面に復生爪しようと努めないだろうか」と云われていることの文学における現実の意味はまるでかくしておいたこと。
「あらゆる神話は想像において、想像によって、自然力を征服し、支配し、かたちづくる。だからそれは自然力に対する現実の支配が生ずると共に消滅する」というのも何と面白いでしょうね。
菜の花の色はこの紙に押してつかないかしら。駄目ね、花粉、がつくだけで、しかもすぐとんでしまいました。長くなるからこれでおやめにいたしましょう。きょうは寒いこと。それなのに大潮の由。潮干狩、この寒さでやる人もあるかしら。虹ケ浜に潮干狩があるのでしょうね、やっぱり。では又。
(宮本顕治・宮本百合子「十二年の手紙 上」筑摩書房 p149-153)
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化学の歴史は、そのことを一つの例によってわれわれに示すことができる。
周知のように、前世紀の末にはまだ燃素説が支配していたが、それによれば、すべての燃焼の本質は、燃焼物体から他の仮説的物体──すなわち燃素という名で呼ばれた絶対的可燃物質──が分離することにあった。この説は、ときにはこじつけでなくもなかったが、当時知られていたたいていの化学的諸現象を説明するには十分であった。ところが、一七七四年にプリーストリーが一種の気体を製出して、
「それに比べれば普通の空気もすでに不純に見えるほどにそれが純粋である──すなわち燃素を含んでいない−ことを、彼は見いだした」。
彼はそれを無燃素気体と名づけた。その後まもなくスウェーデンのシェーレが同じ気体を製出して、それが大気中に現存することを証明した。彼はまた、その気体のなかまたは普通の空気のなかで物体を燃焼させればその気体が消滅することを発見し、それゆえその気体を火気体と名づけた。
「そこでこれらの結果から、彼は、燃素が空気の一成分と結合するさいに」{すなわち燃焼のさいに}「生じる化合物は火または熱にほかならず、それがガラスを通して逃げ去るという結論を引き出した」。
プリーストリーもシェーレも酸素を製出したのであるが、彼らは自分たちがなにを手にしたのかわからなかった。彼らは「眼前に見いだすがままの」燃素説的「諸カテゴリーに依然としてとらわれていた」。燃素説的全観点をくつがえして化学を革命するはずの元素も、彼らの手のなかでは実を結ばずに終わった。
しかし、プリーストリーは自分の発見をその後すぐパリでラヴォワジエに伝えたのであり、そこでラヴォワジエはこの新事実をよりどころに燃素化学全体を研究し、この新気体は新しい化学元素であること、燃焼時には不可思議な燃素が燃焼物体から出て行くのではなく、この新元素が燃焼物体と化合するのであることをはじめて発見し、こうして、燃素説形態でさか立ちしていた全化学をはじめて脚で立にせた。
そして、彼は、彼がのちに主張しているように、他の二人と同時に、しかも彼らとは無関係に、酸素を製出したのではないとしても、やはり依然として彼は、酸素をただ製出しただけで自分たちがなにを製出したかに感づきもしなかった両者と比較すれば、酸素の真の発見者なのである。
剰余価値論でのマルクスとその先行者たちとの関係は、ラヴォワジエとプリーストリーおよびシェーレとの関係と同じである。われわれがいま剰余価値と呼んでいる生産物価値部分の実存は、マルクスよりもずっとまえから確認されていた。同じく、それがなにからなっているかということ、すなわち、それにたいして取得者がなんの等価物も支払っていない労働の生産物からなっているということも、多かれ少なかれ明瞭に述べられていた。しかし、それ以上には出なかった。
一方の人々──古典派ブルジョア経済学者たち──は、せいぜい、労働生産物が労働者と生産諸手段所有者とのあいだに分配される量的関係を研究しただけであった。他方の人々──社会主義者たち──は、この分配が不公平なことを見いだし、この不公平を除去するためのユートピア的諸手段をさがし求めた。両者とも依然として、自分たちが眼前に見いだすがままの経済学的カテゴリーにとらわれていた。
そこヘマルクスが登場した。しかも彼のすべての先行者たちに直接に対立して。先行者たちがすでに解答を見たところに、マルクスはただ問題だけを見た。
マルクスは、ここにあるのは無燃素気体でも火気体でもなく酸素であることを──ここで問題なのは、一つの経済的事実の単なる確認でもなければ、この事実と永遠の正義および真正な道徳との衝突でもなく、経済学全体を変革することになった一つの事実、またその用法を心得ている人に資本主義的生産全体の理解のための鍵を提供する一つの事実であることを──見た。
彼は、この事実をよりどころにして、ラヴォワジエが酸素をよりどころにして燃素説化学の既存の諸カテゴリーを吟味したように、既存のすべてのカテゴリーを吟味した。剰余価値がなんであるかを知るために、彼は、価値がなんであるかを知らなければならなかった。リカードウの価値論そのものがまず第一に批判にかけられなければならなかった。
すなわち、マルクスは、労働の価値形成的質を研究し、そしてはじめて、どのような労働が、またなにゆえ、またどのようにして、価値を形成するかということ、および、およそ価値とはこの種の労働の凝固したものにほかならないことを、つきとめた──これは、ロートベルトゥスが最後まで理解しなかった点である。
次にマルクスは、商品と貨幣との関係を研究して、どのようにして、またなにゆえに、商品に内在する価値属性によって、商品および商品交換が商品と貨幣との対立を生み出さざるをえないかを立証した。この立証の上に築かれた彼の貨幣理論は、最初の完璧な、そしていまでは暗黙のうちに一般的に承認されている貨幣理論である。彼は貨幣の資本への転化を研究して、この転化が労働力の売買にもとづくことを証明した。
彼は、ここで、労働の代わりに労働力を、価値創造的属性をもってくることによって、リカードウ学派の破滅のもとになった諸困難の一つ、すなわち、資本と労働との相互交換を労働による価値規定というリカードウ流の法則と調和させることの不可能性を、一挙に解決した。彼は、不変資本と可変資本とへの資本の区別を確認することによって、はじめて、剰余価値形成の過程をその真の経過においてきわめて詳細に叙述し、こうしてそれを解明するにいたった──これは、彼の先行者たちのだれ一人としてなしとげなかったことである。
こうして彼は、資本そのものの内部に一つの区別──ロートベルトゥスもブルジョア経済学者たちもこれにはどうにも手をつけることができなかったが、しかし、経済学のもっとも複雑な諸問題を解決するための鍵を提供する区別──を確認したのであり、このことについては、ここでふたたび第二部が──そしてやがて明らかになるようになおそれ以上に第三部が──きわめて適切な証拠となる。
彼は剰余価値そのものの研究をさらに進めて、それのニつの形態──絶対的剰余価値と相対的剰余価値──を発見し、そして、これらの形態が資本主義的生産の歴史的発展のなかで演じた相異なる、しかし両方いずれの場合も決定的な役割を立証した。
彼は、剰余価値を基礎として、われわれのもつ最初の合理的な労賃論を展開し、またはじめて、資本主義的蓄積の歴史の基本的特徴とこの蓄積の歴史的傾向の叙述とを与えた。
(マルクス著「資本論D 第二巻 エンゲルスの序言」新日本新書 29-33)
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3 近代化学の成立ヘ
気体化学
エジンバラ大学医学部で学位論文を書いた翌年、ブラックは炭酸ガスを発見しました<一七五五年)。これはキャヴェンディシュの水素ガス(一七六六年)、プリーストリ(一七三一〜二八〇四)による酸素ガスの発見(一七七五年)へのきっかけとなり、当時のイギリスに気体化学の時代を出現させました。ところでこの炭酸ガス発見のさいの材料になったものは、その論文名『マグネシア・アルバ、生石灰その他の若干のアルカリ物質についての諸実験』が暗示するように、当時の織物仕上げに使われた木灰汁や石灰水などのアルカリ物質と無関係ではありませんでした。
もっとも、医学部にいたブラックにとっぞ、アルバ(炭酸マグネシウム)は制酸剤や下剤の原料、石灰水など結石の治療薬とさえ考えられていましたが、アルバについての学位論文をおえ、研究が生石灰(その上澄液が石灰水)にうつると医薬の範囲にとどまるわけにいかなくなったのです。
ところで、ブラックの炭酸ガス発見のしかたは定量的方法の模範といわれます。質のちがいを量を測って追求するという近代化学の研究法はここで確立したといってよいでしょう。かれは石灰石を加熱して生石灰にしますが、酸を作用させて両者の質のちがいをたしかめます。石灰石は泡立ちますが生石灰はちがいます。このちがいを目方を測ってしらべます。すると、生石灰の目方は石灰石の目方の約半分にへっています。では残る半分は?と、かれはこれをつかまえ「固定空気」と名づけました。これが炭酸ガスです。
かれはこの気体が実在する証拠を示す例として、弱いアルカリである木灰汁(炭酸カリ)に石灰水を加えると強い苛性カリになる現象をひき、これは木灰汁のなかの炭酸ガスが分離して生石灰と結びつき石灰石となることによっておこることを、はじめて明らかにし、かれの研究が織物仕上げ業としっかりつながっていることを証明しました。
新しい燃焼理論
一七七三年春、ブラックの論文がフランスで紹介されましたが、これはラヴォアジエによる近代化学成立に決定的影響を与えました。
すでにそのときラヴオアジエは、古い燃焼理論フロギストン説に疑いをもっていました。物が燃えるとは、物のなかの「もえるもと(フロギストン)」が出ていくことだというその説は、金属が加熱燃焼して金属灰になるとき目方がふえるという昔から知られている増重現象を十分説明できませんでした。ラヴォアジエは別の道を考え、この現象は空気の一部が金属に化学的に結びつくためではないかと考え、いろいろ実験してたしかめようとしました。しかしフロギストン説をすっかり追い払って、新しい燃焼のしくみを考え出すまでにはいたりませんでした。ここでブラックの定量的方法が決定的な役割を果たしたのです。
とはいえ、燃焼前後の金属の目方を測れば十分だというのではありません。というのは、一六七四年、ボイルがレトルト(蒸留用などの化学実験器具)中でスズを燃やし、それが増重したのは、レトルトの底を通過してきた正体不明の「火の粒子」の付着のためだといっていたことに反論できないからです。一七七四年、ラヴォアジエは百年ぶりにボイルの実験をやりなおし、こんどは燃焼前後のスズだけでなく、この化学反応に参加した空気やレトルトにいたるまでの総和を測り、それが不変であることをたしかめました。すると、レトルトの目方はかわらないのですから、スズの増重分は、その分だけの空気の一部が付着したためであって、決して「火の粒子」の付着のためではないことがわかりました。つまりラヴォアジエはブラック定量的方法を発展させ「質量不変」の考えをここで整え、フロギストン説に対したのでした。
一七七七年、ラヴォアジエは水銀の燃焼実験に質量不変の考えを応用しました。レトルトに水銀をいれ加熱燃焼させると、赤色水銀という金属灰となり増重します。まえと同様、燃焼前後でこれに参加する物質の総和を測りそれが不変であることをたしかめて、空気の一部が水銀に結びつくことを証明しました。しかも、この空気の一部こそブリーストリが発見したばかりの酸素ガスであることを、逆に赤色水銀を加熱燃焼させて水銀にもどしたときに放出される気体とその容積がぴたり一致することからたしかめました。こうしてラヴォアジエは、もはやフロギストンの助けをかりずに、燃焼とは酸素との結びつきだという新しい燃焼理論に到達したのです。
質量不変の考えは、近代化学の基本原理です。新燃焼理論が近代化学成立へのテコになったのは、それが質量不変の考えで裏うちされていたからです。ラヅォアジエは有名な『化学教科書』(一七八九年)のなかで質量不変の考えを「すべての操作において、その前後に等量の物質が存在する」と定式化しました。
この年勃発したフランス革命のなかで、ラヴォアジエは一七九四年、ギロチンの露と消えました。これはかれが偉大な化学者であったためでなく、王にかわって重税をとりたて、大もうけをする徴税請負人の一人だったことが主な原因です。私は化学研究がなお大衆的でなく、こういう役職を買いとって荒かせぎをせずには化学研究ができなかった一人の化学者の悲劇をここにみるのです。「その首を断つには一瞬でよいが、同じものをつくるのに百年を必要とするだろう」──こう当時の数学者ラグランジュは語ったといいます。
(大沼正則著「科学の歴史」青木教養選書 p150-152)
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文学における現実の発見とは何であるか。作家の内的構成がどんなに主観的範囲に限られて在ったかということを思います。自分の生活でだけ解決していることを、社会的に解決したように思ったり。現実の発見ということは文学を直立せしめるものであり、其故(それゆえ)なまくらな足では立たせられぬというところでしょう。面白い。