学習通信051022.23 合併号
◎立場をはっきりさせる……

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 こういうことになるのは、「意識」・「思考」をまったく自然主義的に、或るなにか与えられたもの・はじめから存在に、自然に、対立しているもの、というふうに、受け取るためである。

そんな考えかたをすれば、意識と自然とが、思考と存在とが、思考諸法則と自然語法則とが、非常によく一致している、ということは、実際この上なく奇妙に思えるに違いない。

しかし、さらに進んで、それではいったい思考と意識とはなんであり、また、どこから生まれてくるのか、と尋ねてみれば、それが人間の脳の産物であるということ、人間自身が自然の一産物で、自分の環境のなかでまたこの環境とともに発展してきたのだ、ということ、このことがわかるのである。

そうすると、人間の脳が生み出したものも、結局のところやはり自然産物なのだから、残りの自然連関と矛盾するのではなくて照応するのだ、ということが、実際またおのずから明らかになるわけである。
(エンゲルス著「反デューリング論 上」新日本出版社 p53-54)

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この三つのクイズで、その人の立場が明らかになる

 私はここで、観念論者がどんなに複雑な論法をもってこようが、絶対にそれに負けないで、自分の立場をはっきりさせることのできる、二つのクイズを紹介しておきましょう。これは、私が考えだしたものではなく、レーニンが『唯物論と経験批判論』のなかで展開している議論を、整理してまとめたものです。このクイズヘの回答を見れば、その人が唯物論者であるのか、観念論におちこみかけているかが、よく分かります。

 第一のクイズは、「あなたは、人間が生まれる前に地球があったことを認めますか」です。世界は自分の頭のなかにだけあるという考え方の人、あるいは意識こそが先にあって、それが世界を生み出したという考え方の人にとっては、人間の意識がなければ世界はないはずです。今日の歴史科学が明らかにしているところでは、人間が生まれたのは五百万年前ですから、それ以前は世界がなかったことになってしまいます。

 ここをつかれると、観念論者はみな困ります。レーニンがあの本を書いた当時、観念論者のなかには、「人間が生まれる前でも、恐竜の意識のなかに世界があった」という議論をもちだした人もいたようですが、ここまで行ったらおしまいです。

 第二のクイズは、「あなたは、人間は脳の助けを借りて考えていると思うか」、言い換えれば、「脳の助けなしに、人間の思考活動ができると思うか」です。

 脳についての科学がここまで発達してきた今日では、答えは簡単明瞭です。脳の一部が損傷を受けただけでも、そこが重要な部分だったら、人間はまともな思考ができなくなります。しかし、そのことを認めてしまったら、脳というのは物質ですから、物質的なよりどころなしには、思考はない≠ニいうことを、いやおうなしに認めざるをえなくなります。だから、このクイズも、観念論者の心臓をぐさりと剌す質問となるのです。

 第三のクイズは、「あなたは、他人の存在を認めるか」です。徹底した観念論者だったら、世界は自分の意識のなかにあるだけなのですから、自分以外の人間も、意識のなかの世界の一部分にすぎないわけで、客観的に存在しているとは、認められないはずです。

 だから、このクイズもまた、観念論のいちばん痛いところをついた質問になります。世界を自分の意識のなかの存在だと主張する観念論者が、そのことを本に書いて世間にひろめたり、学校で教壇にたって学生にそのことを説いたりする。奇妙な話ではありませんか。この人の立場から言えば、それは、自分の意識のなかにしかいない相手に向かって、本を売ったり、自説を説いたりするということですから。自分の学説と矛盾することを平気でやっているということは、この人が、心のなかでは、他人の存在、したがって客観世界の存在を信じている、ということではないでしょうか。

 このように、いま紹介した二つのクイズというのは、観念論の痛いところを正面からつく質問であると同時に、私たちのものの見方、考え方を整理して、唯物論的な立場をはっきりさせることに役立つ質問となるのです。
(不破哲三著「科学的社会主義を学ぶ」新日本出版社 p32-34)

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◎「人間の脳が生み出したものも、結局のところやはり自然産物なのだから、残りの自然連関と矛盾するのではなくて照応するのだ」と。