学習通信051024
◎新しい労働学校開校にあたって……
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対話の創造力
及川和男
私が作家になる以前の、銀行労働者としてのたたかいを通じてつかんだ最大の教訓は、「要求なくして行動なし、行動なくして組織なし」ということでした。どんなに正しい目標をかかげた組織でも、そこに参加する人間の要求に発する行動が、たえず生きいきとしてあらねば、組織は活力を失って形骸化し、官僚主義がはびこることでしょう。そして官僚主義は、不対等・不平等の人間関係の現われでもあります。
私は、組織の活性化とは、たえざる民主化への道程に生まれる人間的よろこびなのだと思います。人間と人間が深い信頼に結ばれて、「自分たち」と熱く連帯を確認しあえることこそ活性化なのだと思います。
そのために、私は真の対話がいまこそ必要だと考えます。私は、対話というものが大きな人間の力を創造する力をもっており、本来、それは運動そのものなのだと信じます。
私は最近、目本最劣悪の不健康な村から、日本一の健康村に自己変革をとげた老人医療無料化発祥の地「沢内村」のことを本にして、対話のもつ大きな力に学ばされました。
沢内村の自己変革は、正しい理念と方針にもとづく対話の運動からはじまったのです。正しい理念というのは、人間の尊厳をとことん尊重するという民主主義であり、それを命と健康を守ることから出発させるということでした。沢内村には、「一人ひとりがせい、話しあってせい、みんなでせい」という「三せい運動」が合言葉になっていまも生きています。これは、自主性・民主性・共同性というものの深い連関を、きわめてわかりやすく表現したもので、カナメのところに対話があるのです。
私は、学んだことを伝えたいと思います。対話というものは、たんなる会話ではない、意志伝達で完了してしまうのではないということです。対話の最小単位は、一対一の人間です。対話は、おたがいの要求にもとづくホンネでの話しあいであり、それは一方向的ではなく双方向的であり、対等平等の人間の信頼関係を創りだすことそのものです。
この信頼関係=連帯を創りだすためには、おたがいに相手を自分とはちがう人格であることを認めあう、おたがいの人間的尊厳と権利を認めあうことが必要です。対話の前提であり、かつ対話の到達点でもあると思います。対話のなかから、おたがいの権利意識も高まり、やがて相手のなかに自分を発見しあい、自分たちという連帯感が生まれていくのだと思います。
個我のバラバラな状態から、対話によって人間の信頼関係を創りだしていくことは容易ではないでしょうが、しかし、私たち一人ひとりの内部には、ふりつもる不満や要求がいっばい詰まっています。みんな、人間としての豊かさにむかって飢えています。そこをホンネで語りあえる、まずちいさなグループでもよい、人間連帯の場を創りだそうではありませんか。対話のもつ創造力は、私たちの人間の証明であり、未来をきり拓く武器です。
(「わたしたちの選択 あなたの未来」労働旬報社 22-24)
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第2回 「対話していますか?
私たち劇作家は、「話し言葉を書く」という特殊な仕事を職業としています。「話し言葉」というと、皆さんは、お喋り(=会話)のことを想像すると思います。しかし、人間の話す言葉は、お喋りだけではありません。
演説、談話、教授、対論、対話、会話、独り言などなど、人間が話す言葉には、様々な種類があります。そして、この様々な「話し言葉」を、色とりどりに描いていくことが劇作家の仕事になります。
とくにその中でも、近代演劇を支えるのは、「対話」だと私は考えています。そして、この「対話」を考えるためには、まず「対話」と「会話」を区別する必要があるのです。
ここで言う「対話」とは、英語のDialogueにあたります。「会話」は、Conversationです。この二つは、日本語ではあまり区別がなく、辞書などでもきちんと表記をされていないのですが、私なりに簡単に定義づけると、
「会話」=親しい人とのお喋り
「対話」=知らない人との間の情報の交換や、知っている人同士でも価値観が異なるときの摺り合わせ
となります。
──略──
自分の意志や価値観をきちんと伝える
たしかに日本人は、対話が苦手です。
しかしこれからの若い世代は、好むと好まざるとにかかわらず、国際化された社会に生きていくことになります。
そこでは、自分のことを何も知らない人々と出会い、お互いの価値観や文化を超えて、理解し合えるように努力しなければなりません。
また、日本の社会の内部でも、大きな変化が起こっています。人々の価値観が多様化した現代社会では、これまでのように強い目的を持った大きな集団(国家や企業)に代わって、ボランティアやNPO(非営利組織)、あるいはスポーツや文化活動のためのサークルといった小さな集団が、人々をひきつけるようになるでしょう。このような現代社会では、一人ひとりが、自分の生き方を見つめ、どのような集団の中で生きていくかを自ら選択していかなければなりません。
そのとき皆さんは、まず新しい集団を選ぶときにも、また自分が選んだ集団の内部でも、自分の意志や価値観をきちんとした話し言葉で他人に表現できなくてはなりません。さらに、異なる価値観を持った小さな集団が、大きな社会で共存していく上では、お互いの価値観を理解するための交流のための言葉が不可欠のものとなってきます。
ここでは、これまでの日本社会を支えてきた、「一致団結」「心を一つに」といった「協調性」を重んじる考え方よりも、一人ひとり違う価値観を持った人間が、どうにかしてうまく共同体を運営していくための「社交性」が重要になってきます。
私は、日本人は対話が苦手だと書きました。また、近代演劇は、対話によって成り立っているとも書きました。そうすると、三段論法で考えると、日本人は演劇は苦手だということになってしまいます。
しかし、私はそうは考えていません。私たち日本人は、対話が苦手だからこそ、そのことをしっかりと意識することができます。対話を前提とした西洋で生まれた近代演劇を、もう一度きちんと見直す作業も、日本人だからこそできる部分があると信じています。
(「NHK日本語なるほど塾=@平田オリザ「対話」してみません」04年6月号 日本放送出版協会 p23-33)
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こうした調査結果やルポルタージュにみられるように、今日の日本の多くの子どもたちは、自分の現在の生活に空虚さを感じ、充実した生活を求めながら、その願いを追求し発展させられる人間的諸関係をもちえず、生活をつくりかえきれずに、いらだち無力惑にとらわれている。そして、こうした状態のなかで、いじめや暴力や非行や自殺にはしる子、非合理主義的・精神主義的なものにとらわれてしまう子、安易な「自己実現」に逃避する子たちが生まれてきている。
いま、親や教師に求められているのは、子どもたちの屈折した生活表現のなかに、現在の生活の充実と「まともな人間」への成長の切実な要求を見てとり、それを子どもたち自身が自覚し、彼ら自身の力で発展させていくように、子どもたちに働きかけることである。そして、子どもたちへのそのような働きかけは、「子どもとの対話」という言葉でとらえるのがふさわしい。
同時代人としての子どもへの共感
それでは、子どもと対話しようとする親や教師は、子どもにむかうときに、どのような精神の働きを自らのうちによびおこすことが求められるであろうか。
私たちが子どもと対話するためには、まず、私たち自身が、自らの生活と意識の現状を直視し、その問題と課題についての把握を深めながら、子どもを、日本の社会のなかで私たちと同じ問題と課題をかかえて生きる同時代人としてとらえ、同時代人としての共感をもって子どもに接することが重要であろう。
(田中孝彦著「子育ての思想」新日本新書 p69-70)
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植物は栽培によってつくられ、人間は教育によってつくられる。かりに人間が大きく力づよく生まれたとしても、その体と力をもちいることを学ぶまでは、それは人間にとってなんの役にもたつまい。かえってそれは有害なものとなる。
ほかの人がかれを助けようとは思わなくなるからだ。そして、ほうりだされたままのその人間は、自分になにが必要かを知るまえに、必要なものが欠乏して死んでしまうだろう。
人は子どもの状態をあわれむ。人間がはじめ子どもでなかったなら、人類はとうの昔に滅びてしまったにちがいない、ということがわからないのだ。
わたしたちは弱い者として生まれる。わたしたちには力が必要だ。わたしたちはなにももたずに生まれる。わたしたちには助けが必要だ。わたしたちは分別をもたずに生まれる。わたしたちには判断力が必要だ。生まれたときにわたしたちがもってなかったもので、大人になって必要となるものは、すべて教育によってあたえられる。
この教育は、自然か人間か事物によってあたえられる。わたしたちの能力と器官の内部的発展は自然の教育である。この発展をいかに利用すべきかを教えるのは人間の教育である。わたしたちを刺激する事物についてわたしたち自身の経験が獲得するのは事物の教育である。
だからわたしたちはみな、三種類の先生によって教育される。これらの先生のそれぞれの教えがたがいに矛盾しているばあいには、弟子は悪い教育をうける。そして、けっして調和のとれた人になれない。それらの教えが一致して同じ目的にむかっているばあいにだけ、弟子はその目標どおりに教育され、一貫した人生を送ることができる。こういう人だけがよい教育をうけたことになる。
ところで、この三とおりの教育のなかで、自然の教育はわたしたちの力ではどうすることもできない。事物の教育はある点においてだけわたしたちの自由になる。人間の教育だけがほんとうにわたしたちの手ににぎられているのだが、それも、ある仮定のうえに立ってのことだ。子どものまわりにいるすべての人のことばや行動を完全に指導することをだれに期待できよう。
だから、教育はひとつの技術であるとしても、その成功はほとんど望みないと言っていい。そのために必要な協力はだれの自由にもならないからだ。慎重に考えてやってみてようやくできることは、いくらかでも目標に近づくことだ。目標に到達するには幸運に恵まれなければならない。
この目標とはなにか。それは自然の目標そのものだ。これはすでに証明ずみのことだ。完全な教育には三っの教育の一致が必要なのだから、わたしたちの力でどうすることもできないものにほかの二つを一致させなければならない。しかしおそらく、この自然ということばの意味はあまりにも漠然としている。ここでそれをはっきりさせる必要がある。
自然とは習性にほかならない、という人がある。これはなにを意味するか。強制によってでなければ得られない習性で、自然を圧し殺すことにならない習性があるではないか。
たとえば、鉛直方向に伸びようとする傾向をさまたげられている植物の習性がそれだ。その植物は、自由にされても強制された方向に伸びつづける。しかし、樹液はそのために未来の方向を変えるようなことはしない。そこで、植物がさらに伸びていくと、その伸びかたはふたたび鉛直になる。
人間の傾向も同じことだ。同じ状態にあるかぎり、習性から生じた傾向をもちつづける。しかもわたしたちにとってこのうえなく不自然な傾向をもちつづけることもある。しかし、状況が変わるとすぐに、そういう習性はやみ、ふたたび自然の傾向があらわれる。
教育はたしかにひとつの習慣にほかならない。ところで、教育されたことを忘れたり、失ったりする人があり、またそれをもちつづけている人もあるのではないか。このちがいはどこから生じるのか。自然という名称を自然にふさわしい習性にかぎらなければならないというなら、右のようなわけのわからないことを言わなくてもいい。
(ルソー著「エミール -上-」岩波文庫 p24-26)
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◎「対話は、おたがいの要求にもとづくホンネでの話しあいであり、それは一方向的ではなく双方向的であり、対等平等の人間の信頼関係を創りだすことそのもの」と。