学習通信051025
◎爽やかな合理のこころ……

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進歩について

進歩の兆候

 前にも引いたポリアの『いかにして問題をとくか』(柿内賢哲訳、丸善)の第三部「発見学の小事典」のなかに「進歩の兆候」という項目があって、次のように書きだされている。

 「コロンブスと彼の仲間が未知の海を渡って西の方に行った時に、鳥の飛ぶのをみるたびに元気づけられた。彼らはそれが陸地に近い証拠だと考えたからである。しかし、そうではないとわかると、そのたびにまたすぐがっかりした。彼らは別のしるしを求め、海草が流れていたり、雲が低くたなびいていたりすると陸地が近いと考えたが、それもいつも失望に終わった。しかし、兆侯がふえてきて、ついに一四九二年の十月十一日に……」

 このあとはしらべてみると『コロンブス航海誌』からの引用で、重訳のせいかわかりにくいところがあるから、最近岩波文庫で出た林屋永吉氏の原典からの直接訳に従うと──

 「パルデラ鳥が飛来し、青い蘆が船近くを流れていった。ピンタ号の乗組員たちは、一本の茎と棒をみつけ、さらに、鉄器で細工したと思われる棒切れと、茎の端切れと、陸地に生えている草と板切れを拾いあげた。ニーニャ号の乗組員たちもまた、陸地の証拠となるようなほかのものや、蔓がからみついた棒切れを見つけた。こうした証拠の品々を見て、全員は生気をとりもどし喜び合った」

 『コロンブス航海誌』からの引用はここまでで、そのあとにふたたびポリアの文章がつづく。

 「そうして次の日陸地をみ、新世界の最初の島を発見したのであった。われわれがしようとしていることが大切であろうとなかろうと、われわれの問題を一生懸命とこうとしている時には、 コロンブスとその仲間か陸地に近いというしるしを待ち望んだのとちょうど同じように、進歩のしるしを求めようとのぞむのである。われわれは次に何か解答の近いことを示すしるしであるかということについて、二、三の例をあげて示そうと思う……」

コロンブスの夢?

 しるしを待ち望むのは数学の問題をとくのに苦心している場合だけではない。私たちは時のしるしをとらえようとものぞむ。

 しかし、たとえ私たちが「陸地のしるし」をとらええたとしても、それが「めざされた陸地」のしるしであるとは必ずしもかぎっていない。コロンブスについていえば、彼は「宮殿の屋根がすべて純金でふかれ、たくさんある部屋の床もまた、厚さが指二本もある純金で敷きつめられている」という黄金の島シバングに行くつもりだったのだ。彼はたどりついた陸地を、そのシパングから程遠からぬインド東端の一部だと信じた。しかし、実際にはそれはバハマ諸島であったし、実在の日本は黄金の島などではなかった。

 そうだ、歴史における進歩なんて、黄金の島シパングの夢みたいなものだ、という人がある。そういうのが目下流行の説であって、ややこしい話だが、進歩を認めないのがすすんだ頭、進歩を信じるのはおくれたやつ、ということになってきているらしい。

 十九世紀の歴史学者ランケの名を呼ぶ人もいる。一つひとつの時代はそれ自身で完結しており、独自の価値をもつものとしてそれぞれが神に直結している、とランケは主張した。こうして彼は、歴史における進歩ということを否定したのだった。

 同じような考えが、いま生物学でも流行となりつつある。生物のさまざまなグループは、みなそれぞれに独自の、完結した生き方のパターンをそなえているのであって、後から現われてきたものの方がその前にあったものよりも「進化している」などと考えるいわれはない、というのである。

 まして人間の場合には──とある人はいう。そもそも人間は、本能がこわれたサルだ。本能がこわれるということは、現実への適応能力を失うということ。この狂ったサルは、そのために滅亡しかけた。が、たまたまそのなかのいくつかの集団が、それぞれの集団ごとに共同の幻想をつくりだし、それによって現実と擬似的に適応していくすべを見つけだした。この共同幻想がいわゆる「文化」だが、比較的安定した共同幻想をつくりだすことができた集団は、それだけ安定した生活をいとなむことができた。そこで彼らは、いわゆる「未開」のままにとどまっている。これに反して、共同幻想が不安定だった集団は、一定の状態におちつくことができず、いわゆる「文明の進歩」という症状を呈するにいたったのだ、と。(岸田秀『二番煎じものぐさ精神分析』青土社)

現代の希望

 人間が、つねに歴史の進歩を信じてきたわけではない、ということは事実である。進歩の思想というものが存在しない、そんな時代もあった。どこまでも停滞をつづけるだけのような、その意味ではそれなりに「完結」した社会、進歩ということを問題にしようがないような、そのように見える社会も存在した。──では、いまの時代、いまの社会は?

 ある会合で私は、私の若い友人の発言をあわただしくメモした。
 「進歩が問題になるような社会とは、進歩を問題にするような人びとが〔多数〕いる社会である」
と彼はいった。

 その基礎にあるあなたの価値観は、という問にたいしては──
 「他人との関係に無関心である社会より、他人との関係に関心をもつ社会の方がよい、ということです」

 それからまた──
 「人とつきあって、つきあいがいがあると思うようになること、これが希望です」

 「人間はみんな平等だということは事実ではない。事実でないことを大きな声で叫ぶような社会は発展する、と思います」

 現代には希望がある、と私は思う。このような会合がそこにあり、このようなことばがそこで語られるということ、そこに進歩の兆候がある。私もまた自分自身、このような兆候の一つとなりたいと思う。

『土曜日』の声

 一九三六年から三七年にかけて、『土曜日』と題する週刊新聞が京都で発行されていた。それは反ファシズムの文化新聞で、巻頭言のおおくは中井正一の手になった。

 その一つ(一九三六年十二月五日)は、次のようにはじまっている。
 「或る人たちは、或いは世の中はもっと悪くなるかもしれないという。そのいろいろの理由をあげ、その必然を説いてくれる。……世の中がもっと悪くなることを知っていることが、あたかも歴史の全部の知識であるかの如く、弁証法の全部であるかの如くである。果たしてそうであろうか」そして、次のように結ばれていた──

 「歴史は横から見られるよりも、その中に入って、それを支えることを求めている。男も女も諸君の一つ一つの小さな手が、手近な生活の批判と行動を手放さない事を、真理は今や切に求めている」
 「真理は見ることよりも、支えることを求めている」というのが、この巻頭言のタイトルであった。

 中井の手になるその他の巻頭言のタイトルだけを(すべてではないが)ついでに書き技いておこ。

「生きて今此処に居ることを手放すまい」
「星を越えて、人間の秩序は、その深さを加える」
「虚しいという感じだけに立止まるまい」
「どんな小さな土の一塊でもよい、掌にとって砕こう」
「人間の最後の勝利への信頼が必要である」
「秩序が万人のものとなる闘い、それが人間である」
「人聞を見くびること、それが一番軽蔑に値する」
「生きた人間が人造人間に敗けてはならない」
「手を挙げよう、どんな小さな手でもいい」
「人間は人間を馬鹿にしてはならない」
「平凡な人間の声、人民の声の中に真実はある」
「大衆の中にはためく新しい詩の精神がある」
「なげやりな気持が人間を空虚にする」
「爽やかな合理のこころを持ちつづけて」

 以上を書き抜いたのは、たんに過去の記録としてではない。少なくとも私にとってそれらをたんに過去の記録とさせぬために書き抜いた。
(高田求著「新人生論ノート PART U」新日本出版社 p188-194)
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進化は進歩ではない

 もう一つ、よく見られる誤解は、「進化が起こると生物はだんだんに進歩していく」という考えでしょう。これは、「下等動物」・「高等動物」という言い方とも関係があり、進化を、あたかも「下等動物」から梯子を上って「高等動物」に至る道筋であるかのように見る見方です。

 進化とは、生物が時間とともに「変化」していくことであって、その変化は必ずしも「進歩」であるとは限りません。第二「進歩」という言葉には、悪いものから良いものヘという価値観が入っていますが、なにが良くてなにが悪いのでしょう? 「下等動物」・「高等動物」という言い方は、細菌のように、からだの体制が単純で神経系も簡単な作りをしているものを「下等」と言い、サルのように、からだが複雑で神経系がよく発達しているものを「高等」とする価値観に基づいています。そして、この考えではもちろん、もっとも高等ですぐれた存在が「人間」ということになります。

 しかし、自然淘汰に目的はないのだし、進化は、人間という「高等な」生き物を生みだすように進歩を重ねてきた過程なのではありません。図9を見てください。進化は、左のような梯子ではなく、右に示したような枝分かれの過程です。現在、この地球上に見られるすべての動物は、ミミズでもハトでもイチゴでも、人間と同じように進化の最先端にいるのです。

 最初に生じた生物が単純な単細胞生物だったので、多細胞の複雑な生物は、確かに、あとになってから生まれました。しかし、寄生虫になって他の動物の腸の中で一生を送るようになった生き物の中には、祖先が持っていた内臓を失ってしまったものもいます。つまり、彼らは、進化の結果、より単純なからだになりました。進化は、単純な一つの梯子にそった進歩の過程ではなく、さまざまに異なる環境に適した、さまざまに異なる生き物を生みだす枝分かれの過程なのです。

適応は万能ではない

 本書の中で、これまでに何度も、生き物がいかにうまくできているか、生き物がいかに素晴らしく適応しているかを述べてきました。目は、ものを見るためには素晴らしくうまくできており、ヒマラヤを渡るインドガンが薄い空気から酸素を効率良く取りだすなど、完璧と言ってよいくらいに思われます。しかし、自然淘汰は目的をめざして行われるものではなく、進化は進歩ではないので、適応も必ずしも完璧なものを生みだすわけではありません。適応は、万能ではないのです。

 先に、変異は、その生き物が住んでいる環境とは関係なく、ランダムに出てくるものだと言いました。生き物の暮らしにとって理想的な性質を作り出すような変異がたまたまあったときには、ほとんど完璧と言ってもよいほどの適応が生じるでしょう。しかし、そんな都合の良い変異がなかったときには、仕方がありません。

 私たちの頭のうしろに目がもう一つあったなら、きっとたいへん役に立つことでしょう。私たち人間に限らず、いつも捕食者が襲ってこないかとびくびくしながら採食しているリスやヒツジたちも、三つめの目があった方がずっと便利で適応度が高くなるはずです。しかし、三つめの目を頭の後ろに持っている動物はいません。そういう変異が生じなかったからです。

 ところで、ここにあげたような誤解は、かなり広まっている誤解だと私は思うのですが、自然淘汰の考えには、どうしてこのような誤解がつきまとっているのでしょう? それは、私たち人間が、つねに目的をもって行動し、つねに、きのうよりは今日のほうがよくなるように進歩しようとしているからだと思います。私たち自身がつねにそのようにしているため、私たちは、他の生き物を見るときにも、そのような目標と進歩と完成という見方から逃れられないのではないでしょうか?

 しかし、何百万といる他の生き物が、みんな人間が考えるような目標を持って生きていると考えるのは、人間中心主義というものです。生き物を観察するときには、私たち人間の価値観を離れて虚心坦懐に見る必要があるでしょう。
(長谷川真理子著「進化とはなんだろうか」岩波ジュニア新書 p52-55)
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◎「私たち自身がつねにそのようにしているため、私たちは、他の生き物を見るときにも、そのような目標と進歩と完成という見方から逃れられないのではないでしょうか?」と。