学習通信051026
◎1941年……

■━━━━━

一九四一年九月十日
 駒込林町の百合子から巣鴨拘置所の顕治宛

 随分久しい御無沙汰になりました。この前は八月廿ハ目に書いたきり。あとはパタパタさわぎで、あなたもくしゃみが出るほど埃をおかぶりになったというわけです。

 きょうは私としてはいい雨よ。やっといくらか落付きましたから。自分の机をおくところだけ、どうやら埃の中から島をこしらえて、となりの室や廊下にはまだがらくたの山をのこしながら、エイ、と今日はすこしものを書いてさっき送り出したところです。

 八月廿九日に林町へ行って、さて、とからかみをあけて長大息をして、それからはじめて五日までに一応あっちのものをこっちへもちこめるようにして、目白の荷は三日にもち出しました。九月一日に、何と話が間違ったのか荷車が一台来て、ふとん包みなんかもち出して、一日おいて三日にオート三輪四遍往復して、あとリヤカー二台で大きいものを動かしました。本がえらくてね。重量も大きいし。それから同日にもう一人来て貰って二階へはこびあげて、畳もいくらか埃をはたき出して貰って、ともかく納めました。本はまだそのままよ。玄関わきの書生部屋に入っていて、これには閉口です。どうしたって出さねばならないから。五日には派出婦さんに一日休みをやって七日の目曜日に佐藤さんが引越しました。

引越しをすると、本当に簡単に暮したいと思いますね。私たちのような生活でさえやっぱりいろいろとごたごたがあるわ。としよりのいる家なんか全く大したものです。何のためにそういうものがとってあるかと思うようなものまで、やはり引越しについて来るのですものね。

 月曜日はおあいさんは目白に働いて、私はこちらに一人で、いろいろ古い雑誌の整理なんかをポツリポツリとやり、きのうの火曜日はあれからかえりに目白へまわって近所ヘみんな挨拶をして、おばあさんを新しく紹介しておそばを配って、そしてあっちで白飯たべて、九時ごろ野菜の袋を下げて、ホーレソ草の種だの肥料の袋だの、ヘミングウェイの前の作品だのを入れた包みをもって林町へかえりました。大変妙だったわ、目白からかえるなんて。足かけ五年の古戦場ですもの、無理もないと思います。そして今度は派出婦のおあいさんやあの手つだいの若い姐さんやらだけが相手で、あすこへ引越すとき手つだってくれた人々は誰一人い合わせないのも感じ深うございました。さっぱりしたものよ。却って気が楽なようで、いろいろの感情を経験しました。

軸がキリキリと回るとき、何と遠心力がつよいでしょうね。一人一人の顔を思い浮べると、みんな遠い遠いところに目下暮していたり、そうではなくても生活の上で大きく変化していたりして。歴史だの生活だのの力学は昔のひとの転変と呼んだものですね。

 今は労働つづきで疲れるから全く枕につくとすぐという程よく眠ります。林町の間どり、ぼんやりとしか御存知ないでしょうね。八畳とならんで十二畳があって、この十二畳が問題の室なのよ。何しろバカに大きい床の間がある上に、間どりの関係から、うちで悲しい儀式があるときは、いつもこの十二畳と八畳とがぶっこぬきになって、神官がおじぎしたり何かして、奥は、誰もそこで暮したことのないという部屋です。

 だから今度はね、私が一つコロンブスになるのよ。そこに生活をふきこもうというわけです。あたり前に着物がちらかったり、お茶があったりする、そういう生きた人間の場所にしようというと、咲枝はあらぁうれしいわ、お願ね、ユリちゃんならきっと出来るわと大いに激励してくれました。私はこっちのひろい室へ大きい本棚を立ててね、あの白木のよ。その御利益に守られて大いに活力のある座敷にしようと思って居ります。

 今のようなときこそ本当の落着きがいるということ、実にそう思います。あれよ、あれよと景観に目をとられて、といっていらっしゃるが、それさえ現実にはまだ積極の方よ。迚(とて)も景観に目をとられるというだけの余裕はなくて、あれよ、あれよといううちにわが手わが足が思わぬ力にかつぎあげられ、こづきまわされて、省線の午後五時のとおり、自分の足は浮いたなりに、体は揉みこまれて車内に入ってしまうという位の修羅です。

 年鑑のこと、ありがとう。それから、ユリがこういうことになると、ややそっぽ向きで素通りで、苦笑だって? そうでした? 御免なさい。そっぽ向いたりしていなかったのよ、ところが年鑑は今ごたごたで、手もとに出ません。すぐ見ないのはわるいわね。ホラ又ダラダララインというところね。でもきょうは御容赦。こんどはっきり間違いを自分でしらべておきますから。

 私は、僕等の家としては、というところから目を放さず、無限の想像をよびさまされます。私たちの家として何年間か暮して来た間には、住んでいるところがとりもなおさず私たちの家で、想像もリアルなのよ。たとえば二階に一つ机があって、下の四畳半に机がおけて、六畳で御飯たべたりいろいろ出来るという工合に。そういう気持で暮しているのね。今のようになると、何とまざまざと、しかも空想的に、僕等の家というものが考えられるでしょう、そこは明るそうよ。大変居心地よさそうよ。さっぱりと清潔で、生活の弾力とよろこびと労作のつやにかがやいているようよ、何と私たちの家らしい家が思われるでしょう。

今は心のどこかに、一つのはっきりしたそういう家ができています。その変化に心づいていたところへ、家の話がかかれていて、私の胸の中にある思いは、つよくて切れない絹糸のように、そこのところをキリキリと巻いてしめつけるの。しかも一方に腹立たしいところもあるの。そんなに鮮やかに、私たちの家が、明るくどこかに在る感じがするということが。分るでしょう?

 本を焼かないようにということもなかなかのことで、殆ど手の下しようがないことです。今書庫なんて建てようもないし、でも追々うちの建築家と相談して、今ある設備を百パーセントにつかう方法は考えましょう。

 引越しのゴタゴタの間、つかれるとちょいとひろげてはモームの『月と六ペンス』ゴーギャンの生活から書いたという小説をよみました。ゴーギャンは、ロンドンの株屋だったのね。それが四十歳を越してから絵を書きたくて家出してしまうのよ。モームという作家は、やはり大戦後の心理派の一人で、そういう欠点や理屈づけや分折やらをもっていますが、イギリスの作家の皮肉というものは、皮肉そのものが中流性に立って居りますね。いわゆる中流のしきたりに反撥して皮肉になっている、悪魔を肯定し、人間の矛盾を肯定する、そういう工合なのね。モームもその一人です。

ゴーギャンに当る人間は、いくらか偶像的に間接にしかかかれていません。このゴーギャソにゴッホがひきつけられ、しかもそれは不安な魅力で、ゴッホが自画像の耳が変だとゴーギャンにいわれて、てんかんの発作をおこして自分の耳をきりおとしてしまったごとなど、そういう人間の火花は面白いけれど、書かれては居りません。モームの小説では。でもゴーギャンの絵のあの黄色と紫と赤のあの息苦しいような美はよくとらえて、タヒチの美として、ゴーギャンの感覚としてかいて居ります。

 ヘミングウェイをよんで思うのよ。イワノフの『スクタレフスキー教授』が何故にこの作家のような、くっきりとした線の太さ明瞭さで書かれなかったかと。それから『黄金の犢』も。それについては、又ね。あまり長くなりますから。
(宮本顕治・宮本百合子「十二年の手紙 下」筑摩書房 p28-31)

■━━━━━

三、中国全面侵略と第二次世界大戦

 一九三七年七月七日、北京郊外の虚構橋近郊に駐屯していた日本軍は、中国軍が発砲したと称してこれに攻撃をくわえました(虚溝橋事事件)。これを□実に日本は、大軍を派遣して中国にたいする全面的な侵略をはじめました。中国人民は、抗日民族統一戦線に結集して、国をあげて反帝独立の徹底抗戦にたちあがりました。

 日本共産党員や個々の共産主義者のグループは、日中全面戦争の発端となった虚構橋事件の翌日には東京、大阪、北海道などで反戦ビラをまいて戦争反対をよびかけ、軍隊のなかでも反戦活動をおこないました。

 天皇制政府は、開戦一ヶ月後の三七年八月、「国民精神総動員」運動をおこして、「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」をスローガンに国民の思想統制の体制をつよめました。さらに、国民を侵略戦争に動員するために、学校教育のいっそうの統制をはかり、三八年以降、教科書の国定制を小学校から中学校にまでひろげる方針をとり、四三年には、すべての教科書を国定制としました。戦時中の教科書は、専制政治の美化と侵略戦争賛美でうめつくされ、青少年を戦争にかりたてる役割をはたしました。また、戦争の進行とともに「八紘一宇」という侵略と反動の思想を宣伝し、国民におしつけました。

 天皇制政府は、戦争にたいする批判や反対を根絶するために、その弾圧を容赦なく拡大しました。三七年十二月、「人民戦線の結成をくわだてた」という理由で、「日本無産党」と「日本労働組合全国評議会」を解散させ、関係者四百人を検挙しました。

翌三八年二月には、同じ理由で、大内兵衛ら「労農派」といわれた学者グループを検挙しました。関西の雑誌『世界文化』のグループも、前年の三七年十一月に検挙されました。さらに、三八年、「唯物論研究会」の関係者や新劇団体などさまざまな文化団体が、治安維持法によって、コミンテルンおよび日本共産党の「目的遂行」の結社とされて弾圧されました。

これらの迫害にさきだち、三五年には、当時の憲法学説の主流をなしていた貴族院議員美濃部達吉の天皇機関説さえ、国体にそむく「学匪の説」として、著書の発行を禁止され、三六年七月には、『日本資本主義発達史講座』に参加した学者三十余人が、マルクス主義の理論研究を理由に、治安維持法違反として検挙されていました。

こうして迫害は、自由主義的な学者、文化人、仏教者やキリスト者などの宗教者にまでおよび、進歩的作家の執筆禁止もおこなわれるなど、いっさいの進歩的な言論と運動への圧殺がつよめられました。

政党の解散と「大政翼賛会」

 日本共産党は、弾圧によって党中央の機能を破壊されましたが、獄中でも、戦時下の法廷でも、専制と侵略戦争に反対して、不屈のたたかいを展開しました。

 一方、政友今や民政党は、侵略戦争の積極的な推進者でした。社会大衆党も、中国への全面戦争の開始を積極的に支持し、一九三七年十一月の第六回大会では、「支那事変は、日本民族の聖戦」として、中国の前線に「皇軍慰問団」を派遣しました。これら三党は、三八年、侵略戦争遂行のために経済や国民生活の全体を政府の統制下におく「国家総動員法」を成立させましたが、これは、自らの限られた議会活動すら否定するものでした。

 一九三九年九月、ヒトラー・ドイツのポーランド侵略によって、戦争が世界的な規模のものとなり、ドイツが「電撃戦」とよばれた攻撃で戦果をあげたことは、日本の戦争勢力を大いにはげましました。日本では、四〇年三月、日本共産党以外のすべての政党の参加した「聖戦貫徹議員連盟」が結成され、全政党の解消と「一大強力新党」の結成がとなえられました。ヨーロッパにおけるドイツ軍の攻勢に力をえた支配勢力は、日本、ドイツ、イタリアによる三国同盟をむすび、侵略戦争のための国内体制の強化をすすめる政治を「新体制」(新政治体制)などとよびました。これは、せまりつつある太平洋戦争にそなえて、ファッショ的な国内体制をつくりあげるものでした。

 「新体制」の樹立という目的に賛成して、まず社会大衆党が解散し、つづいて政友会、民政党が解散しました。こうして、日本共産党以外のすべての政党が解散し、一九四〇年十月、戦争遂行のための協力組織「大政翼賛会」が発足しました。「大政」とは、天皇がおこなう政治、「翼賛」とは、天皇を補佐して政治をおこなうことをあらわしたものです。また、帝国議会には、アジア侵略を意味する「大東亜共栄圈の確立」を目的とした「翼賛政治会」が組織されました。

 政府は四〇年、すべての労働組合を解散させ、十一月、戦争協力機関として「大日本産業報国会」をつくり、全国の工場、事業所には、下部組織として「産業報国会」をもうけて、国民を専制政治ヘの忠誠、侵略戦争への奉仕、戦争のための労働にかりたてました。

一九四一年十二月。アジア・太平洋への侵略の拡大

 日本軍は、一九四〇年九月には北部仏領インドシナに、翌四一年七月には南部仏領インドシナに侵攻しました。そして、一九四一年十一月、日本は、昭和天皇の出席した「御前会議」で、中国での侵略戦争につづいて、アメリカ、イギリスとの戦争を開始することを最終的に決定しました。

 四一年十二月八日、日本軍は、ハワイ真珠湾の米海軍を攻撃し、マレー半島への上陸作戦などアジア・太平洋地域にいっせいに攻撃を開始しました。同日、日本は、アメリカ、イギリスに宣戦し、侵略の手を東南アジア諸国にものばしました。こうして、天皇制政府は、日独伊三国のファシズム・軍国主義の侵略同盟の一員として世界に巨大な惨禍をあたえ、国民を破局的な結果にみちびくにいたりました。

 昭和天皇は、中国侵略でも対米英開戦決定でも、絶対の権力者として、また軍隊の最高責任者として、侵略戦争を拡大する方向で積極的に関与しました。さらに、個々の軍事作戦に指導と命令をあたえ、敗戦が予測される四五年にはいっても戦争継続に固執して、惨害をひろげました。

 新聞は、「東亜解放戦の完遂へ」(「東京日日」)、「支那事変の完遂と東亜共栄圈確立の大義」のため、「反日敵性勢力を東亜の全域から駆逐」(「朝日」)と、侵略戦争推進の立場をはじめから鮮明にしました。日本の新聞、ラジオ放送などの報道機関は、戦争中、天皇制軍部の「大本営発表」を国民におしつけ、最後まで侵略戦争をあおりつづけました。

 国民は、「聖戦」と「愛国」の名のもとに、侵略戦争にかりだされ、侵略戦争の末期には、中学生にいたるまで勤労動員をうけ、軍需工場などで働きました。衣類や食糧の不足、父や夫や息子が戦死した悲しみ、前途への不安などを語りあうことにさえ、当局は監視の目をひろげ、処罰しました。天皇制軍部や高級官僚とむすびついた大資本家たちは、資金や資材をわがものとし、巨大な利益をおさめていました。こうした状況は、国民のあいだに戦争と天皇制政府への不安と批判の気分を生みだしました。

 また、朝鮮で徴用、徴兵を実施し、多数の朝鮮人や中国人が日本の鉱山、工場で強制労働させられ、東南アジアの人びとも「ロームシャ」として、強制労働をしいられました。軍の指揮・管理のもとでいわゆる「従軍慰安婦」などが植民地や占領他の住民をふくめて組織され、非人間的行為を強要されました。さらに、天皇の軍隊は、中国をはじめとするあらゆる占領地で、現地住民にたいして略奪、凌辱、虐殺、細菌兵器の使用、人体実験などの残虐行為をくりかえしました。これらは、国際法上も人道上もゆるされない犯罪行為であり、今日も、戦争犯罪としてきびしく告発されているものです。

 開戦にさきだって、十二月、七百人をこえる人びとが検挙され、開戦翌日の十二月九日には、金子健太、宮本百合子、守屋典郎ら三百九十六人が「共産主義者」としていっせいに検挙、拘束されました。共産主義者の名は、戦争反対とつながっていたのです。

 この時期にソ連から中国にわたった野坂参三は、中国共産党の根拠地延安で、中国国民政府下の桂林や重慶で鹿地亘によって創立された「在華日本人反戦同盟」に呼応するかたちで、「在華日本人反戦同盟延安支部」をつくり、四一年五月には、延安に「日本労農学校」をつくりました。ここには、天皇崇拝と軍国主義思想を教えこまれた日本軍将兵の捕虜があつめられ、平和・民主教育をほどこす活動かおこなわれました。
(「日本共産党の八十年」日本共産党中央委員会 p58-63)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
「軸がキリキリと回るとき、何と遠心力がつよいでしょう。一人一人の顔を思い浮べると、みんな遠い遠いところに目下暮していたり、そうではなくても生活の上で大きく変化していたりして。
歴史だの生活だのの力学は昔のひとの転変と呼んだもの」。

「迚(とて)も景観に目をとられるというだけの余裕はなくて、あれよ、あれよといううちにわが手わが足が思わぬ力にかつぎあげられ、こづきまわされて、省線の午後五時のとおり、自分の足は浮いたなりに、体は揉みこまれて車内に入ってしまうという位の修羅」と。