学習通信051027
◎広がりの中でものごとを……
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テレビと本がすきな子ども
たましいを失ったような表情でテレビの両面に吸いよせられる子どもたち。そういう子どもたちの多くは本となったら見向きもしません。本などつまらないものと信じて疑わないのです。一方には、夢中になって本に読みふける子どもたちもいます。かがやいた瞳がもどかしそうに活字を追っていきます。そして友だちに、おかあさんに、本の中で見つけた喜びを分かたずにはいられないのです。このちがいは、一体どこから生まれるのでしょうか?
わたしの近所に啓子ちゃんという小学校三年生の子がいます。おかっぱのとても似あう、見るからに快活そうな女の子です。日曜日など友だちとつれだって自転車で走りまわっているのをよく見かけます。その子が三年生になったばかりのころでした。どんな本を読んでいるのかと話しかけたのがきっかけになって、ときどき私の家に本を借りに来るようになりました。それまでは普通の近所づき合いだったのに子どもの本が縁結びとなって、今では家族ぐるみでおつき合いするようになりました。
おかあさんの話だと、啓子ちゃんは三年生になってからでも二十さつちかく本を買ってもらったということです。そのほか学校の図書館からも月に二、三さつぐらいの割で本を借りて来ます。そして、一週間のうち四日ぐらいは本を読むとのことです。読みだすと三〇分〜一時間ぐらいは読みますが、このあいだ、新しく学校の図書館にはいった『むかしむかし絵本』のシリーズを借りてきたときなどテレビも見ないで読みふけり、もうちょっとで読んでしまうからといって家族の食事をおくらせてしまったこともあったということです。
もちろん、啓子ちゃんはテレビも見ます。毎日三〇分〜一時間ぐらいですが、テレビを見すぎて困るということが話題になることはほとんどないというおかあさんの話でした。啓子ちゃんの生活の中には読書がはっきりした位置をしめ、習慣化しているということができます。
こうした読書の習慣は、自然に身につくものではありません。啓子ちゃんは、まだ字が読めないころから両親にたくさん絵本を読んでもらいました。よく見聞きする例ですが、啓子ちゃんも、気にいった本だと何十回でも読んでもらって、しまいには絵を見ただけで文章を暗唱するようになりました。小学校に入学してからも、ときどき両親にせがんで本を読んでもらっているということです。
どこの家庭でも子どもが二、三歳ぐらいになると動物・乗り物・童話などの絵本をあたえて、子どもからせがまれるままに読んであげるようです。子どもはそれが楽しみです。読んでもらわないと寝つかないという話をよく耳にします。ところが四、五歳になると、外遊びの方に気をとられて、絵本からはとおざかってしまいます。小学校にはいってひらがながひととおり読み書きできるようになると、親は子どもに読んでほしいとせがまれても、読んであげてしまっては勉強にならないと考えて、自分ひとりで読むことを要求します。
しかもこの時期に、おとながあたえる本といえば、乗り物絵本から一気に世界の名作や偉人伝へと飛躍してしまうのです。活字のたくさんつまった本を前にして、子どもたちはすっかりおじけついてしまいま。親が読ませようとすればするほど子どもたちは本からとおざかり、嫌悪するようにさえなります。
本(文字)を読んで理解し楽しむためには、どうしても文字を頭の中で映像にホンヤクするという操作が必要です。話しことばのばあいにはその操作は比較的簡単ですが、書きことば(文字)を映像になおすためには相当長時間の訓練がどうしても必要なのです。小さいころから絵本をたくさん読んでもらっている子どもは、絵や音声の助けをかりながらことばを映像にかえることをおぼえます。
やがて自分で文字を読んでも、映像が描けるようになります。文字によって映像を描けない子どもにとっては、映像そのものをあたえてくれるテレビほど魅力的なものはありません。それのみかテレビは、動くもの、変化するもの、スピード感のあるものなら何でもすきな子どもの欲求を手がるにみたしてくれます。
(代田昇編「子どもと読書」新日本新書 p40-42)
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ときどき、「目が見えない方は映画やテレビは観ますか」と聞かれることがある。もちろんだ。私も映画は大好きだし、テレビもよく観ている。ここでわざわざ「テレビを聞いている」と書かなかったのは、私たちは耳を通して、十分にテレビを楽しんでいるからだ。だから何も、映像なしで鑑賞しているからといって、いちいち「テレビを聞きます」などと不自然な表現をしなくてもよいように思ったのだ。
少し恥ずかしいが、実は私が一番好きなテレビ番組は、ストーリーのあるアニメである。これは小さいころから変わらない。戦い物は音が大きすぎてあまり好きではないが、たとえば名作アニメや探偵物、時代物も好きだ。大人向けのものでは、いくつかの時代劇やミステリー、もちろん大河ドラマのような歴史物も気に入ったときには観たりする。お化けや不可思議物も大好きである。
映像なしでなぜアニメやドラマが好きかというと、こういうものには映像を補って余りあるくらい豊かで的確な効果音が付けられているからだ。特にアニメの効果音は素晴らしい。引き出しを開ける音一つとっても、それが本なのかスチールなのかで子供がどんな机に向かっているかがよく分かる。さらにその引き出しの中の物が弾む音などが聞こえたりすると、思わず拍手してしまう。ときどき、お茶を注ぐ音がお湯でなく水の音のときがあって、これは手を抜いたなと思うこともあるが、そんなことを聞き分けるのも、また楽しからずやである。
それと同じ理由で、私は映画も好きである。『ハリー・ポッター』の映画など、魔法そのものを見ることはできなくても、細やかに工夫された効果音が大スクリーンを駆け巡るハリーたちの姿さながらに、私にもホグワーズ魔法学校に隠された「閲覧禁止」の図書室やダンブルドア教授の優しさは、ちゃんと伝わっていた。もしかすると、実は映像にとらわれていない分、スクリーンよりも壮大な映像が想像できてさえいるかもしれない。
これこそが、まさに想像の楽しみ。いま目に見えているものから解放されたとき、想像は限りない世界に私たちをいざなってくれるのではないだろうか。だからどうか、映像や漫画に見人るばかりでなく、一度目を閉じて音やあなた自身の感覚で、作品を自由に旅していただきたいと思うのである。
サン=テグジュペリの童話『星の王子さま』の中で王子が話すように、「本当に大切なものは目に見えない」のかもしれない。この原文にはessentiel(エサンシエル)という言葉が使われているので、この本当に大切なものとは、物事の本質という意味と考えることができるだろう。想像力とはこのように、今は日に見えていないけれど、本当は物事や作品の本質となっている「目には見えない大切な物」を、心の目にしっかりと見せてくれるものなのである。
(三宮麻由子著「目を閉じて心開いて」岩波ジュニア新書 p158-161)
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今の自分のことしか考えられない
次に、その人たちが共通して持っている特徴をいくつか並べてみます。
彼らは、自分を「まとまりのあるかたまり」と思うことができません。「バラバラな存在」とまでは思っていなくても、自分がある性格、特徴、傾向などを持った「全体としてはこんな人間」と自分で把握することができる存在だ、と自覚することができないのです。
まわりの人たちもまた、さっき言ったことと今言っていることがまったく違っていたり、昨日と今日で完全に矛盾した態度を取ったりして平然としている彼らを、「どういう人」と考えてよいのか、わかりません。だからどうしても、今日の前で話されていることやそのときの態度だけを取り上げて、感想を話したりなにかを決めたりすることになります。
当然、「まとまりのあるかたまり」として自分を把握できない彼らは、時間の流れの中で自分をとらえたり、空間の広がりの中で自分を位置づけたりすることが、ひどく苦手です。「三年前はこうだった」と言われても、三年前の自分がどうだったか、まったく覚えていないのです。また、「アフガニスタンには家を失った人がいる」と言われても、見たこともない国の話と自分とを関連づけて何かを考えることなど、とてもできません。
だから、彼ら自身の関心は、どうしても自分の内面だけ、しかも「今」感じたり考えたりしていることだけ、にかたよりがちです。「自分の過去に関心がある」という人も少なくありませんが、その場合、過去とはあくまで「それを今どう感じているか」という現在の自分の感情との関連の中で、意味を持つだけです。もし、過去にある重要なことを経験したとしても、今そのことを振り返ってなんの感情もわいてこなければ、それは「なかったこと」と同じです。
一九九四年、朝鮮民主主義人民共和国の主席、金日成が突然亡くなったとき、診察室の中でそれを伝える待合室のテレビのアナウンサーの声を聞いた私は、診察中であったにもかかわらず、興奮して目の前の女性患者さんに言いました。その人とは長いつき合いで良い関係ができていましたから、そういう雑談も許される雰囲気だったのです。
「たいへんだ、金日成が死んだみたいだよ! 北朝鮮はどうなるんだろう?」
すると、自分が職場の人間関係にいかに苦労しているか、といった話題を語っていたその女性は、表情も変えずにこう言ったのです。
「まあ先生、そんなことどうだっていいじやないですか。それより、私の職場の同僚なんですけど、先日も……」
その人は解離性障害そのものではありませんでしたが、精神的なある基礎疾患により、ものごとをなかなか社会的な広がりの中でとらえられない、といった状態にありました。私は「この人にとっては、金日成の死去より今の職場での小さなトラブルのほうが重要なんだな」と驚き、「しかし、この人のリアルな日常にすぐ影響を与えるのは、たしかに職場の人間関係のほうかもしれないし」と思い直したりもしながら、「広がりの中でものごとをとらえられないという病」についていろいろと考えたものでした。
ところがそれから十年後、とくに若い人たちにとっては、「北朝鮮の首領の生死より、自分の内面の問題が重要」というのは、あたりまえのことになっている感があります。いろいろな立場(十代のシングルマザー、風俗嬢、自衛隊員、作家志望など)の人たちのネット日記を読んでいても、そこには自分の内面の微細な変化が綿々とつづられているだけで、世界や日本全体の流れとはほとんど同期はしていません。
しかも、その内面の変化には連続性はなく、たとえばある人の日記には、「どうして私、精神的にこんなに傷つきやすいんだろう。もう何もかもいやだ」とつづられた翌日、その悩みがどうなったかといった説明もないまま、いきなり「彼氏とデートして、パチスロで三万もうけた。ほしかったコートを買ってハッピー」と書かれていたりします。「昨日はいろいろ考えたけど、朝起きたら気分がなおっていた」といった間の説明がないので、読んでいるとまったく別の人の話にも思えます。ふたつの記述は完全に断絶しており、それが書かれた瞬間の書き手の感情、気分が脈絡もなく書かれているだけです。
その感情や気分は、世の中全体とはまったく切り離されています。もし今、金正日の身に何かあったとしても、それには目もくれず、「恋人にこんなことを言われて落ち込んだ」と自分の内面にしか関心を向けられない人は、激増しているのではないでしょうか。
あのときは「金日成のことなんかより、私の話を聞いて」という患者さんに驚愕してしまった私ですが、今ならあれほどは驚かないと思います。
(香山リカ著「生きづらい<私>たち」講談社現代新書 p54-57)
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◎「小さいころから絵本をたくさん読んでもらっている子どもは、絵や音声の助けをかりながらことばを映像にかえることをおぼえ」「やがて自分で文字を読んでも、映像が描ける」と。