学習通信051028
◎一日ずつちゃんと見てゆく……
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昭和十九(一九四四)年
学童疎開で長野の小諸へ
サイパン島が玉砕して軍医の伯父さんの戦死公報が入った。
そして東京は空襲に備えて強制疎開が始まり、学童疎開が身近な噂になり、浅草新堀国民学校は宮城県白石の小原温泉と決まったが、それとは別に縁故疎開が進められた。
わが家は僕が病弱なこともあり、父と兄を東京に残して母と五人の子供が長野県の佐久、小諸在に疎開することになった。
縁故といっても親戚知人は全くいない、見知らぬ土地。
すがる思いで知人の知人という伝を頼っての疎開だった。
「疎開先は長野か。長野は信濃の国といって、枕詞はみすずかる。君はみすずかる信濃の国へ疎開するのか」
先生がそういって頭をなでてくれたのは忘れられない。
「枕詞」も「みすずかる」も、その意味はわからなかったが、とてもいいところへ行くような気がした。
戦況の厳しさもわかるはずはなく、戦争はこうやって勝つものだと思っていた。
兄が東京に残るということは、僕が長男の役割を果たすことになると、子供ながら責任の重大さは自覚していた。
父と兄に送られて、最尊寺を出発。家を出る時、生まれ育った家が灰になるなんて考えもしなかった。
上野駅から荷物をチッキにして、混雑する信越線で小諸へ。
六時間の汽車の旅は碓氷峠のトンネルごとに車内に入ってくる石炭の煙と匂いしか覚えていない。(今は佐久まで時間がかからない)
小諸から小海綿に乗り換えて三岡駅からはリヤカーを借りて……。
子供たちは健気に母を支え、母もまた、張り詰めた表情で僕たちを抱きかかえるようにして、知らない村の知らない家へ転がり込んだのである。
「みすずかる信濃の国」は心細い、不安に満ちた国だった。
浅間山から吹きおろす冷たい風に向かって、村の学校に転校した時に、それは的中する。
今でこそ村の子も町の子も変わらぬ格好をしているが、戦争中は一目瞭然の差があった。
靴をはいているのは都会から疎開してきた子だけだった。
そのうえ、学力が違っていた。
そうしたことが「いじめ」の対象にならないはずはなく、お世話になっている以上、反抗することができなかった。
「戦争さえ終われば、東京に帰れる。それまで我慢するのよ」
母の口癖になった。
「戦争が終われば」というのは「戦争に勝てば」と信じて疑わなかった。
その村の小学校で、疎開児童同様にいじめられる子がいて、それは被差別部落から通ってくる子だった。
当然、仲良くなって遊びに行くようになり、ランプの火屋掃除を手伝ったりした。
村に電気は来ていても、彼らの家はランプの暮らしだったのである。
小諸が『破戒』(島崎藤村)の舞台であり、戦後に宇野重吉、桂木洋子で映画化された時には、ファーストシーンから画面がにじんでいたっけ。
もちろん、この時点で差別問題は理解できるわけがない。
学校では授業以外に松根油(しょうこんゆ)のための根ッコ掘りや、桑の皮を剥くといった作業が増え、そうした仕事が村の子にかなうわけがなかった。
そこに竹槍の練習が加わった。
これは「一億国民総武装」という政府の方針。
つらい疎開生活ではあったが、東京より食べものが豊かであったことが救いだった。
母の着物が減り、それが米や野菜に換わっていったことは戦後の盆踊りで見覚えのある母の着物を着ていた人が増えたことで気がついた。
それでも、母は食料に換えてくれた村の人たちの優しさに感謝していた。
こうして、みすずかる信濃の国の暮らしに少しずつ馴染んではいった。
国内では学童疎開以前に、学徒勤労動員、学徒出陣が練いていた。
僕の先輩では、野坂昭如が動員、小沢昭一が海軍兵学校である。
同じ昭和一桁でも微妙に戦争観が違うのを実感している。
村からの出征兵士も若者とは眠らなくなり、学校の男の先生も出征していくようになった。
鬼畜米英、一億火の玉、出て来いニミッツ、マッカーサーを合言葉に、竹槍の訓練は、戦車に対する体当たりの自爆作戦にまでなった。
そんな時に僕は先生が引く大八車に乗せられて敵兵を演じる。
子供が一升瓶をかかえて、走る大八車の下に飛び込むと、ドカーンと叫び、そのたびに敵兵は戦車から落ちなければならなかった。
僕は敵兵を演ずるということを楽しみ始め、従軍看護婦(女子生徒)は、敵にも優しくしてくれた。
同じ東京からの疎開児童のK君は、「父は戦死、家は戦災、母はその家で重傷」と言っていたが、僕にはそれが嘘だといってニヤリとした。
彼もまた、不幸な子を演じていた。そして、僕は敵兵を演じ続けた。
実際の戦場では、マリアナ沖海戦、インパール作戦、レイテ沖海戦に敗れ、神風特攻隊が新聞で話題になり始めていた。
それでも誰も負けるとは思っていなかったのは、戦況の実情が何も伝わってこないからだ。
「大本営発表」は常に赫々(かつかく)たる戦果を上げ続け、子供たちは「同期の桜」「少年兵を送る歌」「ラバウル海軍航空隊」を口ずさんでいた。
世界では連合軍がノルマンディーに上陸、パリも解放された。
ルーズベルトやチャーチルという名前は知っていたが、その顔を知るのは戦後のことだった。
東京も空襲が激しくなり、父と兄のことが気になり始めた。
(後にこの小諸に作曲家の小林亜星も疎開していたことを知った)
(永六輔著「昭和」知恵の森文庫 p82-87)一九四四年一月二日
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駒込林町の百合子から巣鴨拘置所の顕治宛
おけましておめでとう。ことしの暮はめずらしい暮でした。したがっていいお正月となりました。そちらも? でも、大笑いしております。
餅のような、という言葉は、子供の頬や女のふくよかな白いなめらかさに形容されて、日本にしかない表現でした。美しくて愛らしい表現でした。ところが、もし今年の餅になぞらえて、あなたはほんとにおもちのようよといわれたらそのひとは、どんな返事が出来るでしょう、と。こんなにプツプツどすぐろくて、愛嬌がなくて。餅もそうなっているというところに、何ともいえないいじらしさはあるにしてもね。憐憫(れんびん)と、うれしい愛くるしさとは別ですもの。
ことしは、大分わたしの意気込みがあって、大晦日には二階にちゃんと煤もはき、よく拭き、御秘蔵の黒釉(くろぐすり)の朝鮮壷には独特の流儀に松竹梅をさしました。そして壁にはこれも御秘蔵のドガのデッサンの復製をかけました。赤っぽいものは机の上の餅肌だけです。なかなかさっぱりときれいです。花はこれを書いている左隅の障子際においている白木の四角い書類入箱の上にのっています。今坐っておりますが、七日ごろになったら久しぶりで机の高い方を出して腰かけにします。
元旦から今年の計画に着手して、なるたけわたしは自分の部屋暮しを実行いたします。日記もつけ出しました。こんな暮しの中では一日にどんな勉強したか、何をしたか、一日ずつちゃんと見てゆくのも大事です。今年本やに日記というものがありません。日本出版会は日記の続制もやって、従来の日記はつくらないのだそうです。わたしは十六年の日記を出して、つけます。曜日が三日ずっているのよ。これをあてにして、とんちんかんをやって、叱られやしないかと実は苦笑している次第です。
何がどうあろうと私は何となしに元気を感じ、新しい暮しかた、勉強を期待して、きちんとした気分の正月です。どうしてだろうと考えます。こんな瑞々とした愉しさのたたえられたお正月の気分というのは。新しい年がおとずれる、というでしょう? 新年になった、というのと、年が新しくおとずれた、というのと、心持はちがうものなのね。大変ちがうものなのね。わたしのところには年が新しくかとずれたと思います。
支那の昔の女の詩人のうたではないけれど、南に向うわが窓は、年久しくも閉ざされて、牡丹花咲く春の陽に、もゆるは哀れ緑なす草、という風なところヘー条の好信、春風に騎って来る、というようなところがあります。そのよいたよりというのをなんだときかれたら、わたしは何と答えることが出来ましょう。見えもしない、聴えもしないところにも、いいたよりがあるものなのを知っているのは、雪の下なる福寿草。
三十一目に、二十九日づけのお手紙がつきました。それを、食堂のこたつであけてよんで、あと働き用上っぱりのポケットヘ入れて働きました。バルザックのほかによむものの話、そうだと思います。
この御手紙の前半にあることね。わたしは本質的には、しわん棒なんかの反対なのよ。しわん棒が義理のつき合いに骨折るなんて例は天下にありませんしね、詩を自分から混らす人間がしわい性根ということもあり得ません。そういう印象を得ていらっしゃるとしたら、それはわたしがそういう方面が下手で、時々こわがっているそういう瞬間が結果としてそう映るし、そういうことになるのね。
わたしに対しては、しわいという評はあたりません。実際の技量が低くて、重量を巧みにとらえゆく力量が不足で、そちらの緊要に鈍感で、世間並から見ればおどろくほど大きい気で暮しているから時々妙にこわがるという結果です。
それはわたしのような気質のものが、自分で無理なやりかたをしているとき(ひとまかせで結構、という人間が足りない腕で自分で万事思案してやるから)生じる哀れな滑稽です。
滑稽で終らない結果もおこすから、わたしとしてはそういう自分の未鍛錬の部分も自分にゆるしているわけではありませんけれども。でも、あなたもよくおくりかえしになることね。わたしがおどろいて笑うと、きっとあなたは、だってそれはブランカがそれだけくりかえすということだよ、とおっしゃるでしょうね。
わたしに百万遍しわん棒といっても、私はニコついているだけよ。しかし、ブランカは自分の人生をすっかり入れこにした心で暮しているのに、そんな風に思える時があるというのは、よほど、やりかたに下手な未熟なところがあるのだね、といわれれば、それは全く一言もないわ。きっとあなたに私のそういう弱点はいくらかにくらしいのね、どうもそうのようよ。
あなたのおどろくべきところは、ものの批判が深く鋭くのっぴきならなくあるにしろ、辛辣な味というもののないところです。その立派さでひとは説得されます。わたしは、自分よりよほど立ちまさった天賦としてそれを見ております。魯迅が細君にやっている手紙の中で、女のひとが、辛辣以上に出る例は稀有だ、と。わたしの修業の一つにそれが項目となっております。むき出された鋭さ、鋭さをつつみかねる人間的器量の小ささの克服。
もしブランカ的素質のために、せっかくのあなたが、家庭的な細部から辛辣さを滲ませるというような癖になったらそれこそ一大事です。わたしとして頻死に価しますから。ことしは一度もそういう苦情はおいわせしまいと思うのよ、確かにわるくないでしょう。わたしをその点で御立腹なさらないで下さい。そして何となくにくらしいみたいに思わないで、ね。
ことしは思いがけず、「春のある冬」の続篇が刊行されました。ごく簡素な装釘です。でも、内容の美しさはひとしおよ。近刊の続篇は「松の露」という、実に清楚な、しかも情尽きざる作品です。
文集には「珊瑚」というのもあります。めずらしいうたですから、月半ば以後におくりものといたしましょう。きょうはさむい日なのよ、雪がふったら面白いのに。では明日に。
(宮本顕治・宮本百合子「十二年の手紙 下」筑摩書房 p59-61)
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◎「見えもしない、聴えもしないところにも、いいたよりがあるものなのを知っているのは、雪の下なる福寿草」と。