学習通信05102930 合併号
◎きめることのできないもの……

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 われわれがまず提出しなければならない最初の問題は、商品の価値とはなにか? それはどのようにして決定されるか? ということである。

 一見すると、商品の価値とは、まったく相対的なものであって、一つの商品を他のすべての商品との関係で考察するのでなければ、きめることのできないもののように見える。実際に、ある商品の価値、交換価値と言うときには、われわれは、その商品が他のすべての商品と交換される量的な比率をさしている。だがそうすると、諸商品がたがいに交換される比率はどのようにして規制されるか? という問題が生ずる。

 われわれは、これらの比率がかぎりなく多様であることを経験的に知っている。ある一つの商品、たとえば小麦をとってみると、一クォーターの小麦がいろいろな商品と無数にちかいさまざまな比率で交換されることがわかるであろう。しかし、その価値は、絹や金やその他どんな商品であらわされようとも、やはりつねに同じであるから、それは、いろいろな品物とのこうしたいろいろな交換比率とはなにかちがった、それらから独立したものでなければならない。さまざまな商品とのこうしたさまざまな等式を、一つの非常にちがった形式であらわすことが可能でなければならない。

 さらに、もし私が、一クォーターの小麦は一定の比率で鉄と交換されるとか、一クォーターの小麦の価値は、一定量の鉄で表現されるとか言えば、それは、小麦の価値と鉄という姿でのその等価物とは、小麦でも鉄でもないある第三のものにひとしい、と言っているのである。というのは、私は、小麦と鉄とは同じ大きさを二つのちがった姿であらわしていると考えているからである。だから、そのどちらも、つまり小麦も鉄も、他方とは独立に、それらの共通の尺度であるこの第三のものに還元できるのでなければならない。

 この点を説明するために、ごく簡単な幾何学の例をとってみよう。ありとあらゆる形や大きさの三角形の面積をくらべたり、三角形を長方形とかその他なんらかの直線形とくらべたりするとき、われわれはどんな手続きをとるか? われわれは、どんな三角形の面積でも、それをその目に見えるかたちとはまったくちがう一つの表現に還元する。三角形の性質から、三角形の面積はその底辺と高さとの積の半分にひとしいということがわかれば、あとは、われわれは、およそあらゆる種類の三角形とあらゆる直線形──というのは直線形はどれも一定数の三角形に分解されることができるから──とのいろいろな値をくらべることができるのである。

 諸商品の価値についても、これと同じ手続きがとられなければならない。われわれは、すべての商品をそのすべてに共通した一つの表現に還元することができるのでなければならないし、またそれらの商品を、もっぱらこの同一の尺度をふくんでいる比率によってのみ区別するのである。
(マルクス著「賃金、価格および利潤」新日本出版社 p125-127)

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ベーコンとその実験的方法
   C・D・ブロード著

 ──以上略──
 さてベーコンは、おおむかしから彼の時代にいたるまで一般的だった自然に関する無知と、それから生まれる自然にたいする支配力の欠如とは、けっして避けられないものではないと心から確信していた。こうなるのは、人間の心に根本的な不完全さがあるからでもなければ、自然のがわに無法則的なあるいは理解できないほどの複雑さがあるからでもなく、ただ、ひとえにあやまった方法を用いたためであった。彼は、自分が正しい方法を知っていることを確信した。また、この方法が今までの方法にとってかわって、十分大規模に用いられさえすれば、自然にたいする人間の知識と支配力とは、かぎりなく増大していくにちがいないと信じていた。

 今からふりかえってみれば、彼の正しかったことがわかるし、私たちはとかくそれをわかりきったことと考えがちである。ところが当時にあっては、それはわかりきったことどころではなかった。反対にそれは現在の状態にも過去の経験にもあえてさからった、全くあっぱれな洞察力のわざであり、理性的信念の行動だったのである。

 では、ベーコン時代まで使われていた方法は、どこがまちがっていたのだろうか? ベーコンは根本的な欠陥はつぎのものであることをはっきり知っていた。第一に、理論、観察と実験、そして実際的応用の三つがほとんど完全にばらばらに分かれていた。実験らしいものはたくさん試みられ、連絡のない経験法則や処方はいくつも発見されていた。しかし実験は主として錬金術者や香具師のような人が行ったのだ。

これらの人々は、しばしば──けっして全部ではなかったが──いかさま師とか、半きちがいの熱情家であった。しかしよしんば彼らが正直な、分別のある人だったにしたところで、彼らの実験には、鉛を金にかえるとか、万病にきく万能薬をみつけるとか、いったような直接実用的な目標があったのである。なにか普遍的な理論にみちびかれて実験を行ったのではなかった。彼らはすべてにいきわたっている基礎法則や、物質の微細な構造を発見しようと努めはしなかった。

そのうえ彼らは互いに孤立して仕事をし、得た結果をそれぞれ秘密としてしまいこんで、知らせあおうとはしなかった。さて、ベーコンが科学を高く評価したのは、一つにはそれ自体一つの目的としてであり、もう一つには、それが自然にたいする広大な支配力をもたらすと信じたからであった。

当時の物理学が、何一つ有用な実際的応用をもたらさないことは、それがあやまった道をたどっているしるしだと彼は考えた。しかし彼は、科学者が近視眼的に、あれやこれやの特殊な問題の解決にばかり没頭することは、致命的なあやまりだと深く確信していた。科学者たちを、うまく計画された実験と適切な推理を用いて、基礎法則と自然の構造を発見することに専心せしめよ、と彼は考えた。そのときそしてそのときだけ、彼らは無数の実際的応用を、完全な成功の確信のもとに行うことができるだろう。

私たちの現代の電磁気、化学、医学の応用が、それぞれ、ファラデーとマクスウェル、ドルトンとアヴォガドロ、パストーゥルの理論上の業績にどれほど多く負うているかをかえりみれば、ベーコンがこの点でいかに正しかったかは、だれの目にもあきらかであろう。

 ベーコンが当時の科学のうちに見出した第二の欠陥は、理論的な面にあった。ヨーロッパが野蛮からめざめ、人々が外的自然にたいする科学的関心を再びとりあげはじめていた十二世紀のあいだに、ギリシアの哲学者アリストテレスの自然学に関する著作が再発見された。ところがまたおなじころ、中世の最も偉大で最も影響の大きかった思想家、聖トマス・アクイナス(一二二六−七四)が、アリストテレスの熱烈な弟子でかつ弁護者になるという、めぐりあわせになった。

さて聖トマスは果敢な改革者で、つよい反対に直面しなければならなかった。しかしアリストテレスの自然学と論理学とは、当時利用しうる他のどれよりもとびぬけてすぐれており、また聖トマスはその反対者よりもずっと有能だったので、アリストテレスの方法と概念とは完全な勝利をおさめた。それ以来、それらは無批判的にうけいれられ、世代から世代へとうけつがれた。

科学者たちは疑問を解決するのに、観測できる事実の研究によることなく、すべて、間違うはずのないアリストテレスの権威に訴えた。ちょうど今日共産主義者がマルクス、エンゲルス、レーニンの権威に訴えるのとおなじである。

さてこのことは、たとえアリストテレスの自然学が無きずのものだったとしても、不幸なことだったにちがいない。ところが、彼はたしかに非常に偉大な人ではあったが、彼の得意は博物学と、演繹的論理学のある部門とにあった。彼はけっして数学者でなく、彼の天文学は、ある他のギリシア哲学者のそれよりずっと劣っていたのである。

 ベーコンは当時の学識者たちが、権威に乗って一世を風靡した一般原理をうけいれたことを、正しく非難した。その一般原理というのは、アリストテレス自身、少数のどちらというと表面的な観察から、せっかちに無批判的に一般化することによって、えられたものなのである。これらを前提として用い、それに、「三段論法」とよばれたアリストテレス好みの推理形式を適用して、彼らは自然に関する結論をひきだしたり、おたがいの間でたんねんな論争を展開したりしていた。

つぎのような議論が、正しい三段論法の一例である。すべての金属は熱の良導体である、すべての電気の良導体は金属である、したがってすべての電気の良導体は熱の良導体である。三段論法の形の議論のあるものは正しいが、他のものは正しくない。アリストテレスは、三段論法による議論の、正しいものと正しくないものとを、区別するための諸規則を定式化した。それはたしかに非常にすぐれた業績ではあったが、そのため、彼は俗にいう「あたまにきた」のであって、三段論法の重要性を過大評価してしまう結果になった。

どんな三段論法の議論でも、たとえば「すべての金属は熱の良導体である」というような一般命題がなくては、出発することができない。この一般命題を確立するための方法を、彼は全く指摘することができなかったのである。

 ベーコンは、三段論法による推理が、たとえ法廷や議会で反対者の揚足をとるのにどれほど適しているにしても、自然の諸法則を発見したりそれを実際問題の解決に用いたりするには、全く役だたないことを知った。必要なのは、観察された事実から、よりひろくより深い一般化へと、ゆっくり注意ぶかくのぼっていくための方法であった。

あらゆるそういう一般化を、各段階で、それにふくまれない例外を慎重にさがすことでテストし、また実際にそういう例外がみつかったら、その一般化を棄てるかまたは修正する、というふうにすすんでいくのである。
──以下略──
(菅井準一訳「近代化学の歩」岩波新書 p44-49)

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「さまざまな商品とのこうしたさまざまな等式を、一つの非常にちがった形式であらわすことが可能でなければならない」「独立に、それらの共通の尺度であるこの第三のものに還元できるのでなければならない」「いろいろな値をくらべることができるのである」「もっぱらこの同一の尺度をふくんでいる比率によってのみ区別するのである」と。