学習通信051101
◎芋は遂に芋……

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一九四四年二月二十一日
 駒込林町の百合子から巣鴨拘置所の顕治宛

 おとといはおもしろい雪でした。わたしの心もちでは、まるで咲き開いた花のあつい花びらの上にふりつもった白雪という感じで、全く春の雪でした。

 そちらではいかがな風情でしたろう。こちらが花びらの上にふる雪と感じたら、そちらはゆるやかな芝山のまるみを一層まるやかに柔かく見せる雪景色ででもあったでしょうか。若木が深い土のぬくみを感じて幹をますます力づよく真直に、葉をますます濃やかにしている枝々に、しっとりと重くふる雪でもあったでしょうか。

 木の幹の見事さや独特な魅力を思うと、自然のこまかさにおどろかれますが、木の幹は決して人問の観念の中にある真直という真直さではないのね。いろいろな天候の圧力や風の角度に対し白身の活動のリズムの複雑さをみたすのに、それは何と微妙な線で美しく変化しているでしょう! そういう美しさと雪の美しさはやはり似合うでしょう! 雪が冬の終りに降る頃は、天候も春のはじまりのひそめられた華やかさがつよくて。疲れること。

 風邪はおひきにならなくても、熱が出やしなかったかと思って。わたしは何となく二三日おとなしくてぼっとして暮して居ります。用事はどっさりあってね、金曜日から土、日と出つづけでしたが。用事というものは考えると妙ね。だってこころの何分の一かで果せるようなところもありますから。

 土曜はQのところへ行きました。この頃は可笑しいでしょう、本をかしてあげたらあのひとが又がしをして、かりた人がお礼にバタをくれるのですって。それが来たら知らせるからというわけで。行ったところ、バターは消しゴムほどあったわ。そして、文学の話はちょぼちょぼで、やりくり話、家の整理の話等々。今の人のこころもち生活の態度がわかって何だか感服してしまいました。そして、自分の机を思い、よむ本を思い、更に感服をふかめました。

 この間のお手紙で天気予報のことね、みんなによんできかせて大笑いいたしました。皆もお説は尤もだということでした、決して日づけまでをとは申しませんそうです。でもやはり天気予報は有益です。私の身辺のことを見たって。

 日曜日は寿の大岡山の室へやっと荷がはこべ八時ごろつみ出させ、ひるすぎ出かけ、夕飯を七輪の土がまでたいてやって、この三四日ぶりではじめて御飯いっぱいたべさせ大安心いたしました。ホテルでも、朝小さい円い型にはめた、(よくジェリーを丸くしていたでしょう? あれ)──のおかゆ一つ。実なしのみそ汁、いわし一足ぐらい、晩は、用の都合でぬきになった日があった由。この節の旅館暮しはおそろしいばかりです。ですから、ともかく一ヶ月十二円で、おカマで御飯たいて、おみおつけつくってたっぷりたべたら、悲しくなったというの全くよ。おっかさんの顔みてから子供がワーと泣くと同じです。

 これで寿も上京して安心してね起きするところ出来たから私も安らかとなりました。従弟が寿と食事してひどさにおどろいて話しているのをコタツでききながら、フーフーふいてあったかいものたべているんだもの、わたしはそういうの楽でないのですから。よかったわ、もうこの次の第三次の本引越しについてはもうわたしも御免を蒙ります。二度のことでわたしの分けてやれるものは皆わけてしまいましたしね。きのうは行きたくなくて、きょうも疲れがありますが、でも本当によかったわ。やさしさ、親切は心の活活とした、少くとも想像力のある人間でなくてはもてないわ。思いやりなんて、わが身の痛さではないのですものね。

 川越の先の部屋を廿日すぎというから多分木曜頃見にゆきます。そして、又こちらへすこしうつしておいて、それからやはりあまり予定狂わさずに島田へ行ってしまいましょう。五月頃東京にいないとこまることになるかもしれないから(御託宣めいているかしら)うちへ子供の洋栽や私のもんぺ縫いに来てくれる洋絵勉強の娘さんが、倉敷の大原コレクションを見たがっているし、わたしはまだ一度も見たことがないから、行きに倉敷でおりて、それを見がてら少し休み、あとは近いから姐さんはそこから戻り私はひとりでゆくということにいたしましょう、いい都合でしょう? おべん当二度分もってね、よく研究してすいた汽車を選んで。荷物を少くしてね。

かえりは一人なら、山陰をまわった方がこまないかしらと思って居ります、東海道ではこの節はビルマから一直線だなんていう勢ですもの、こむわけよ。多賀子一緒になど思ったけれど、ここの家で気がねしたって無意味ですし、それに特期もわるく、やはりかえりはひとりでしょう。さもなければ一寸送ってもらうのだが、その一寸が一寸でなくて。マア、それはそのときのこととしてやはり三月の廿日までに立ちましょう、お手紙のついでによく言ってあげておいて下さいまし。

 ものがなくて、お土産が思うようにととのわずわたしは気にしていること。見かけは大した変りないが、実力は大分まだ低いから、半病人のつもりで見ていて下さるよう、眼が十分でないことなど。

 今度はこれまでとちがって小さい子が二人いて、どうしてもお守りが要ります。体が十分でないと子供の守は疲労ひどく、抱くという何でもないこともこたえるのよ。自分でうまく調節いたしますが、そのことに直接ふれないで、一般的に半病人ということを億えていて下さるようお願いいたします。自分からも申しますが。わたしがいて、お母さんだけによろしくと申してもいられないというわけです。マア、お母さんわたしが、というのが自然のこころで、それでやはり参るのは参るから。どうぞね、目白の先生も、途中のゴタゴタとこの点だけよ、いく分どうかというのは。でもこれでニヶ月のばして、わたしはいくらも丈夫になれません、ここまでになったのもマアいい方なのだもの。来年やもっと先が当にならないからきめてしまいましょうね。

 ここの家を処分して郊外にうつろうという案があります。咲、私大体皆のりきです。この家の非能率性はこの頃もう殺人的パニック的よ、こころもちに甚大に及ぼして来ています。国府津へ行って、こっち留守番暮しというのがはじめの案でしたが、国府津は束海道線に沿っていて、何しろ前が本街道ですから、パンパチパチが迫って、あの街道を日夜全隊進め、伏せなんかとなったらもうもちません、そういう地点に、女子供だけ目だつ別荘にいるなどとは一つの安全性もないことです。この際この家を処分するのは、ここの人たちにとって又とない好機です。すこし荷厄介を負っているところはどこも同じ問題よ。

 うちの通りの向側に市島という越後の大地主が、殿様暮ししていたのが、いつの間にやら水兵の出入りするところとなっている有様です。方丈記というのが戦国時代の文学であるのがよく分りますね、一つの家の変転だけ語っても。その市島の家は、もと松平の殿様のお休処で、一面の草原に白梅の林で、タンポポが咲くのを、小さい私たちが、からたちの間から手を入れて採ったものよ。高村光太郎は本でふところをふくらまして、小倉の袴にハンティングでその辺を逍遥ていたものです。林町も変ったことね、そして今この通りでたった三軒ほどのこった古くからのこの宗が又何とか変ってしまうと、全く昔日のかおもかげは失われます。そして、この通りを占めるのは、何かの形に変った金の力だけというものね。

 郊外へ家を見つけるについて、咲と私は、私も一諸と考えていますが、実際になるとどうなるでしょうね、タンゲイすべからずです。居る場所のない家しかないという工合かもしれないわね。それなら其のときのことと思って居ります。

 すべてのものが、日々の日にもとまらないような変化の中で、何と深く大きく渦巻き変ってゆくでしょう、決して二度と戻りっこない変りかたをしつつあります。

 セザンヌという画家は、人物を描くときなんか、椅子にくくりつけんばかりにして動くのをいやがったのですって、モデルが。あのひとの絵をみると、しかし実に絵は動いているわ。ドガは描かれたものがそのものとして動いているが、セザンヌのは、画家の目、見かた、制作意欲が熾烈で、精神が音をたてて居ります。こっちからこれだけぶっつかるからには対象がひょろついていられてはたまりますまい。対象につよく、直角にぶつかっています。

古典よんでいて、対象へぶつかり、きりこむこのまともさを今更痛感し、夜枕の上で考えていたら、セザンヌがはっとわかったのよ。むかしの人の禅機と名づけたところです。(思いつめよ、というのは、そこまで追いこんで、直観的に飛躍せよということなのですが、人物の内容が時とともに充実しなくては飛躍もヤコね) セザンヌの生きていた時代にはそうして対象を金しばりに出来たけれど、そして、そういう対象を描いていられたが、今どうでしょう、とくに作家としで。

どこで、何を、どう金しばりに出来るでしょう? おどろくほど沸りかえり流れ走るものを、その現象なりに描き出し、それが、現象であることを芸術としてうなずけるほど、一本の筋金を入れるのは何の力でしょうか、ここが実に面白いわね。

 十三日の手紙で、科学の精神のこと言って居りますが、ここと結びつくのよ。こちらの洞察、現象の意味、有機性、そういうものに対する芸術家の力量だけが、現実を、それがあるようにかけるのでしょう、だから面白いわね、勉強に限りなしというよろこびを覚えます。ストック品などでは役に立たないのよ。用心ぶかく、軽井沢辺で、芋でもかこうように作品をかこって繁殖させていたところで、芋は遂に芋よ。だってそれは芋が種なんですもの。

家というものは、藤村がある程度かきましたが、又新たな面からのテーマです。ああいう「家」のように伝統の守りとしての継続の型ではなく、それが変り、くずれて、新たなものになってゆく過程で。では明日ね。
(宮本顕治・宮本百合子「十二年の手紙 下」筑摩書房 p66-69)

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セザンヌ

画家の発言を鵜呑みにしてはいけない

 学生のころ、やはりセザンヌが好きになっていた。やはりというのは、ほとんどの人が一度はセザンヌが好きになるからである。

 でも好きになりながら、セザンヌはちょっと変な画家だと思った。変な、というのは、何かわからないところがあるからである。セザンヌの絵は好きなんだけど、ちょっとわからないところがあって、でもセザンヌはぜんぜんそこのところを説明してくれない。好きなら好きでいい、嫌いでもいい、そんなことにわしや関係ない、という感じで、セザンヌは黙ってサクサクサクサクと筆先を進めているようなのだ。その動揺しない精神というのが凄いと思う。

 ふつうはもう少し人のことを気にするのに、ぜんぜん気にしないところが変だと思う。まあ絵描きだから、変な人もいるんだと思っていた。自分も絵描きに憧れていた中学生のころである。それが高校生になり、社会人になり、文化人になり、自由人になり、いろいろなったのだけど変わらない。セザンヌというのはやはり変な画家だと思う。

 ゴッホやゴーギャンも変な画家である。美術史の中で、何か大したことをしたのはみんな変な画家だ。というので自分もすぐ変になりたいという画家が、とくに最近の世の中にはいるものだが、それは違う。変な人は、見かけだけならいくらでもいる。でも大した人というのはそうはいない。逆算は必ずしも可能ではない。

 それはともかく、ゴッホやゴーギャンの変というのはわかるのである。わかるというか納得がいく。凄い凄いと思いながら、ある程度の説明ができる。起承転結をあらわすことができる。でもセザンヌの変は、それができない。ゴッホやゴーギャンほど面白い変ではないのに、どうしても説明できない。いったいこの人は何を考えていたのかと、本当に変に思う。

 絵を見てそう思うのである。伝記類をちやんと読んだことはない。頑固親父だったという説明をときどき見るが、それはたんに人柄の問題である。それよりも絵だ。風景画のタッチはサクサクサクと、年季のいった大工職人が鑿で削るように確信をもって筆を進めていながら、その確信というのが何なのか、ぜんぜんわからないのだ。

 セザンヌを必要以上にわからなくしているのはもう一つある。セザンヌは近代絵画の父という評価。立体派への道を開いたといわれる。なるほど、そうするとまず立休派とのつながりは、というふうに見ていくと、どんどんつまらなくなってわからなくなる。

 もう一つ、この世界は球と円筒と円錐でできているというような言葉。それはたまたまセザンヌが言ったのかもしれないけれど、画家は言葉のシロートである。言葉ではあっても、論理的に整除された言葉とは違う。ある意味ではいいかげんな言葉なのだ。それを字義どおりにわかろうとした私もばかだった。

「坐る農夫」の塗り残しは何を語るか

 とにかくこの「坐る農夫」である。私は東京のブリヂストン美術館で見た。でもひろしま美術館の収蔵品である。シスレーのところで述べたように両美術館の交換展覧会があったのだ。
 会場を巡りながら、あ、セザンヌだ、と思った。セザンヌの絵は一目見てわかる。この絵は画集でも見たことはなくてはしめてだったが、いいセザンヌだなと思った。ずいぶん良質なセザンヌである。なんだか物みたいに見て申し訳ないが。

 たとえば中古カメラ屋さんでライカを一台見つける。あ、ライカだ、ずいぶん良質なライカだなと思う。そんな感じに似ている。疵もなく、ほとんど新品同様、オーバ一ホールなしでそのまま使える。これはよかった、と思ってどきどきする。そういう美品のセザンヌである。

 はじめは「美品」に気を奪われて見ていた。「美品」には緊張するものがある。試作品とか疵ものなら、取り扱いに気やすさもある。しかし「美品」となると、その完璧さを壊してはいけない、という気持ちの緊張がある。それはカメラにしても茶器にしても同しことだ。緊張しつつ見とれている。

 でもこの緊張は何だろうかと思った。なんだか妙に生々しい。この作品の美品度というのが何か異常なほどで、まだできたばかりで人目にも触れていない、というほどの新鮮さがある。画家のアトリエから、まだできていないのに運ばれてきた、というほどの生々しさである。

 そうだ、まだできていないのだ、ということに気がついた。絵具がまだあちこち塗り残されている。たしかにまだできてはいない。でも美品としてもう出来上がっている。私はすでに緊張して見て、感動している。でも塗り残しはたくさん見える。だからまだ出来上がってはいない。
 ちょっと不安になった。どっちだろうか。

 絵というのは必ず全部絵具を塗り尽くされるものだろうか。
 制度的な錯覚もある。美術館に行く私たちは、どうしても受け身になっている。出来上がって並ぶものを、一つ一つ受け取っていくという気持ちで絵を見ている。でも必ずしもそうではないのだ。たしかにだいたいは出来上がったと思われる絵が多い。でも絵の出来上がりとはどこまでをいうのだろうか。

 計算できるものだったら出来上がりは必ずある。でも芸術というのは計算ができない。出来上がりのラインというのは、本当はあるようでいて、ないようでいて、あるようでいて、ない。

──略──
セザンヌはなぜ近代絵画の父≠ニいわれるのか

 塗り残した腕の中央に、破れた張りぼての骨のように見えているのは、たぶん最初の下書きの線である。私たちも油絵で人物画など描くとき、下書きは焦げ茶色の絵具を淡く溶いたのを使うように教えられていた。このセザンヌもたぶんそれと同じ方法を採っているのだろう。

 ジャケットの胸の辺りには、その下書きの筆を少し広げて、ざっと陰影部分の当たりをつけたのが見えている。ジャケットの色は肩のところからしっかり塗り込まれてきながら、なぜかその腕の辺りで止んでいる。

 壁もそうだ。ただ一様には塗られていない。小さな筆であれこれ色調を試すように変えながら、何のつもりか少しずつ迷いながらこすりつけていって、結局ばらばらと塗り残しが残されている。塗れば簡単に塗れたものを、何か天の力がそれを止めてしまったというふうである。天の力が、セザンヌの内面にどう作用したのか。

 人間は壁にペンキを塗りはじめたらこういうことはしない。端から順番に塗っていって、一様に壁面を塗り尽くす。人間の生活とはそういうものである。ものごとをきちんとやらなければ前に進んでいけない。その生活上の習性がおうおうにして絵の世界にも持ち込まれるものだ。

 私など、絵を描いている途中で、あ、我ながらいいなと思う。ここでやめればほとんど名作だけど、やはりまだ中途だなと思う。いちおう最後まで描き上げなければ、というのでどんどん描き足していって、最後まで描き尽くしてダメな絵になってしまう。それがわかっていながら、どうしても最後までいってしまう。途中で止めるのは、大変な抵抗に出合う。止める理由がないからだ。

 でもセザンヌは途中でしばしば止めてしまった。サクサクと確信をもって筆を進めるセザンヌのその確信が何であるのかわからないのと同じで、突然筆をあちこちで止めてしまったその力も、何であるのかわからない。

 でもその塗り残しが、画面の中心を離れた周辺だけでなく、画面の中心を含む全域に散らばったことは重要である。おそらくセザンヌの中では、画面の中心と周辺という古典的なヒエラルキーは壊れていたのだ。セザンヌの中ではすでに画面の全域が等価なものとなっていたので、塗り残しは周辺に限らずその全域で発生している。セザンヌが近代絵画の父といわれる理由の根はそこにあるのだ。
(赤瀬川源平著「赤瀬川源平の名画読本」カッパブックス p54-62)

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◎「こちらの洞察、現象の意味、有機性、そういうものに対する芸術家の力量だけが、現実を、それがあるようにかけるのでしょう」と。