学習通信05110506 合併号
◎二体積の水素と、一体積の酸素……

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 したがって、利潤の一般的性質を説明するためには、諸君はつぎの定理から出発しなければならない。

すなわち、諸商品は平均してその真実価値で売られる、そして、利潤はそれらの商品をその価値どおりに、すなわち、それらの商品に実現されている労働量に比例して、売ることによって得られる、という定理である。

もし諸君がこの前提にたって利潤を説明することができなければ、諸君にはとうてい利潤を説明することはできない。

これは、逆説であり日常の見聞とは相反するように見える。

地球が太陽のまわりをまわっていることも、また、水が非常に燃えやすい二つの気休からなりたっていることも、やはり逆説である。

科学上の真理は、もしそれを事物のまぎらわしい外観だけをとらえる日常の経験から判断するならば、つねに逆説である。
(マルクス著「賃金、価格および利潤」新日本出版社 p139-140)

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 水素のいろいろの性質を思いだしてください。──軽いガスで、さかさに器の中にたまっていず逃げないし、びんの口のところで、うす青い光をあげて燃えました。こういう条件をこのガスが満たすかどうか、調べましょう。もしこれが水素ならば、こういうふうに管をさかさにして持っていても、逃げてはいきません。〔このとき、火をつける。すると水素は燃える。〕では、もう一つの管の中のガスはなんでしょう。両方をまぜると、爆発性の混合物になることはご存知ですね。しかし水のもう一つの成分として得られ、したがって水素を燃やす力をもつ、この物質はなんでしょうか。

 この容器に入れた水は、二つの物質でできていることがわかっています。そして、その一つは水素でした。ではもう一つのもの──この実験の前は水の中にあったのですが、今は単独で、ここに取りだされているものは、なんでしょうか?

 いま、火のついた木片を、このガスの中に入れますと、ガス自体は燃えませんが、しかし木片を燃やします。〔講演者は木片の先に火をつけ、それをガス採集管の中に入れる。〕ごらんなさい、木の燃え方がずいぶんはげしくなりましたね。空気よりもこのほうが、物の燃やし方がずっとはげしいですね。こうして皆さんは、水にふくまれているもう一つの物質、すなわちろうそくを燃やして水をつくるとき、ろうそくが空中からとりこんだはずの物質を、いま、目の前に見ているのです。それを何とよびましょうか。Aですか、Bですか、それともCですか? O、すなわちオキシジェン(酸素)とよびましょう。たいへんよいハッキリした響きの名ですね。これが水の中にあって、かなりの部分をなしていた酸素なのです。

 今はもう私たちの実験と研究を、いっそうはっきり理解できるようになりました。なぜなら、こういうことを一、二度実験すれば、どうして、ろうそくが空気中で燃えるかということがすぐわかるようになりましたからね。こういうふうに水を分析──すなわち、その成分に電気分解しますと、二体積の水素と、一体積の酸素とが得られます。そして、この二つのものの関係はつぎの表のようになります。重さの関係もしめしてあり、酸素は、水素にくらべて非常に重いこともわかります。この酸素が、水の、もう一つの成分なのです。
(M・ファラデー著「ろうそく物語」法政大学出版局 p90-91)

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軍隊を持ってこそ「普通の国」だ

 「普通」とはなんだろう。「特殊ではない」ということか。教育の現場では、かつてあった「普通学級/特殊学級」という言い方がなくなりつつある。発達などに問題を持つ児童を「特殊」として「普通」から区別するのは差別だ、という考え方に基づくのだろう。教育に関する講演を頼まれたとき、うかつにも「ふつうの子どもが悩んでいる」というタイトルを申し出て、「ふつうの子≠ニいう言い方はふつうではない子≠フ存在を前提にしている印象を与えるので、変えてほしい」と言われたことがある。「普通」というのはそれじたい、差別の意識を含んだことばなのかもしれない。

 だいたい、一般的に使われる「普通」という概念もあいまいだ。診察室で初診の患者さんから症状をひと通り聞いたあと、「では、次にあなたの性格や生活全般について話してください」と言うと、かなりの割合で「話せと言われても……まあ、ごく普通です」という答えが返ってくる。「平均的」、「話すに足らないほど他の人と同じ」という意味なのだろうか。ところが、こちらから具体的にいろいろ尋ねていくうちに、どの人も「話すに足らない」どころか、驚くような個性の持ち主であることが明らかになることが多い。これは、精神医療の場だからということではなく、誰であれ、「普通」というひとことでくくれるような人間はいない、ということなのだろう。

 このように、「普通」ということばが使われない方向に、あるいは意味をなさない方向に向かっている現状に反して、日本という「国家」に関してはさかんに「普通の国になろう」という言い方がされている。国内だけではなく、国外、とくにアメリカから「普通の国になれ」という声が聞こえてくる。「普通の国」の「普通」は、英語では「ノーマル」ということになるらしい。「ノーマルノ特殊」の区別にどこよりも敏感で、「ハンディ・キャップを負った人」ということばさえ「チャレンジド・ピープル」に言い換えようとしているアメリカで、国に関してなら平気で「ノーマル」、「ノーマルじやない」と判定を下す、というのは考えてみれば不思議なことだ。

 アメリカの保守系雑誌『ナショナル・レビュー』(ニ○○五年七月号)は、「日本の縛りを解け」という巻頭論文を掲載した。執筆者は、同誌の編集主幹リッチ・ロウリー氏だ。

 この論文でロウリー氏は、日本が戦後、アメリカの押しつけによる憲法第九条で消極的平和主義を国策としてきたが、その種の平和主義は「もう無意味な時代錯誤となった」と述べる。そして、日本が憲法改正を行って軍事面での「普通の国」となり、地域的な軍事的役割を果たすことこそが日米同盟の自然な発展なのだ、と主張する。

 もちろん、軍事力を持ってこそ「普通の国」、という発言をしたのはこの論文が初めてではない。たとえば『フォーリン・アフェアーズ』(二〇〇二年九月号。翻訳は『論座』二〇〇二年一〇月号)のエリック・ヘジンボサム氏らによる「進化する総合安全保障政策と日米同盟の行方」という論文にも、「(軍事力を備えた)ノーマルな国家」という単語が繰り返し出てくる。しかし、ここではこのことばは「……というノーマルな国家に日本がなるのはむずかしそうだ」と否定的な文脈で使われているのだ。次の文章からもこの論文の筆者が、「アメリカが日本に「ノーマルな国家」を期待しても無駄」と考えていることが伝わってくる。

 「神話の一つは、戦後日本の平和主義が、国際安全保障領域での日本の行動を大きく制約しているというもの。もう一つの神話は、平和主義による制約が薄れていけば、日本は「ノーマルな国家」になり、より積極的なアメリカの同盟国になろうとするものだ。この二つの神話はともに、真実の一部しか言い当てていない。しかも、二つの神話が相まって、日米関係の今後に関する非現実的な期待が育まれてしまっている」(入江洋・石井知訳)

 二〇〇二年九月といえばまだイラク戦争は起きておらず、日本はアメリカのアフガニスタン攻撃を後方で支援するために、インド洋に自衛隊のイージス艦の派遣を検討していた時期だ。国内ではその派遣にも「憲法違反だ」、「アメリカ追従か」といった批判の声が巻き起こっていたが、アメリカとしては「なぜアフガンから遠く離れたインド洋にいるのか」とその貢献の少なさ≠ノ不満、疑問を抱いていたのだろう。

この論文は、「日本は平和主義だからではなくて重商主義だからこそ、経済的にメリットのない軍隊を待つことは選択しない」として、「非現実的な期待はやめたほうがいい」と日米関係の別の道を模索するよう、アメリカに促しているのだ。軍隊を待つのはたしかに「ノーマルな国家」の条件だが、日本はそうなりそうもないし、そうならなくてもまあ、仕方ないじゃないか、という譲歩が感じられる。

 ところが、アメリカの中でさえ、こうした譲歩の声があったにもかかわらず、日本はアメリカの「非現実的な期待」に自ら進んで応えようとするかのように、イラクヘの自衛隊派遣に踏み切った。「やればできるじゃないか」とアメリカの期待は再び高まった結果、『ナショナル・レビュー』誌の論文のように「早く憲法を変えて軍隊を持て」といった強い口調につながったのかもしれない。

しかし、いくら日米同盟があるからと言っても、これは最近の日本人が好きなことばで言えば、内政干渉にあたるのではないだろうか。首相の靖国参拝に抗議する中国には「内政に干渉するな」と怒る人も、「軍隊を待って普通の国になれ」というアメリカの声には、「ほら、やっぱりそれが正しいのだ」と改憲を正当化する材料にしているのは、奇妙な話だ。

 そもそも、「普通」「ノーマル」がそれほどすばらしいことなのか。さらには、ほかの分野では「普通」の定義がどんどんあいまいになる中で、国家が「普通」になるというときの基準だけは明確、などということがあるのだろうか。

 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とまで言われて有頂天になっていた日本は、いつの間にか「君たちは普通じゃない」とアメリカから言われるまでになっていたことにどう対応していいかわからず、「じゃ、とりあえず普通にまでは戻らなければ」と右往左往している。もし「普通の国」と世界から、というよりアメリカから認められる日が来たら、次は「普通以上の国」「最高の国」とつぎつぎ目指すものが変わるのだろうか。

あなたにとっての「普通」とは何か、「普通の国」とはいったい何か、軍隊を持つことが本当に「普通」の国でそれ以外の条件はないのか。「普通の人」が、この問いにすらすらと答えられるとは、とても思えない。にもかかわらず、声高に主張されている「普通の国」。そこが「普通の人々」にとって住み心地のよい場所だとは、とても思えない。
(香山リカ著「いまどきの「常識」」岩波新書 p181-186)

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◎「科学上の真理は、もしそれを事物のまぎらわしい外観だけをとらえる日常の経験から判断するならば、つねに逆説である」と。