学習通信051108
◎素面でいる人間の勇気……

■━━━━━

私たちの星の哲学

古い切り抜きから

 古い新聞の切り抜きが出てきた。
 「私はね、人類死滅の時期について、これ以上長生きしてもむだだから、ここらで死滅しましょうというのは、哲学の役だと思う。(中略)まだ科学で説明できていないものはいくらでもあるから、これもやらにやならん。それをやってくれてもええが、それからもう一つ先の話で、さあ死滅しましょうというのは哲学だ。その問題を投げかけておきたい」というところに赤線が引いてある。

 切り抜かれているのは、一九七〇年十一月の朝日新聞夕刊──その文芸時評欄で、評者は石川淳氏。氏はその月の文芸時評上下のすべてを『中央公論』十二月号に「自然・文明・学問」と題してかかげられた今西錦司・藤沢令夫両氏の対談の紹介・論評にあてていた。先に引いたのは、そこでとりあげられている今西氏の発言である。

 赤線を引いた内容も、それを切り抜いたことも、すっかり忘れていた。改めてそれを目の前にして、投げかけられている問題に私の「哲学」は今どう答えるだろうか、と考えた。考えているうちに、いくつかの映画のシーンのようなものが浮かんできた。

シーンT──アンデスの高地

 空気の稀薄なアンデスの高地。一つの大きい山を越えると、同じような巨大な山がまたあらわれてくるというような、山なみの連続。その山沿いのサボテンのなかから、降って湧いたように突然、人が出てくる。黒いソンプレロをかぶったインディオの女性。両手に何ももたず、道なりにただひたすらに歩いていく。

 日暮れまであと二時間あまりというのに、人家も集落も見あたらない深い山奥だというのに、どれだけ歩いてどこへ行こうというのか。とにかく彼女は歩いていく。遅くもなければ速くもない、前かがみでもなければ胸をそらすでもない、同じ調子、同じ姿勢で、どこまでも、いつまでも歩いていく……。

 「彼らは、ごく自然に坦々とつづく道に沿って歩いて行く。歩くピッチも一定で、遅くも速くもない。その歩く姿勢は、前傾してもいないし、胸がそりくり返ってもいない。われわれのように、せかせかと歩いているわけでもない。おそらく、遠古の人びとの歩き方は、このようなものであったろう。そこには気取りも気負いもない代りに、いつまでも同じ調子で歩きつづけるというものであったにちがいない。そうでなければ、現代の文明国に住むわれわれには想像もつかないような長い道のりを歩いて、インディオの女はわが家なり目的地なりに着くはずがないからだ」(近藤四郎『足の話』岩波新書)

 近藤氏がアンデスの高地を訪ねたのは、一九六六年の九月下旬であった。今でもそこをインディオの女たちは、一八年前と同じように歩きつづけているに違いない。

シーンU──北上北部山地のバス停

 三陸海岸と北上川にはさまれた広大な一帯──北上山地。岩手県全体のほぼ三分のニを占める茫漠とした準平原で、そのほとんどは人跡を許さぬ山林原野であり、冬の寒さは本州第一を記録する。

 その北部山地の岩泉で、「私」は盛岡行きのバスを待つあいだ、三時間ほどを停留所の木のベンチに座って過ごした。「岩泉は北部山地の中心の町だが、それでも滅多にバスはこないのである」という。

 長いベンチの向こうの端には、先客のおばあさんが二人、座っていた。
 「おばあさんたちはほころびた野良着を着て、よれよれの袋を手にしている。太い指はひびとあかぎれで硬化しており、赤い顔には深いシワが刻みこまれている。二人ははじめ声高にヒヤリング不能の会話を交わしていたが、そのうちに黙ってしまった。

 居眠りをしているようにも見えたが、気をつけていると、ときどき彼女たちは私のほうにチラリチラリと視線を投げかけている。胡散臭そうな男がいるので、気になっていたにちがいない。私のほうはといえば、言葉をかけてみようかとおもってはいたのだが、キッカケがつかめず、中途半端な沈黙が続いていた。そんなふうにして一時間ほど経ったあと……何かの拍子で、老婆と私の視線が、瞬間、バッチリと合ってしまった。

 と、いまさら視線をそらすのもわざとらしく、どうしようかととまどっている私を見たまま、老婆は袋から一本のタバコをとり出し、無言でその手をゆっくりと私のほうへ差し出した。そして、思いがけぬプレゼントにありがとうの言葉も出ずに黙ってそのタバコを受けとる私を見て、二人の老婆の風雪の刻まれた顔が、ほとんど同時に満面の笑みに変わった……」(玉村豊男『日本ふーど記』日本交通公社)

魚のように鳥のように

 「ここらで死滅しましょう」というナレーションは、第一のシーンにも第二のシーンにも、およそふさわしくない。

 銀河鉄道999が訪れる星々のなかには、そこに育った知的生命とその文明がすでに死に絶えている星もあった。「ここらで死滅しましょう」ということが哲学の役目であるような、そんな星もあった。しかし「明日の星」「これからの星」と呼ばれる星もあった。そしてそれはどちらもたいへんよく、私たちの今日の地球に似た星であった。

 記憶の空間のなかから一枚のカードがとり出されてきて画面にかかった。そうだ、それこそは「今日の私たちの星」へのナレーションにふさわしい。

 「考える人≠のせた地球は、地球の歴史の現代=A現世の空間を、その軌道にそって前へ、前へとまわっている。
どこかで、火山が熔岩をふきあげている。
どこかで、こんこんと泉がわいている。
人間も、かれらの道を黙々とすすんでいくであろう」
  (井尻正二・湊正雄『地球の歴史』岩波新書)

 今日から九月になった。近所の子どもたちが、いっせいに学校へ出かける。
 「小さい子どもたちって、いいわねえ。魚のように鳥のように、群れてさえずりながら通っていく……」
 表へ出ていた家の者がもどってくるなり、そういった。
(高田求著「新人生論ノート PART U」新日本出版社 p195-199)

■━━━━━

一九四一年九月一八日
駒込林町の百合子から巣鴨拘置所の顕治宛

 九月十七目
 もうきょうはこんな日。びっくりしてしまいます。何という恐るべき引越しでしたろう。今夜は、やっとやっと、もうこれで動かないところまでこぎつけて、風邪ひきで休んでいた国男さんに机の上のスタンドがつくようにして貰って、ほっとしたところです。

 今夜は障子が骨だけなの。明日張れます。そしておしまい。それで当分は、もう知らない、というわけよ。二階を片づける、片づけたものをもってゆく場所がない。そのために土蔵の中を片づけなければならない。そういうおそろしい因果関係で、つまるところ私は二階から土蔵の中までの掃除をしなければならなかったのですもの。こんな引越しなんて天下無類です。そしてすっかり片づけの要領を覚えてしまったようです。ああほんとうにひどかった。こういう折でもないと、家じゅうの邪魔ものをみんな二階へぶちあげるきりで更に何年間かを経たでしょう。この部屋も全く別のところのようです。よかったわ。お化じみたところは消散してしまいましたから。

 さて、九月二日、目白の方へ下すったお手紙。この前の手紙にこのお手紙へのこと素通りしてしまっていたって? 二日のお手紙はそういう可能を自分の条件の裡に発見し具体化してゆく心特に直接ふれて来ていたのに。あとで手紙書いたときは、何しろ手拭で頭しばって働いている間みたいで、きっとおとしてしまったのでしょう。

 ずいぶんあっちこっちから考えた上のことですから、本当にこの最少限の最大限というような生活の奇妙な条件を充実して暮したいと思います。万事私の勉学次第ですものね。それだけがやがて、今日の生活を価値づけるのですものね。そこをはっきりつかまえて、回心不乱であればよいのだと思うの。ひとがこう生活すべきだとつけまわして、自分の生活を空虚にしてはいられませんから。謙遜に、たしかに自分の道を怠らずゆくことというのは、自身の充実への戒心のわけです。

それにね、あのダムを必要によってこわしてしまったというニュースも、もし事実なら、やはり、いかに生活はあるべきかという意味ふかい教訓だと感じました。みんなはどんなにあれをつくることを愛したでしょう、どんなに模型をクラブにおき、それについて詩をつくり、小説をかいたでしょう。建設の一つの塔のように響いていたものを、出来上ってやっとまだ三四年の今、それが必要なら自分たちでこわすということには再び又それをこしらえるというつよい確信がこもっていて、こわすことに却って勇気がこもっています。

生活の勇気とはそういうものなのね。そうだとしたら、自分がもちつづけた生活の形を変えるということを決心しにくいというのは、何と滑稽な意気地のないことでしょう。様々の変化に耐えないというわけなのだろうか? そう自分に向ってきいて見ると、私の中には、そんなに自在さの失われている筈はないというものがあって、それで、私は明るくされるのよ。

 隆治さんのことは、私は次のような点から感服するのよ。酒をのむのまぬ、煙草を吸う吸わぬ、そのこと自体は吸ったからわるいという考えかたではあまりかたくるしいけれど、そういうものなしに様々の艱難(かんなん)を凌ぎと対してきたという、そういう素面でいる人間の勇気というものを私は感服するの。

達ちゃんの話では、とてももてん、というのですから。そしてまわりは皆やる。自分がやらない。いつも正気でいる。そして酒の勢をかりてやることを見て来ているし、やらせられて来ている。そこに何か痛切なものがあります。私はそこを思うのよ。隆ちゃんがその正気の心で径験して来たことを思うのです。

例えばヘミングウェイは大変男らしい作家です、爽快な男です。私は随分気に入ったところがあるのだけれど、この人の小説には、酒とたべものが何と出て来るでしょう、官能の性質が推察されるようです。どうなってゆくだろう、この先、という心持の中にはこの作家のそういう面もやはり一つの条件となっているようなもので、隆ちゃんのしらふについて深く考えるわけです。

 さて、十三日のお手紙はいかにも用向のお手紙ね。これは竹の垣根のすこし古びたののようよ。。パラリパラリと大きい字があって、間から風がとおしているようよ。(慾ばり!)

 さあ、いよいよ落付いて、仕事をすすめなくてはね。私は実にうまく引越して、ギリギリの一文なしよ。だからあなたに年の末までをお送りしておいたのはなかなかやりくり上手だったということになります。そのうちには又ポツリポツリと雨だれを小桶にうけておきますから。

 夢の話大笑いね、でもなかなか哀れふかいところもあるとお思いにならないこと? あなたは本やに何とかいっておくれたことを話していて下さるのよ。こうやって、云って貰うのは何て楽だろうとほっこりしてわきにいるの。大変たのみになる心持だったことよ。実際だったら、あなたはそんなとき云って下さる? あまり心理的で、腸気にふき出してしまいました。こんなのだって、かりに私が本やに話したりすると、本やは本気にしないわきっと。あまりつぼにはまりすぎていて。人間の心もちって妙ね。では今夜はこれで終り。咳すこし出ますが大丈夫です。協力は笑草ほど増刷いたしました。
(宮本顕治・宮本百合子「十二年の手紙 下」新日本出版社 p31-33)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
それだけがやがて、今日の生活を価値づける
そこをはっきりつかまえて、回心不乱であればよいのだ
ひとがこう生活すべきだとつけまわして、
自分の生活を空虚にしてはいられませんから
……、たしかに自分の道を怠らずゆくことというのは、
自身の充実への戒心のわけ……。