学習通信051111
◎ジグザグな、複雑な道……

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一九四四年十月十日
 巣鴨拘置所の顕治顕治から駒込林町の百合子宛

 袷類もそれぞれ届いた。先日は少し寒かった位の陽気だったが、どうやら秋らしいおだやかな気付になって来たね。九月三十日の手紙、五日に帰ってみたら入っていた。疲れた後だったので、飯前の一服という形となったわけ。あんな上等の原稿用紙はもうないだろうから、両面使用は全く必要となって来たわけだね。「風に散る」の半分辺りまで来たが、南部の荒廃窮乏の光景は、後代の同条件下の色々を示唆するね。お父さんの蒐められた陶器類も出かけるそうだが、それもいいだろう。

人生を漂流しているのでなく、確砂して貼羅針盤の示す方向へ航海しているということは、それにどんな苦労が伴おうと、確かに生きるに甲斐ある幸福だね。漂浪の無気カな彷徨は、生きるというに価いしない。たとい風波のために櫓を失い、計器を流されても、尚天測によってでも航海する者は祝福されたる者哉。

そして生活の香油も、そういう航海者にのみ恵まれる産物であって、その輝きによって、生存は動物でなく人間というに価する生彩と栄誉、詩と真実に満されてくるものだね。

クリストの生涯は福音書を通じてみても現代的な興味を持っているが、中世以来の化石的存在でなく、先駆者の一典型として深い感想を科学を愛する著者にも与える。シンクレアもクリストに取材したものを書いているようだが、二十歳頃読みたいと思った頃もあった。

現代的理性をもった人間も、或る敬意をもって彼を回想するのは、彼もまた、誰でもがそれに堪え得るとは云えない困窮と敢闘の子、信じ難い艱苦(かんく)と英雄的努力の人であったからだろう。それだからこそ、マリアの愛情もふさわしいものとなった。「風に散る」の中の誰かが云っているね。「余は名誉を大義を愛す。それ故にこそ汝を愛することもかく深きなり。」

 世田谷へ返す本三冊「ブルターク」「ワンダブック」「スタニスラフスキー自伝」、郵送できないからそちらで返して貰い度い。封緘(ふうかん)葉書は送ってくれただろうか。直接差し入れでもよい。この頃は葉書も大分行列買いらしいね。早寝励行は続いているかね。このごろは夏より元気そうで結構だ。太郎君達も、大分あちらにも慣れて元気でやっていることだろう。咲枝さん、夜具運び、どうも御苦労様。単衣類も宅下しておいた。
(宮本顕治、宮本百合子「十二年の手紙 下」筑摩書房 p120)

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 この連載が終わったのは、あの八九年七月の参議院選挙の投票日直前でした。ご承知のように、自民党の大敗という劇的な結果は、日本のみならず、世界に衝撃を与えました。まさか、と思われていたことが実現したのです。一年前、だれがこの結果を予想することができたでしょうか。

 これまで、日本の有権者は、各政党から働きかけられる対象として見られてきました。したがって、選挙結果は、あまり前とは変わらないものと予想され、その予想がほぼ的中するのが常でした。なかなか政治は変わらない、自民党の底力は大したものだ、というのが多くの国民の実感でした。

 しかし、リクルート・消費税・農政問題などは、国民の気持を大きくかえました。自民党に大打撃を、という考えが多くの国民の共通のものになりました。日本の有権者は、はじめて、自らの選択によって、その投票権を行使したのでした。その結果は、自民党や、社会党自身の予測をはるかに上まわる劇的なものになりました。まさに、国民が政治を動かしたのでした。

 日木国民は久し振りに、人民大衆の意志と行動が歴史を動かす原動力であるということを実感することができました。この結果について、一時的なものであるとか、感情的なものであるとか、さまざまな論議が生まれています。しかし、歴史を長い眼で見ることができる人びとは、この結果が、長期的には自民党の衰退傾向を示すものであることを見逃してはいません。

 もちろん、この結果が手放しで喜べるものではないことも明瞭です。真の革新であり、自民党の大敗にも大きな役割を果たした日本共産党が後退したことは複雑な感情を呼びおこしています。

 多くの国民が、自民党の議席を減らす一番の近道は社会党に投票することだ、と考えたこと、中国天安門事件が、日本共産党にたいする大きな疑問を生んだこと、これらの要因が考えられますが、いずれにせよ、歴史というものは複雑なあるき方をするものであり、単純な、一直線のものではないということもまた明らかになりました。

 私たちの感情が複雑であるように、これからしばらくの間、日本の歴史は複雑な歩み方をするにちがいありません。すでにさまざまな勢力が社会党に圧力を加え、その主張する連合政権が自民党政治同様のものとなるようにさせようとしています。社会党に寄せられた国民の期待に社会党がどうこたえるか、まさに正念場といえましょう。

情勢負けしない不動の確信を

 真価を問われているのは社会党ばかりではありません。日本共産党や民主青年同盟はもとよりですが、これまで真の革新の道を目指して努力してきた統一労組懇や革新懇など、さらに自主的民主的な諸団体、諸勢力が、この新しく生まれた有利な条件のなかで、どのように正しい道を進み、日本国民の多数の意志をまとめてゆくのか、それぞれがその真価を問われています。

 すでにそれぞれの団体・諸勢力は当面の方針を定め、新しい努力を開始しています。そのなかで、共通にいわれているのは、どんな逆風のなかでも確信をもって進むことができるような主体的な力量をつくらなければならない、ということでしょう。

 歴史の動きはけっして大通りをすいすいと進むようなものではなく、ジグザグな、複雑な道をたどるものであって、情勢の変化に一喜一憂してはいられない、どんな情勢にも敗けない、不動の確信があってこそ情勢は切りひらかれるのだ、ということ、そして、その点に弱点があったからこそ、有利さや不利さに動かされてしまったのだ、ということは、今回の参議院選挙の結果についての痛切な反省の一つでした。

 そのような確信はどこから生まれるのか。複雑なあらわれのなかから歴史の基本的な道筋をしっかりとつかみ、歴史の発展方向、発展法則に沿って活動を進めること、つまりは、科学的社会主義、史的唯物論の真髄をしっかりと把むこと、これ以外にはない、というのが私たちの先輩の生死をかけた体験のおしえでした。私たちもこの教えにみちびかれながら、毎日の忙しさに負けず、しっかりと学ばなければならない、この本も、みなさんのそのような努力の助けになれば、とねがって書かれています。

第二節 史的唯物論を学ぶに際して

科学的社会主義は、人類の学問的財産の正統な後継者

 この本は、ごく普通の考えを持っている人びとと対話をしているつもりで書かれています。というのは、私たちの考え方、科学的社会主義、あるいは史的唯物論というものは、ごく普通の考え方をしている人たちにかならず理解していただけるにちがいない、と思うからです。

 一般に、科学的社会主義、あるいは史的唯物論というものは、なにか特別のもの、特定の考え方に立った人たちが抱いている独特の理論、あるいは信念と思われがちです。人によっては、これを宗教的信仰と同一視していることもあります。もし、科学的社会主義、史的唯物論というものがそのようなものだとすれば、それは普通の人びとにとっては縁のないものであり、知る必要もないし、「さわらぬ神にたたりなし」ということにもなりましょう。しかし、はたしてそうか。

 科学的社会主義、史的唯物論の創始者であるカール・マルクスもフリードリッヒ・エンゲルスも、そのような考え方におちいったことは一度もありませんでした。二人とも、この理論は、なにか特定の天才が考えついたものではなく、また、特定の立場におかれた人びとだけが理解できるというような、たいへんせまい、かたよった理論だとも考えませんでした。

 そうではなく、それまでに人類が生みだしたさまざまな知的な遺産、財産、これをそっくりそのままうけつぎ、その基礎の上にたって、さらに発展させたものが科学的社会主義・史的唯物論なのでした。それは、人間が生み出した学問的成果そのものでした。いわば、人類の学問的財産の正統な後継者こそ、科学的社会主義・史的唯物論なのでした。

 しかし、実際には、学界や理論戦線、ジャーナリズムのうえでは、科学的社会主義・史的唯物論の影響力はたいへん限られているだけではなく、異端扱いにされ、学問ではないかのように扱われています。ちょうど、国会の中で「日木共産党を除く」という言葉が通り文句となってしまっているのと同様です。

 これはたいへん異常なことです。社会主義国のなかで、科学的社会主義・史的唯物論が「国定の哲学」扱いにされているのが正しくないのと同様、科学的社会主義・史的唯物論がはじめから異端扱いされるのも決して正しいことではありません。

 さしあたり、科学的社会主義・史的唯物論を学ぶ人たちが少ないのはやむを得ないことですが、それが本来のあり方ではなく、この理論は普通の人びとすべてに通用し、理解されうる理論なのだという点をしっかりとおさえて、できるかぎり多くの人びととともに語り合い、学びあうことが大事なのだと思います。

基礎を大切に

 だからといって、科学的社会主義・史的唯物論がやさしいもので、だれでも一度聞けばすぐわかるものだ、ということではありません。なによりも、この理論は学問であり、科学なのです。それはぼう大な知識と事実の上になりたっています。ちんぷんかんぷんというものではないにしても、一定のむずかしさはさけられません。そのむずかしさに降参して、入口でつまずくということもないわけではありません。とくに、初歩的なところをよく勉強しないと、それ以上のことはわからなくなる、ということは、数学の勉強の上でよく経験しているところです。したがって、まず、初歩的な点をしっかりと、くりかえし身につけてゆくことが大事になりましょう。この木は、初歩的な点に力をそそぎ、それ以上のことはみなさんの今後の向学心にまつことにしています。

複雑な局面を打開する方向

 この本は、ゴルバチョフの「新しい思考」にはじまり、ケ小平の天安門事件でおわっています。いわば社会主義国の指導者の持つ問題点が大きくとりあげられているのですが、史的唯物論の問題点はそのような問題に限られているわけではありません。当然、アメリカをはじめとする帝国主義国の問題、さらに日本の指導者たちの問題も大きな意味をもつことは当然でしょう。

 しかし、それらの問題はこの本では必要に応じてふれるだけで、思い切ってはぶかれています。ここでは、科学的社会主義・史的唯物論にたいする、いわば内部からの攻撃の問題に的をしぼりたかったからです。そして、その問題をあきらかにすることが今、もっとも大事なことだと思ったからです。

 これまでにも、世界が大きくかわろうとするとき、かならず理論の面でも大きな動きが生まれました。とくに、その変化が複雑で、相手がうんと強く見え、味方がなかなか前進できず、一見手詰りのように見える時期には、かならずといってよいほど、これまでの理論ではうまくいかないのではないか、なにかもっとうまくいく理論があるのではないか、という考えが生まれました。

しかし、科学的社会主義・史的唯物論は、そのつど、新しい事態をしっかりと解明し、進むべき方向をあきらかにしてきました。それはたんに、古い立場にいつまでもしがみついている、というようなものではなく、また、なにかの先入観で割切るというようなやり方でもなく、複雑な事態をしっかりと見すえて、そのなかで、なにがかわり、なにがかわらないのか、をあきらかにし、局面打開の方向を示すことに成功してきました。

 どうしてこのようなことができるのか、それは、あらゆる観念論的な幻想を払いのけて、歴史の動きを唯物論的に、つまり事実を事実として見てゆく、という基本的な立場を徹底させることによってでした。この見方を貫いていけば、かならず真実につきあたることができる、という確信に導かれているからでした。

 今日の世界の情勢は、なによりもこのような考え方を必要としています。この考え方を一人でも多くの人びとに知ってもらい、行動の指針としてもらうこと、この仕事にどれだけ成功するか、ここに人類の未来がかかっています。
(関幸夫著「現代に生きる史的唯物論」学習の友社 p8-18)

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──人生を漂流しているのでなく、確砂して貼羅針盤の示す方向へ航海しているということは、それにどんな苦労が伴おうと、確かに生きるに甲斐ある幸福──。漂浪の無気カな彷徨は、生きるというに価いしない。たとい風波のために櫓を失い、計器を流されても、尚天測によってでも航海する者は祝福されたる者哉。

1944年10月10日
 米機動部隊、沖縄を空襲
10月25日
 海軍神風特攻隊、レイテ沖ではじめて米艦攻撃。
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11月24日
 マリアナ基地のB29東京初空襲