学習通信051114
◎「やまをおりるゆうき」……

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一九四四年十月十八日
駒込林町の百合子から巣鴨拘所所の顕治宛

 昭和十九年十月十七日
 きょうは年に一度の十七日(顕治の誕生日)ですから、紙も奮発していいのにいたしましょうね。いま午前十時すこし過ぎたところで、国が、用の電報を出しかたがた肴町の花やで菊の花を買って帰ることになって居ります、あいにくはっきりしないお天気になりました。でもゆうべは十時頃床につき、よく眠りましたから体も楽よ。

 けさの新聞は、台湾の東方洋上とマニラの近海における戦果を公表して、戦史まれにみるところとして居ります。十七日に、こうしてしずかに暮せることは一つのたまものです。幾匹も頸輪(くびわ)をはずされて野犬となった犬どもが、一列になって、すがれた夏草の庭や落葉のたまった破れ竹垣のところをかけて通る様子は、これまでなかった今年の東京の秋さびですが、でも空のしずかなのはうれしいわ。たとえ曇っていようとも、ね。

 国が帰って一束の菊をもって来ました。花やの店は大部分しめているのでたのんだのでしたが、肴町のも閉めていて、白山よりの左側の花やで買った由。白い菊、えんじの小菊、黄がかった中菊。この机の上にはえんじのをさしました。こんなに花のつつましい十七日は十何年来はじめてね。いつも花は困るぐらい溢れましたが。この花松という店、白山のわたしがはじめてポートラッブというものをおそわった小さい喫茶店、覚えていらっしやるかしら。あのすこし手前よ。ポートラップの店は今何を売るかしらないが形はあるようです。あの向いの南天堂のひどさ(本の)、それはどこも同じです。あの通りの中央に、大きい貯水池ができかかっていてほじくり返しのゴタゴタです。もう何ヶ月もよ、働いている人の姿もないままです。

 ことしのきょうは、わたしとして特別に心からのお祝いをのべたい心もちです。わたしの胸にいっぱいのほめ歌があって、それをどういう表現で伝えたらいちばんふさわしいだろうかと思案いたします。くりかえし、くりかえし考えます。

非個人的な感動やよろこびを、最も個人的なような立場のものがひとに話すことは殆ど不可能であると。しかも、そのように規模ゆたかなるよろこびを、個人として近いからこそ、ひとしお深くつよく感じて、一層非個人的なひろがりに到るということは、何と微妙なあやであろうかと。そして人のこころというものは、おろそかに外に洩らされない感動のそよぎに充たされるとき、それは響きにみちて鳴らずにいられません。

きょうのおよろこびに一つのタンボリンをさしあげます。それはわたしよ。手にとってつよくうてば、そのタンボリンはよろこびに高鳴るでしょう。指にとってやさしくうてばタンボリンは懐のなかで鳴くように、肌にそって長く鳴るでしょう。膝の前において見ていらっしゃれば、タンボリンは見られることをうれしく思って自分もあきずみられているわ。決して退屈しないタンボリンをさしあげます。おまけにそのタンボリンはおてんばもすきで、もしあなたが機嫌よさにちょいとえりをつかんでもち上げたり、ころがしたりなされば、毬にもなってお相手いたします。枕につけて寝れば、それは夢の中にうたうでしょう。

 わたしのほめ歌の主題は、一本の樫の樹です。一本のすこやかな樫の若木が、草萌ゆる丘の辺に生い出でました。春の淡雪は若枝につもり、やがて根に消えて、その養いとなりました。夏の白雨は、靭やかな梢にふりそそぎ、一葉一葉に玉のしずくを綴って、幹を太らす助けとなりました。春秋いく度か去来して、今仰ぎみるその樹の雄々しさはどうでしょう。枝々は逞しく左右に張って、朝の日と夕べの月とに向って居り、梢は空にひいって、星を掃きます。欝蒼とした枝々に鳥どもは巣を見出し、根の下草には、決してこの樹をはなれない一本のすいかつらも茂って居ります。樫は壮年の美に溢れるばかりです。

すこやかな若木であったその樫は、この地上の誇として堂々たる壮年に達し、自然と人間をよろこばせます。ジュピターという神を、ギリシア人は意地わるもする神として考えました。自然力は横溢して、人問の都合をふみにじりもするからなのでしょう。

 ところでこの樫を、天なる神は非常にいつくしみよみしているにかかわらず、折々霹靂(へきれき)とともに、おそろしい焔の閃光がその梢や枝におちかかります。その光景のすさまじさは、あわやその火の中に樫も根元からやかれたかと思うばかりです。しかし、雲が去り、風がやわらかく流れて煙を払ったとき、見れば樫は見事にその枝々をひろげてやっぱり堂々と立って居ります。

只よくみると、一つの霹靂を耐え経るごとに、樫の枝と幹とは次第々々に勁(つよ)さを増し、樹皮の創さえその成熟の美観を加えるばかりです。自然神は、その天性によって、いつくしみ、抱擁しようと欲するときにも、ありあまる力によって霹靂となってふりかからずにいられないし、火焔となって落ちかからないわけには行かないらしいのです。

大樹とならざるを得なく生れついたその樫の樹は、この震撼的愛撫の必然をよくのみこんでいるらしく、おどろくばかりの自然さでその負担に耐えて居ります。そして年を重ねるにつれて重厚さと余裕と洞察の鋭さから生じる愛嬌さえも加えて来ているというのは、何たる壮観でしょう。

樫の樹も人も知って居ります。雷によって枝を裂かれていない大樹は、一本もあり得ないということを。枝を裂かれつつ繁栄するそこにこそ大樹の大樹たる栄えがあるのだということを。そしてね、ここに一寸、おもしろの眺めや、というところは、例の樫の根元のすいかつらです。

 樫が若木であったとき、奇しき風に運ばれてその根元の柔かい土の間に生えたこの草は、不思議な居心地よさに夜の間にものびて、いつか花もつけ蔓ものばし、樫の幹へ絡みはじめました。やがて蔓はのびひろがって枝にも及び、花の咲く季節には、緑こまやかな葉がくれに香りで、そこと知られる深みにも花咲くようになりました。

 すいかつらというような草は、元来訪い草とは申せません。もしもひよわい枝にまつわれば、その枝の折れるにつれて泥にまみれもしたかもしれません。この樫の根に運ばれた不忠議によってこの蔓草は、今やその草とも思われなく房々と大きやかに成長して、蔓の力もあなどりがたくなりました。

 雲脚が迅くなって、黒い雲が地平線に現れるとき、樫は迫った自然の恐怖的愛撫を予感して、枝々をふるい、幾百千の葉をさやがせて、嵐に向う身づくろいをいたします。そのときすいかつらも自身の葉をそよがせ、一層しっかりと蔓をからみ、樫と自分がもとは二もとの根から生れたものであったことをも忘れ、もしも宵寝が一つの枝を折るならば、蔓のからみでそれを支えようと向いたちます。

その気負い立ちを、樫は自身の皮膚に感じます。そして太い枝の僥(たわ)みのかげにすいかつらをかばって、むしろかよわいその恋着の草を庇護いたしますが、気の立ったすいかつらには、自分こそ、その樫があるからこそそうやっていられるのだということを気づかないのよ。

しきりに葉をそよがせて力みます。樫にはそれが気持よく、すこしこそばゆくもあるのです。ですから、よくよく気をつけて嵐の前の樫をみると、風につれてリズミカルに葉うらをかえす合間に、時々急にむせるように、瞬くように、全身を小波立たせることがあるでしょう。あれは樫の笑いよ。するとね、すいかつらはいかにもうれしくてたまらないように、わきにいる小さい苔に囁きます。ほら、笑ったでしょう、樫が。

あれで結構よ。樫の勇気はあのひと笑いで、すっかり定着して、ゆとりが出来て、ますます立派に発揮されるのよ。さあ、もう私たちはおとなしくね。そして、蔓に力をこめて絡みつつしずまります。どんな嵐にもふきはがされないだけぴったりと。すいかつらが、分相応の智慧にもめぐまれているというのは自然の恩恵と申すべきでしょうと思います。

 わたしのほめ歌は、ざっと以上の通りよ。さて、これをどんな長歌につくれるでしょう。なかなかむずかしい芸当です。こうして話すしかわたしは能なしらしゅうございます。樫とすいかつらの万歳を祝してこのおはなしはこれでおしまい。

 きょう(十八日)夜着届けました。きのうは咲枝も多賀ちゃんも十七日に届くように、と小包を送ってくれて、咲からはあなたへ草履、多賀ちゃんからは冬の羽織の縫い上ったのに、こまごまといりこや橙の青々ときれいなのや、お母さんからの豆などよこしてくれました。繁治さんと夕飯をたべ、夜も愉快にすごしました。栄さんは移動劇団と一緒に四国旅行ですって。世田ヶ谷はおつとめ。こっち方面は月末か来月に一たて別にゆっくりいたします。光から郵便小包出ないらしいのよ。鉄道便でくれました。こちらからは小包行きますが、島田と多賀ちゃんにおついでの折お礼をね。栄さんたちもおよろこびに草履くれました。うれしいわ。二足のうち、どちらかは役に立ちましょうから。もう、もとのは半分こわれたでしょう? はじめっからあやし気だったのですものね。

 十月十目のお手紙ありがとう。風に散る第二巻の、あの荒廃時代の描写は本当におっしゃる通りです。時間をとびこしたリアリティーを感じつつよみました。そういう意味では随分参考にもなりましたし、ああいう南部の女性たちが、ともかくああいうひどい立場に陥ったとき馬一匹をも御せるということについて新たに考えました。わたしたちのところには馬もいないわ。従って御せもしないわ。第二巻は、描写もひきしまっているし、作者のテンペラメントとよくつり合ったところと見えて、なかなか大したものです。第三巻と言行録の七、八、お送りいたします。第三巻をおよみになったら、あのわたしのたのしみにしているお喋りをくり出しましょうね。

 言行録、ちょいちょいお先に拝見して思いましたが、家光の時代というのは、丁度いってみると明治興隆期(四十年ころ)のようなもので、実に卓出した人材が多かったのね。松平信綱なんか大した智慧者のように教わっていましたが、人物としてはもっと上品なる土が一人ならずいたようです。伊豆守は巧者なものなのね、智にさといというような男で、強く表現すれば極めて抜目ない秘書よ。剛直とか、深義に徹した判断とかいうことより、抜目なく世情に通じていてそれで馬鹿殿様や押し絵のように、ゆーずーのきかない役人を動かしたのね、常識家の下らなさがあります。大久保彦左衛門は、明治でいえば、何ぞというと御一新をかつぎ出す爺さんで直言が身上、但あの男だからと通用するというカッコつき人物ね。

 本当の人物らしい人物たちは、昔風の忠義ということ(範囲)においてもつまるところは「事理に明白である」ということが基調となっているのは面白うございました。だからこそ時代をへだてた私たちに感興を抱かせるのね。同時に、そんなにきょうの日常は、事理明白ならざる混沌のうちに酔生しているのかともおどろかれます。

 渾沌についてはきょうはすこし感想があるのよ。

勉強をしている人間としていない人問とのたのしみかたの相異ということです。一人の人についてみても、その相異はあらわれるという事実についてです。何も本をよむばかりが勉強ではないが、本を読もうとする身がためには勉強の精神と通じたものがあります。生活の中心から勉強心がぼけると、遊びかたがちがって来るのね。只話していて面白さがつきないという風なところ、或は黙ってそこにいて何か面白いという風な精神の流動がなくなって、何かいわゆる遊びをしないとたのしみにならないような空虚さが出来るのね。丁度精神の低いものは、くすぐりやわざわざ茶利を云わなければ笑うことも出来ないようなのと同じね。

人というものが、対手によって自分というものを表出する方法をかえるということは面白いものね。自分がもしそれぞれの人の高い面でしかつき合われていないとすれば、それは遺憾めいては居りますが、そちらの低さについてゆくにも及ばないことだわ、ね。同じ人に玄関と裏口があるのね、そうしてみると、わたしはやすホテルの室かしら。入口も出口も一つきり。あとは窓きり。可笑しいわねえ。わたしは、いわゆる遊びにはまりこめないわ。

女が自覚しはじめたとき(十八世紀)そういう人たちが申し合わせて先ずカルタをやめた、というのは、素朴なようでなかなか意味のあることですね。昨夜いろんな話をふとしている間に、そんなことを痛感いたしました。ブランカ(百合子のこと)のかくし芸なしに祝福あれ、と。風に散るの中からの引用。わたしも感じをもって読みとった行でした。それはこの手紙のはじめに感じている非個人的、そして個人的、更に非個人的な高揚の感覚と等しいものです。アシュレが、誰かの句を引いたのね、スカーレットには一生かかっても分りっこない文句のーつとして。世田谷へかえす本もって参りました。問違わずいたしましょう、あのブルタークなつかしい本の形ね。(以下、この頃の郵便局のむずかしさと書いていて、墨で消されている。)
(宮本顕治、宮本百合子「十二年の手紙 下」筑摩書房 p120-125)

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テレビの子ども番組の企画が……

 そこで、一九九四年である。二月ごろ、山にからむ思わぬ企画が飛びこんできた。あるテレビ局の子ども番組から、山の話をしてくれという注文である。

「ウゴウゴ・ルーガ」という朝番組で、そのなかに、あるひとつのテーマについてその分野にくわしい人が話をする「おしえて! えらいひと」というコーナーがある。そこで、政治ではなく「やまのぼりのえらいひと」になって出演してくれ、との話。これも、山行記を出版した波紋のひとつかもしれない。おもしろそうな企画だと、喜んで引き受けることにした。
 出演は月曜から金曜まで連続五日間、一回の出演時間は一分間弱。短時間のコーナーで、収録は五回分いっぺんにやるのだから、ごく簡単にすむだろうと思っていたが、さて、実際にやってみると大変だった。

 場所は青根の山荘、映像は近くの山で撮るということで、朝から来てもらった。制作チームは若い人たちばかりだったが、番組への打ち込み方はすごく、一分間五回の私のセリフも、内容からしやべり方から、このチームの眼鏡にかなう水準に達するのには、汗をかきかきひと苦労。ようやくそれが終わったら、今度は映像の収録である。ロケ地を探して丹沢の麓とかいろいろ回ったあげく、富士と山中湖が見渡せる山伏峠の高台まで歩くことにした。時間にすれば合計五分間程度の映像のはずだが、撮影するコマ数の多いこと。高台から富士と湖を展望する場面をメインにして、その途中、雪のなかを歩く、林のなかで小鳥の声をきく(現実にはこの季節にはいないのだが)、石に腰をおろして水を飲む、さらに場所を変えて、滝のそばで太い樹を仰ぎ見るなど、監督の注文はどこまでも続く。チーム全体が半端ではない熱心さである。

 すべてが終わったのは、午後もだいぶ遅かった。しかし、三月に放映された番組を見ると、やはり打ち込んだだけのことはあった。私としては、政治番組以外でテレビに出演したのは、クイズ番組に出たことが以前に一度あるだけで、語り手としての出演はこれがはじめて。記念のために、ここに記録させていただきたい。

子ども向け山登りのすすめ

 毎朝、「やまのぼりのえらいひと、にほんきょうさんとうのふわてつぞういいんちょうせんせい」という子どもたちの声にあわせて、私が登場するというしかけである。

 第一話は「なぜやまにのぼるの」が表題で、「やまはじぶんのはっけん」という主題が字幕で出る。そこで、私の語り。

 「おはようございます。今週は山登りのお話をします。
 私、登山靴を買ってちょうど今年で十一年になるんですけど、なぜ登るのかと聞かれて考えちゃうんですね。
 いろいろ楽しみがあるけれども、やっばりいちばんは、苦労して登り着いて、やりきったということ、やったな≠ニいう気持ちになる、これがいちばんうれしいですね。自分でもこれだけの力があったな、ということがわかる。自分を発見するといいましょうか。それがなによりの楽しみです。
 山にはたくさん楽しみがありますけれども、それはまた明日からお話ししましょう。じゃ、また明日ね」

 第二話は「やまのぼりにうまいへたはない」。テーマは「やまもじんせいもいっぽいっぽのつみかさねがだいじ」。

 「たいていのスポーツにはうまいへたがあります。サッカーが上手だとか走るのが速いとか。でも山登りは、歩く気さえあればだれでもやれるんです。
 もちろん登りがきつくてつらいときもあります。しかし、そこをがんばるのが山登りなんですね。ゆっくりでもいいんです。一歩一歩がんばって、それが積み重なって高い山にも登れるようになります。
 これは山だけじゃないんですね。人生に向かってもよく似たことがあります。どこでもどんな間題でも、一歩一歩の積み重ねをやっぱり大事にしていきたいですね。じゃ、また明日ね」

 第三話は「やまをのぼる」。テーマは「ひとはしぜんとのかかわりのなかでいきている」です。

 「めざすのは頂上ですけれども、その途中がとってもいいんですね。花もあれば緑もいっぱい。歩いているだけでいろんな動物に出会えるし、そこらへんにある岩や石もなかなかかっこいいんですよ。
 そして山を歩いていると、ほんとうに自然のすごさ、大きさ、そのなかで人間が生きているということを実感しますよね。
 なかなか都会で暮らしていると感じないものですけれど、やっぱり人間は自然のなかで生まれて、自然とのかかわりのなかで生きている、この実感が大切だと思いますね。じゃ、また明日」

 第四話。表題は「やまのちょうじょうにはなにがあるの?」、主題は「ちょうじょうにはもののみかたをかえてくれるなにかがある」。

 「街にいるとまわりしか見えないでしょ。しかし山の頂上にたどり着くとほんとうに新しい世界が見えてくるんですね。
 遠くの山がおりかさなって見える。海が見えるときもある。平野や街も見える。ほんとうに日本を見てるなあって感じがするもんです。空も山の頂上から見るとうーんと大きくて広いんですよね。
 世界を大きな広い目で見るってことはほんとうに大切なことなんです。それでものの見方がかわってくるってこともあるんですよね。みなさん、山に登って少しものの見方をかえてみたらどうでしょう。じゃ、また明日ね」

最後の第五話は「やまをおりるゆうき」。主題は「やまをおりるゆうきはあたらしいやまにのぼるゆうき」です。

「頂上は楽しいんですけれども、いつまでもいるわけにはいかないんですよね。あたらしい山に登るためにも思いきっておりる必要があります。
 そしてまた次の山登りの計画をたてましょう。新しい山でもいいし、同じ山になんども登るのも新しい発見があって楽しいものですよ。
 みなさんもぜひ山に登って、人生に役立ついろんなことを感じたり学んだりしてください。
 じゃあ、今度は山でお会いしましょう。そのときは、こんにちは≠チてあいさつしましょうね。
 みなさん、山に登りましょう。では、さようなら」

 子どもたちにあてた山登りへのメッセージだったが、いまあらためて読みなおしてみると、私なりの山への思いがけっこう語られているものである。
(不破哲三著「私の南アルプス」山と渓谷社 p66-70)

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◎「生活の中心から勉強心がぼけると、遊びかたがちがって来る……只話していて面白さがつきないという風なところ、或は黙ってそこにいて何か面白いという風な精神の流動がなくなって、何かいわゆる遊びをしないとたのしみにならないような空虚さが……丁度精神の低いものは、くすぐりやわざわざ茶利を云わなければ笑うことも出来ないようなのと同じ」と。