学習通信051115
◎どうしてもかなえたい!……

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夢は必ずかなう

 漫画家の三原ミツカズ先生と対談した。
 三原先生の代表作のひとつに、人間のお手伝いをするために開発されたアンドロイドたちの物語『DOLL』(祥伝社)がある。美少年、美少女の外見を持つドールたちのゴシック・ロリータ≠ニ呼ばれるファッションも、大きな話題を呼んだ(ビジュアル系バンド「マリス・ミゼル」みたいなファッション、といえばイメージできるかな?)。

 みんなの中にも「えーっ、私も三原先生のファンなのー、どんな人だった? 教えてー」と思ってる人、いるんじゃないかな?

 ではここで、特別に教えてあげよう。三原先生は、とってもカッコいいお姉さんでした(もちろん年齢は私よりずっと下)。ファッションは予想してたよりあっさりだったけれど、よく見るとシャツにも小物にもこだわりがいっぱい。ルックスや雰囲気は作品から想像していた通り。でも、やさしくて笑顔は若々しい人なんだよなあ。

 ……と、フアン度全開の話ばかりしていては、漫画好きじゃない人には通じないかもしれない。

 ただ、漫画ファンじゃない人にも、聞いてもらいたいエピソードがある。

 それは、三原先生がどうやって漫画家になったか、という話。家の仕事の関係で何度も引っ越しをしていた先生は、ある地方都市で中学、高校生活を送った。ずっと漫画を読んだり描いたりするのは好きだったが、漫画や出版の世界に知りあいがいたわけではない。

 「じゃ、どうやってデビューできたんですか?」ときくと、先生はにっこりほほえみながら、教えてくれた。

 「とても好きな漫画家の先生のところに、アシスタントにしてください≠ニいきなり手紙を書いて出したんです。それから、その先生の家に住み込みでアシスタントをしながら、本格的に漫画を描き始めました……」。知的ゴージャス派の三原先生の口から、「いきなり手紙」とか「住み込みでアシスタント」なんてことばを聞くとは思わなかった! でも、それだけ漫画に対して愛と熱意があった、ということだよね。

 私は、そのエピソードを聞きながら思った。私たちって、地方に住んでるから、やりたいことができない∞その世界に知りあいもいないから夢をかなえられない≠ネんて、すぐ思いがちだよね。でも、どうしてもやりたいことがあれば、三原先生のようにその熱意をだれかに伝えることはできるはず。そして、自分ひとりでもその夢を実現することはできるはず。

 「私なんて」「どうせダメだし」と思う前に、まず「どうしてもこうなりたい!」と夢を持ってみる。そして、「どうしてもかなえたい!」と努力すれば、その夢って必ずかなうものなんだ。三原先生の美しい作品と笑顔が、それを証明している。

□これを実現するためならどんな努力でもOK、というものがありますか
□「努力」はダサいと思いますか
□「こうなりたい」という夢を三つ以上、すぐあげられますか
(香山リカ著「10代のうちに考えておくこと」岩波ジュニア新書 p12-14)

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夢について

合理主義者孔子

 孔子は、たいへんな合理主義者であったと思う。
 「子日く、甚しいかな、吾が衰えたるや。久しいかな、吾れ復(ま)た夢に周公を見ず」という論語の一節にも、私はそれを感じとる。晩年の孔子が体力・気力の衰えを歎いて、以前にはよく周公の夢を見たのに、近頃はさっぱりだ、といったというのだが、神秘主義者であれば、こんなふうにはけっしていわなかっただろう。

 周公とは「周王朝の創業にあたって、王朝の政治と文化の方針、またそれらの組織をさだめた」とされる人物。この周公を「ひとり周王朝のみならず、人間の文化の方向を定めた偉人として、孔子が仰ぎ慕っていたことが、ほかならぬこの条によって最もよく示される」と吉川幸次郎氏はいう。そして、「それへの思慕を、恋人への思慕のように」とらえていることを「まことに美しい詩」と評し、「夢の文学の系譜を考えようとする人は、必ずこの条を逸してはならぬであろう」と付言している。(中国古典選『論語』朝日新聞社)

 「恋人への思慕のように」うんぬんはともあれ、私がここに「合理主義者孔子」を感じとるのは、周公の夢を周公への自分の関心のあらわれとしてうけとり、周公の霊が自分にあらわれたものというふうにはうけとっていないことによる。そしてこれは、古代にあってはまれなことであったように思う。

 もっとも、西郷信綱氏は「怪力乱神を語らぬ合理主義者の孔子でさえ」このようにいっているとして、このことは、「聖人の道はまだ理念として持たれるものであるより、夢において像化さるべきヴィジョンに近いものであった消息」を示すもの、というふうに論じている(『古代人と夢』平凡社)。白川静氏の『孔子伝』(中央公論社)におけるうけとり方も、ほぼこれに近い。しかし私は、にわかにこれには従いにくい。というのは私だって、マルクスと、また毛沢東と、そしてまた中曽根康弘氏と、夢で議論したことがあるのだから。そしてそのさい私はマルクスの思想を、また毛沢東の思想を、「夢において像化さるべきヴィジョンに近いもの」としてとらえていたつもりはないし、まして中曽根康弘氏のそれについてはいうまでもないのだから。

 それからまた、新島淳良氏は、その最近著『論語、全訳と吟味』(新地書房)のなかで、周公=聖人説話は戦国時代になってから成立したもので、孔子が周公を仰ぎ慕っていたとされるようになったのも戦国期以降であり、したがってこの条は「戦国中期以後の擬作であろう」としている。そして「夢も本人の責任だという観念が表わされている」と付言しているが、新島氏のいう「本人の責任」ということの内容は、「長いあいだ周公が夢枕に立たない」というぐあいに氏が本文の訳をつけていることに示されているだろう。

 しかし私は、これにも異議をもつ。かりにこの条が「戦国中期以後の擬作」であったとしても、そこからかいて見えてくるのはその擬作者の合理主義的思考であるはずで、それを「長いあいだ周公が夢枕に立たない」というふうに後半を訳すことは、「私心ずいぶん気力が衰えたものだ」という前半についての氏の訳とも論理的に矛盾するように思う。

そして、そこに示されている合理主義的思考は、論語の他の章句をつらぬいている孔子のそれとよく一致しており、したがって私は、この句をやはり孔子その人のことばとしてとらえることがもっとも妥当であるように思うのである。

エンゲルスと万葉集

 エンゲルスは『フォイエルバッハ論』のなかで、霊魂の観念が、夢の現象についての未開時代の人びとのとらえ方に起因するものだという説を述べている。そしてその一つの根拠として、当時のある人類学者の報告を引用している。すなわち、当時なお未開の状態にあった種族のなかで、現に「夢にあらわれる人間の姿は肉体を一時はなれた霊魂であるという考え方がひろくおこなわれており、だから現実の人間は、その夢に現われた姿が夢を見ている人にたいしておかした行為にたいしても責任がある、と考えられている」というのであった。

 もしエンゲルスが万葉集を知っていたら、自説のさらに確かな証拠がそこにたくさん存在することを見出し、よろこんでたくさんの引用を試みたろうと思う。エンゲルスにかわってそのいくつかを私のメモ帳のなかから。 「セミの声」の章でも触れた天平八年の遺新羅使の一行の歌(巻十五)のなかに、次のようなのがある。

 波の上に浮寝(うきね)せし夜何(よいあ)ど思(も)えか心悲しく夢(いめ)に見えつる


 「大島の鳴門を過ぎて再宿(ふたよ)を経し後」の作、と詞書(ことばがき)にある。「鳴門」とは潮が高鳴る狭い海峡のことで、「大島」とは山口県柳井市近くの大島であろうという。「波に漂う船の上に寝た夜、私の身に迫る危険を感じとったのだろうか、心悲しくも妻の姿が(妻の魂が)私の夢にあらわれた」というのである。「当時夢は思う方が現われる場合が普通」と中西進氏は注している。(『万葉集』講談社文庫)「心悲しく」という「心」とは、直接的には「私の心」ということだろうが、それは夢にあらわれた妻の姿がいかにも悲しげであったことにょっているだろう。

 船はやがて、山口県防府市あたりの海上で逆風にあい、波にもまれて漂流した。一夜あけて、ようやく大分県中津市あたりの浦に流れついた。そこでまた、一行のなかの一人が「艱難(かんなん)を悼(いた)み、悽惆(かなし)みて」歌った──

 吾妹子(わぎもこ)が如何に思えかぬばたまの一夜(ひとよ)も落ちず夢にし見ゆる

 「私の妻がどんなに私のことを気づかっているためだろうか、一夜も欠かすことなく妻の姿が(妻の魂が)私の夢にあらわれてくる」というのである。「思う主体が夢に登場するのが普通」と再び中西氏の注にいう。
 あるいはまた、巻十四の東歌、すなわち関東地方の民衆の歌の一首。

 筑波嶺(つくばね)の彼面(おもて)此面(このも)に守部(もりべ)すえ母い守れども魂そ逢いにける

 「筑波山のあちこちに獣の番人をたてておくみたいに、お母さんが私を見張っていてあの人に逢わせてくれないけれど、私たちの魂はちゃんと夢のなかで出逢ったよ」というのである。

 これと類似の歌が巻十二にある。

 魂合(たまあ)わば相寝(あいね)むものを小山田の鹿猪田禁(ししだも)るごと母し守(も)らすも

 「魂が合えば共寝をしようものを。小山田の鹿猪に荒らされる田を守るように、母は監視なさるよ」と中西氏は口訳し、「魂の結合によって離れた二人の共寝が可能と考えた」と注する。だが、この解釈には、食い足りないものを私は感じる。折口信夫の『口訳万葉集』はこの最後の七字を「いとしい人の母親が番して、逢わして下さらないことだ」というふうに口訳しており、そしてそれは卓見だと思うが、はじめの十二字を「心さえ合うたら、共に寝ようと思うのに」と訳しているのは、いただけない。折口らしくもない近代主義的解釈、といったらいいすぎだろうか。

 「夢の中であなたの魂と出あったら、たとえ夢の中であろうとも抱きあってともに寝たいと思うのに、その夢の中にまであなたのお母さんが出張ってきて、あなたの番をしているとは、いやはや」というぐあいに私はこれを口訳したいと思う。

万葉集、つづき

 万葉集巻十五は、前記遣新羅使一行の歌のほか、中臣宅守(なかとみのやかもり)と狭野茅上〔弟上〕娘子との悲恋の歌、六三首を収める。この恋は禁断の恋であったらしく、宅守は越前国へ配流となった。娘子の歌には絶唱というべきものがおおい。

足引(あしびき)の山路越えむとする君を心に持ちて安けくもなし
君が行く道の長道(ながて)を繰り畳ね焼きほろぼさむ天(あめ)の火もがも
天地(あめつち)の極(そこひ)の中(うち)に吾(あ)がごとく君に恋うらむ人は実(さね)あらじ
我が背子(せこ)が帰り来まさむ時のため命残さむ忘れ給うな

娘子にはまた、次のような歌もある。

魂は朝夕(あしたゆうべ)に魂触(たまふ)れど我(あ)が胸いたし恋の繁きに

 「魂だけは、朝でも晩でも、始終近しう、あなたと行き逢うていますが、甚しく焦れるために、私の胸は、痛いことであります」──以上の訓(よ)みと口訳は折口信夫による。中西進氏は「魂は朝夕べに賜ふれど」と訓み、「魂は朝に夕べに頂いていますけれど」と口訳した上で「魂」とは宅守のそれの意であり、宅守との「霊(たま)合いを感じる意」と注する。いずれにしても娘子は朝に夕に恋人の姿を夢に見、それを実際に恋人の魂との出逢いと信じていたのだろう。

 恋人の姿を夢に見るということでは、宅守の方も同じであった。

思わずも実(まこと)あり得むやさ寝る夜の夢にも妹(いも)が見えざらなくに

 「恋人への思慕を絶ちきることが現実に可能だろうか。いやとてもそんなことはできない。現に、恋人の姿が夢に現われぬ夜とてはないのだ」というぐあいに口訳できるだろう。

 ところで宅守は、娘子のように、夢のなかでの恋人との出逢いを、恋人の魂との実際の出逢しと 信じていたろうか。どうもそうではなかったらしい。

思う故(え)に逢うものならば暫(しまし)くも妹が目離(か)れて吾居(あれお)らめやも

 「思慕しあえば逢えるという。それならどうしてこれほど逢えないことがあるのか。片時の間とて忘れないのに」(中西進氏口訳)という歌は、そのことを暗示する。そしてさらに決定的な証拠──

思いつつ寝ればかもとなぬば玉の一夜(ひとよ)も落ちず夢(いめ)にし見ゆる

 この歌の後半は、天平八年の遣新羅使一行中の一人が、船が逆風にあって漂流したあと作ったという歌のそれとまったく同じであって、恋人の姿を毎夜夢に見る、という事実を述べている。ところで、遣新羅使一行中の一人の歌の場合は、その原因を「吾妹子(わぎもこ)が如何に思えか」というぐあいに、自分にたいする相手の思いに求めていた。夢に現われる相手の姿は、相手の魂そのものと信じられていたのだった。

ところが宅守の歌の場合には、そこのところが「思いつつ寝ればか」というぐあいになっている。この「思いつつ寝」る主体は宅守自身である。相手にたいする自分の思いが相手の姿を夢に見させるのだ、というのである。「もとな」すなわち心もとない、ということばはそこから出てきていよう。毎夜相手を夢に見る、それは確かな事実だが、ほんとうに相手が自分のことを思いつづけてくれているかどうか、それはわからない、心もとない、という気持ちではなかろうか。

 「娘子の歌の情熱的な強さに対して、宅守の歌には内向的な男の弱々しさがある」と山本健吉氏は評している。「悲恋の切実さはみえるが類型的な歌が多い」という評(桜井満氏)もある。よくわかるような気がする……。

夢についてのレーニンの考察

 夢についての諸家の考察のなかには、レーニンのそれもある。
 「もっとも厳密な科学においてさえ、空想のやくわりを否定するのは馬鹿げている。ピーサレフが仕事への刺激としての有益な夢と空虚な夢想とについて述べているのを見よ」(『哲学ノート』)

 『なにをなすべきか』においてもレーニンは、やはりピーサレフを援用しながら「夢みることの権利と意義」について語っている。

 夢を見よう、夢はたいせつに、などというと、自称マルクス主義者のなかには、それは観念論だ、といきりたつ人がいる。彼らはこわい顔して詰問する──「マルクス主義者ともあろうものが、ぜんたい夢想などをする権利があるのか?」と。

 「このおそろしい質問をおもっただけで、私は膚がさむけだってくる」とレーニンは書いている。

 「そこでどこに身をかくそうかと、そればかり考える。ひとつピーサレフのうしろにかくれてみるとしよう」

 つづけて、「ピーサレフは、夢想と現実の不一致という問題についてつぎのように書いている」としてレーニンが引用している文章は──

「一概に不一致といってもいろいろのものがある。私の夢想が諸事件の自然の歩みを追いこすこともありうるし、諸事件のどんな自然の歩みもそこまではけっして到達できないような、まったくのわき道にはいりこむこともありうる。まえのばあいには、夢想はどのような弊害ももたらさない。それは、勤労する人の精力を維持しつよめることさえできる。……このような夢想には、働く力をゆがめたり麻痙させたりするものはなにもない。

むしろ、その正反対でさえある。もし人間がこういう夢想をする能力をまったくうばわれていたとしたら、もし人間がときどきはさきばしって、自分の手中でようやく形をなしかけた創作品を、彼の想像によって、完全な、完成した姿でながめることができないとしたら、そのときには、どういう動機が人間を刺激して、芸術、科学、実際生活の各分野で、広大な、精魂をすりへらす仕事をくわだてさせ、また最後までそれをやりとげさせるであろうか、私にはまったく考えることができない。

……夢想する人物が生活を注意ぶかく熟視しつつも、真剣に自分の夢想を信じ、自分の観察と自分の空中楼閣とを引きくらべ、総じて自分の空想の実現のために誠実に働きさえするなら、夢想と現実との不一致は、どのような弊害ももたらすものではない。夢想と生活のあいだになにかの接触があれば、万事は順調に行なわれる」

 ピーサレフからの引用は、以上。その上でレーニンは、短くつぎのようにしめくくっている。

 「不幸なことに、われわれの運動にはまさにこういう種類の夢想があまりにもすくなすぎる。そしてこれについてだれよりも責任があるのは、自分たちの素面なことや、具体的な事がら≠ノ近い≠アとを鼻にかける合法的批判と非合法的追随主義≠ニの代表者たちなのである」

 これをもって、夢についての私のこのノート全体のしめくくりともしたい。
(高田求著「新人生論ノート PART U」新日本出版社 p206-216)

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◎夢想がすくなすぎる……「だれよりも責任があるのは、自分たちの素面なことや、具体的な事がら≠ノ近い≠アとを鼻にかける合法的批判と非合法的追随主義≠ニの代表者たち」と。

私たちの近くにも灰色の実務主義者≠ェ。