学習通信051121
◎「そうだろうかね。パーシャ」……

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 労働者のあいだで見られる道徳的退廃のもう一つの原因は、労働が刑罰とされていることである。もし自由意志にもとづく生産活動が、われわれの知っている最高の喜びであるとするなら、強制労働はもっともきびしい、もっとも屈辱的な苦痛である。

毎日、朝から晩まで、いやな仕事をしなければならないことほど、恐ろしいことはない。労働者が人間的な感情をもっていればいるほど、彼にとってそういう労働はいやなものになるに違いない。なぜなら彼は、そういう強制を自分にとっては無意味なものと感ずるからである。

いったい彼はなんのために働くのか? 創造の喜びのためか? 自然の衝動からか? けっしてそうではない。彼が働くのはお金のためであり、労働そのものとはまったく関係のないあるもののためであり、働かなければならないから働くのである。

そして非常に長いあいだ、まったく休みなしに単調な労働をするので、この理由からだけでも、もし彼になんらかの人間的な感情が残っていれば、最初の数週間で労働は苦痛となるに違いない。強制労働は一般に人間を動物化するものだが、分業はその作用を何倍にもつよめた。たいていの労働部門では、労働者の仕事は、毎分毎分くりかえしの、年がら年中おなじままの、つまらない、まったく機械的な操作にかぎられている。

幼時から毎日毎日一二時間、あるいはそれ以上も、針の頭をつくったり、歯車をやすりで磨いたり、それ以外でもイギリスのプロレタリアのような状況のなかで暮らしてきた人が、三〇歳になったときに、人間的な感情や能力をどれだけもちつづけていられるだろうか? 蒸気力や機械が導入されても同じことである。労働者の仕事は軽くなり、筋肉を緊張させることは少なくなり、労働そのものがつまらない、きわめて単調なものになる。

労働は彼に精神的な活動の場を与えないのに、その労働をきちんとやっていくためには、ほかのことをまったく考えてはいられないほどの注意力が必要とされる。

そしてこのような労働──労働者の自由時間をすべて奪い、食うひまも眠るひまも与えず、戸外で運動したり、自然を楽しんだり、まして精神的な活動の時間などはゆるさないような労働──を刑罰として科することは、人間を動物に転落させてしまうことではないだろうか!

 労働者にはやはり、自分の運命にしたがって「よい労働者」となり、ブルジョアジーの利益を「忠実に」守るか──その場合、彼は確実に動物に転落する──、

あるいは、できるだけ抵抗して自分の人間性を守るためにたたかうか、ふつに一つの選択しか残されていない。そしてあとの道は、ブルジョアジーとのたたかいのなかでのみ可能となる。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 上」新日本出版社 p182-183)

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 ある日、夕食がすむと、パーヴェルは、窓にカーテンをおろして、隅に腰をおろし、ブリキ製のランプを、自分の頭の上の辺の壁に掛けて、読書を始めた。母は、食器を片づけ、台所から出て来て、そっと彼のそばに近寄った。彼は頭をあげて、もの問いたげに彼女の顔を見た。

 「なんでもないんだよ。パーシャ! 〔パーヴェルの愛称〕ただ、ちょっと……」と、急いで彼女は言って、当惑したように眉を動かして出て行った。しかし、しばらくの間台所のまん中にじっと、心配そうに考え込んで突っ立っていたが、やがてきれいに手を洗って、ふたたび息子のところへ出て行った。

 「おまえにききたいことがあるのだが、」と彼女は小声で言った。「おまえはいつも何を読んでいるのかえ?」彼は本を置いた。
 「おかあさん、お掛けなさい……」

 母は彼の横に重々しげに腰をおろし、身体をしゃんと伸ばし、何か重大なことを予期して、聞き耳を立てた。
 パーヴェルは、母の顔は見ないで、小声で、なぜかひどくきびしい調子で、語り出した。

 「ぼくは発禁になった本を読んでいるんです。この本を読むのを禁められている理由は、それがぼくたち労働者の生活の真実を語っているからなのです……。」れは、こっそりと秘密に印刷されているのです。もし、この本がぼくのところにあるのが見つかったら、ぼくは牢舎に入れられるんです──ぼくが真実のことを知りたがっているということで、牢舎に入れられるんです。わかりましたか?」

 彼女は急に息が苦しくなった。彼女は、大きく目を開いて息子をながめたが、彼が他人のような気がした。彼は声も違っていた──ずっと低く、太く、しかも強い響きを持っていた。彼は指で薄い、生毛のような口ひげをひねり、変に上目づかいに、どこか片隅をながめていた。彼女は、息子の身の上が恐ろしく、息子がかわいそうになった。

 「何だって、そんなものを読むんだね、パーシャ?」と、彼女は言った。
 彼は頭を上げ、彼女をちらりと見て、小声で、静かに答えた。
 「真実のことが知りたいんです。」

 彼の声の響きは静かであったが、しっかりとしていて目は一徹に光っていた。彼女は、息子が自分の運命を何か秘密な恐ろしいことに結びつけたということを、心で悟った。彼女は、人生のうちに起こるすべてのことは、避けられないものに思われ、考えないで、それに従うことに慣れていた。それで今も、悲しみとやるせなさに締めつけられた心の中で、言うべき言葉も見つからず、ただ静かに泣き出すばかりであった。

 「泣かないで!」と、パーヴェルは、優しく静かに言った。が、彼女には息子と別れてゆくような気がした。「わたしたちが、どんな生活をしているか、考えてごらんなさい。あんたは四十だ──だが、生きてきたと言えますか? おとうさんは、あんたをぶんなぐった──ぼくは今となってわかるんだが、おとうさんは、あんたの横腹に、自分の欝憤をぶちまけていたんです。自分の生活の欝憤をね。あの人はそれに押しひしがれていたが、それがどこからくるものか、わからなかった。おとうさんは三十年間働きつづけた。工場全体が二棟だけだった時から働き始めたんだが、今じゃそれが七棟にもなっている!」

 彼女は、彼の言葉を恐ろしく思いながらも、むさぼるように聞いていた。息子の目は、美しく明るく燃えていた。テーブルに胸をもたせかけて、彼女の方にすり寄った。涙にぬれた顔に向かって、まともに、自分が理解した真実についての最初の言葉を語った。青春のすべての力と、知識を誇りとしてその真実を神聖に信じている生徒の熱意をこめて、彼は、自分にとって明らかなことを語った──母親のためだけではなく、自分自身を確かめるために語った。時々彼は、言葉が見つからないので言葉をきった。そして、涙で曇った優しい目がぼんやり輝いている悲しげな顔を、目の前に見た。その目は、恐れとためらいの色を浮かべてながめていた。彼は、母がかわいそうになり、ふたたび語り始めたが、しかしそれはもはや、母のこと、母の生活のことであった。

 「おかあさんは、どんな喜びを知っていましたか?」と、彼はたずねた。「過ぎ去った昔を、どういうものとして思い出せますか?」

 彼女は聞いていた。そして、何か自分の知らない、新しいもの、悲しくうれしいものを感じながら、もの悲しく頭を振っていた。──その新しいものは、彼女の痛みきった心を優しくなでいたわってくれた。自分について、また自分の生活についてのこういう言葉を、彼女は初めて聞いた。そしてそれは、彼女の心の中に、とうの昔に眠ってしまったぼんやりした思いを呼びさまし、生活に対するおぼろげな不満の消え去った感情を静かにかき立てるのであった。それは──遠い青春の考えや感情であったのだ。彼女は、女友だちと生活について語り、長い間、すべてのことについて語り合った。しかし、皆も──そして彼女自身も──ただ愚痴をこぼすだけで、だれも、なぜ生活がこんなに苦しく辛いのか説明してくれなかった。ところが今、目の前に、息子がいる。そして彼の目、顔、言葉が語ること、──すべてそれは心を打ち、息子を誇りに思う感情で胸がいっぱいになる。息子は、自分の母の生活を正しく理解してくれ、母の苦しみについて語り、母を哀れんでくれるのだ。

 母親たちを、哀れんではくれない。
 彼女はそれを知っていた。息子が母の生活について語ったことは、すべて──よくわかっている苦い真実であった。そして彼女の胸の中には、まだ昧わったことのない愛撫でますます暖められてくる感情の塊が、静かに打ち震えていた。

 「おまえはどうしたいと言うんだね?」と、彼女は、彼の話をさえぎってきいた。
 「勉強したいんです。それから、ほかの人たちを教えてやりたいんです。ぼくたち労働者は、勉強しなければならない。ぼくたちは、なぜ生活がこんなにわれわれにとって苦しいのか知らなくちゃならない、わからなくちゃならない。」

 彼女は、いつもは生真面目できびしい彼の灰色の目が、今、こんなにもの柔らかに優しく燃え立っているのを見るのが、快かった。彼女の両ほおのしわの中には、まだ涙が震えていたが、その唇の上には、満足げな静かな微笑が浮かんだ。彼女が息子を誇りに思う気持ちには、二重の感情があって、動揺していた。息子は生活の悲しみをこんなにもよくわかっているのだが、母は、息子の若さを忘れることができず、息子がみんなとは違ったことを言っていること、みんなに慣れっこになった──そして彼女にも慣れっこになったこの生活と、ただ一人で争おうと決心したことを、忘れることができなかった。彼女は、彼にこう言ってやりたくなった。

 『かわいい坊や、おまえに何かできるというんだね?』
 しかし彼女は、それが息子を感心して見とれている自分にとって妨げになるのを恐れた。息子は不意に彼女の前に、こんなにも聡明なところを見せてくれたのだ……彼女にとっていくらか親しめないところがあるにしても。

 パーヴェルは、母の唇に浮かんだ微笑を、顔に現われた注意を、目にこもっている愛情を見て、自分の真理を彼女にわからせたと思った。そして言葉の力を誇る若者らしい感情が彼の自信を高めた。興奮にかられて彼は、薄笑いをもらしたり、眉をしかめたりしながら語った。時々彼の言葉には憎しみが響いた。そして母は、憎しみの鳴り響く激しい言葉を聞くと、おびえたように頭を振って、小声で息子にたずねた。

 「そうだろうかね。パーシャ」
 「そうですとも!」と、彼はしっかりと強く答えた。そして人民に良いことを望み、人民の中に真実をまきひろげるために、生活の敵どもに、けだもののように捕えられ、牢獄に投げ込まれ、苦役に送られた人々のことを話して聞かせた……

 「ぼくは、そういう人たちに会ったんです!」と、彼は熱をこめて叫んだ。「それはこの地上での一番立派な人たちなんです!」
 こういう人たちは、彼女に恐怖心を起こさせた。彼女はまたも、息子に『そうだろうかね?』と、きいてみたくなった。

 だが、その決心がつかないままに、彼女は気が遠くなるような思いで、彼女の息子にこんなにも危険なことを話したり考えたりすることを教え込んだ得体の知れない人々の話を聞いていた。ついに彼女は、彼に言った。

 「もうすぐ夜が明けるよ、おまえ、横になって、おやすみよ!」
 「ええ、ぼくもすぐ寝ますよ!」と、彼は同意した。そして彼女の方へかがみ込んで、きいた。「ぼくの言ったことが、わかりましたか?」
 「わかったよ!」と吐息をついて、彼女は答えた。彼女の目からは、ふたたび涙がこぼれた。そして、すすりあげて、彼女はつけ加えて言った。「おまえは、やられてしもうよ!」

 彼は立ち上がり、室の中を歩きまわってからこう言った。
 「これで、おかあさんも、ぼくが何をしているか、どこへ通っているのか、わかったでしょう。ぼくはすっかり話しましたからね! ぼくは、あなたにお頼みしますよ。おっかさん、ぼくを愛していてくれるなら、ぼくの邪魔をしないで下さい!………」

 「ねえ、おまえ!」と、彼女は叫んだ。「たぶん、あたしは何も知らなかった方が、もっとよかったかもしれないね!」
 彼は、彼女の手を取り、きつく握り締めた。
 彼女は、彼が熱をこめて言った「おっかさん」という言葉と、この新しい、奇妙な握手の仕方に感動させられた。

 「あたしは何もしはしないよ!」と、とぎれる声で彼女は言った。「ただおまえ、自分を大事にするんだよ!──大事にね!」
 何を大事にしなければならないかもわからないで、彼女はもの悲しげに言い加えた。

 「おまえはだんだんやせてゆくね……」
 そして、彼のがっしりした、よく整った身体を、愛情のこもった暖かい目つきで抱くようにして、口早に小声で言いだした。

 「好きなようにおやり! 好きなように生きておくれ、わたしはおまえの邪魔はしないよ。ただ一つ頼むことは──世間の人たちとは向こう見ずに話さないでおくれ! 世間の人たちには用心しかくちゃならないよ。──みんなお互いに憎み合っているんだからね! 欲とねたみで生きているんだよ。みんな意地の悪いことをするのがうれしいんだよ。おまえがその人たちをあばいたり、裁いたりし始めると──おまえは憎まれて、ひどい目に会うんだよ!」

 息子は戸口に立って、このもの悲しい話を聞いてい
た。母が言い終わると、彼は微笑しながら、言った。
 「世間の人たちは、悪い。そのとおりですよ。だけど、ぼくは、この世に真実があることを知ってからは──世間の人たちは、ずっとよくなってきましたよ!……」

 彼はふたたびにっこり笑って、言葉をつづけた。

 「どうしてそうなったか、自分でもわかりませんがね! 子供の時から、ぼくはみんなを恐れていたし、大きくなってからは、憎みだしましたね。卑劣だから憎んだものもあるし、何のためだかもわからず、ただ訳もなく憎んだものもあります! だが今では、みんなが、ぼくには違った風に見えてきました。みんながかわいそうだ、とでもいうのかな? 自分でもわからないけれど、きたないからといって咎められるのは、みんな全部のものじゃないということがわかってみると、心はずっと柔らかくなりましたよ……」

 彼は、自分の心の中の何かに耳を傾けているかのように、口をつぐんだ。やがて小声で、もの思わしげに言った。
 「これこそ真実の生命なんですよ!」

 彼女は、彼をちらりと見て、小声で言った。
 「まあ、おまえといったら、あぶない変わり方をしたもんだね!」

 彼が横になって、眠り入ると、母はそっと自分のべッドから起き上がって、静かに彼のそばに歩み寄った。パーヴェルは、仰向けになって寝ていた。白い枕の上には、彼の浅黒い、かたくなな、きびしい顔が、くっきりと描き出されていた。両手を胸に当てて、母は、はだしで、下着一枚で、彼のべッドのそばに立っていた。彼女の唇は音もなく動いて、目からは、ゆるやかになだらかに、大粒の濁った涙が、ぽたりぽたりと落ちていた。

 そしてふたたび、お互いに遠くもあり、また近くもある間柄の彼ら二人は、黙って暮らしていった。
(マクシム・ゴーリキイ「母」新日本出版社 p18-24)

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◎「労働者にはやはり、自分の運命にしたがって「よい労働者」となり、ブルジョアジーの利益を「忠実に」守るか──その場合、彼は確実に動物に転落する──、

あるいは、できるだけ抵抗して自分の人間性を守るためにたたかうか、ふつに一つの選択しか残されていない。

そしてあとの道は、ブルジョアジーとのたたかいのなかでのみ可能となる」と。