学習通信051124
◎動物的な子ども……

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あまやかしは個性を育てない

 「乳幼児時代は教育というより、くつろいだ雰囲気のなかで、のびのびと個性ゆたかに育てるのが何より」ということを、子どもが何をしてもしからないことだと考えている人があります。チョコレートを買ってもらうとすぐ紙をはがして店の前にすてて、食べながら店を出てくる。手をつながれながら、片手でよその庭先の花をむしる。お客さんに出したくだものをつまんで食べても、おかあさんはお客さんの手前、「お行儀がわるいわねえ、この子は」とつぶやくぐらいで、本気でしかろうとはしません。

 これではのびのびと個性ゆたかに育つどころではないのです。こういう子は、いつも目先の感覚的な欲求をみたすことにばかり慣らされます。大げさにいえば、動物的な子どもができてしまいます。自分の頭で考えることができないのです。「考える」ということは、目先の感覚的な欲求にひきまわされないで、これをのりこえる心をもつことだからです。

 たとえば−
「あ、食べたいな」(だけどもうじきおやつだ)「もうちょっとまたなくちや」
「これそうじするの? くさいし、きたなくていやだなあ」 (だけどウサギが病気になったら、いい赤ちゃん産んでくれないぞ)「きれいにそうじしてやろう」
「いまかたづけるの、めんどうだな」(だけど、ぼくたちの責任だ)「一度かたづけよう」

 こうして、年齢相応に、自主的思考、連帯感ややさしい心、いやなこともやる勇気や実行力、責任感などが育っていくのです。きちんとした生活習慣やしつけこそ、こどもをこういう方向へ導いていくもので、あまやかした放任主義はけっしてゆたかな個性をつくりはしません。

 個性とはイヌやネコの個休差とはちがい、社会的な人間性の上に立った思考の独自性なのです。だから集団のなかで、他人も自分も一個の人格とみとめ、みとめられるなかでこそ、ゆたかな個性は育つのです。

 泣いている子がいれば、わけも聞かずに「いい子だ、いい子だ」と頭をなでてごきげんをとり、近所の子にはわけもなくお菓子をサービスする。また、むりなやりくりをして高価なおもちゃも買ってやる。うっかりすると美徳とまちがえるこうした習慣は、子どもたちとよい人間関係を結び、よい教育効果をもたらすことにはなりません。

わたしたちの、子どもにたいするしつけは、もっと相手を一個の人格としてみとめ、わけもないあまやかしはつつしみ、働くものとして持ってほしい考え方が身につくよう、きちんとしつけるべきだと考えます。
(近藤・好永・橋本・天野「子どものしつけ百話」新日本新書 p46-47)
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「個性的」ということ

 「自立」ということは「個性」ということと深い関係にあると思います。では「個性」あるいは「個性的」とは、どういうことをいうのでしょうか。

 「個性的な服装って、どんなものをいうのかしらね」と、東京労働学校にあつまった若い 女性たちにきいてみたことがあります。すると、たいへん個性的な答がかえってきました。

 「その服装を思いうかべたとき、あ、あの人、というふうにむすびつくもの」
 「自分にあったものをつかんで、自分で自信をもって、これが自分だ、と主張できるもの」 「パッと見たとき、キラリと光るその人のもの。その人の内面から出たものが服装とピタリとしているとき、個性的だなと思う」

 こんなぐあいでした。
 「じゃあ、個性的でないなと感じるのはどんな場合?」ときいたら−
 「人のコトバや流行に左右されて動揺しちゃうもの。人がやってるから自分も、という感じのもの」
 「へんにつっぱって、自分を目だたそうとしたり、ちがったふうに見せかけようとしたりするもの」
 「その人の人がらや生活にマッチしてないチグハグな服装。でも、その人がチグハグな生活をしてるのなら、そのチグハグなところがその人なりに個性的≠ニいうことにもなるかもしれないけど」

 およそ、こんな答でした。
 私は、服装について語る自信などまったくなく、その資格もないと自覚していますが、彼女たちのことばには文句なしに共感できます。「自分のもの」をもつことが、やっばりなによりもかんじんなんですね。「個性」とは、自分が自分の人生の主人公として生きていくなかからつくりだされていく、その人自身のもち味、といえるのだろうと思います。
(高田求著「未来をきりひらく保育観」きららカルチャーブックス p196-197)
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個性的に生きるということとは

 個性的に生きるとはどういうことか。
 私たちは毎日毎日をなんらかのしかたで生きています。その生き方は、人それぞれによってちがうようにみえます。完全に同じ、ということはありません。それは、私たちが、みな、自分なりの意思をもって、こうしたい、こうしよう、と考えて行動しているからでしょう。もちろん、共通の面もあります。しかし、同じことをしてもやり方はちがいます。それは、人それぞれ、それなりの個性をもっているからです。

 個性とは、辞書を引くと、個人に具わり、その個人を他の個人と異ならせる性格(『広辞苑』)、あるいは、個人・個物を他の人・物から区別しうるような、個有の特性(『大辞林』)、ということです。英語のインディヴィデュアリティ、あるいはパーソナリティーの訳語でしょう。人は自分の個性を大事にするか、あるいは他の人たちと同じようにするか、この二つの間をゆれうごいているようです。

 では、その個性とは、どうしてできあがってきたものか。いろいろな説明があります。

 生まれながらに備わったものだ、ともいわれます。また、教育によって身についたものだともいわれます。しかし、それらの説明はどうも一面的で、十分に納得できるものではありません。では、どのような説明が可能か。

 まず、生まれたときからの環境、境遇というものがあります。両親・家族の影響があります。保育園から学校にいたる教育、友人、先輩たちの影響があります。さらに、それをとりまく社会全体の影響があります。これらは人それぞれによって多少のちがいがあります。それらのくみあわせ、それにたいする人それぞれの反応のしかたなど、さまざまな要因によって個性は形づくられてゆきます。

 人間は一人で生きているわけではありません。社会とはなれて生きてゆくことはできません。辞書では、個性とは他とのちがいといっていますが、そのちがいと同時に、他との共通の面も多いことは否定できません。まったく他人とちがう個人というものを考えることはできません。一人の人間とは、他人と同様のあり方と、みずから独特のあり方との複合体だといってもよいでしょう。

 しかも、共通の面と、独自の面とは、切りはなしがたくむすびついており、共通の面なしにはこの社会で生きてゆくことができないことは、私たちが日々経験しているところです。いわば、個性が発揮されるのは、ごく限られた部分でしかないともいえましょう。にもかかわらず、人は個性的に生きたいという気持ちを捨てることはできません。

現実の社会のなかで「自由に生きる」

 個性的に生きる、ということは、自由に生きる、ということでもあります。では、自由とはなにか。心のままであること、思う通り(『広辞林』)、あるいは、他から影響、拘束、支配などを受けないで、みずからの意思や本性に従っていること(『大辞林』)、これが自由だといわれています。青年の多くが、組織に入ることを拒んだり、他からすすめられるままに何かをしようとするのではなく、自分なりにきめたいのだ、と思う気持ちは、この自由でありたい、ということでもありましょう。

 青年の多くが、いまの政治・社会に大きな不満を抱きながらも、支持政党なし、という状態にあるのは、自分を自由にしておきたい、なにか一つの方向に自分をきめてしまうのは自由を失うことになるのではないか、というおそれからもきていましょう。

 しかし、自分で考え、自分できめる、とはいっても、それが他からの影響からまったくはなれてきめているのか、といえば、そうではないでしょう。少なくとも、いくつかの可能性のなかから一つを選択する、ということに限られざるをえない、ということにもなりましょう。みずからの考え、判断、行動が、周囲、社会からまったく切りはなれてありえない以上、自由とはいっても、それはたいへん制限された、選択の幅の狭いものにならざるをえない、その制限をのりこえようとすれば、空想の世界に遊ぶしかない、これが実際でしょう。

 事実、俺は自由だ、という人の行動をみても、それはごく限られた範囲での自由であって、大きな目でみれば、現実の社会のなかでのいくつかのあり方のうちの一つを選んでいるにすぎない、ということが多いのではないでしょうか。

 にもかかわらず、青年は自由を求める。老人や壮年が、あきらめきったあり方、あるいは一つのあり方にきめて行動しているのをみて、俺はそうはなるまい、もっと自由に生きたいと考える。なぜか。

 個性的に生きる、自由に生きる、このことは、現実の社会のなかで、はたして可能なのか。「現在に生きる」とはどういうことなのか。
(関幸夫著「個性的に自由に生きるとは」新日本出版社 p19-24)

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 こうして労働者は、肉体的にも知的にも、さらに道徳的にも、権力をもつ階級からつきはなされ、放置されている。

彼らのことをかまってくれる唯一のものは法律であって、それは彼らがブルジョアジーを怒らせるや否や、彼らをしめつける──理性をもたない動物にたいするのと同じように、彼らにはたった一つの教育手段しか用いられない──それは鞭であり、残酷な、説得ではなくただ威嚇するだけの暴カである。

したがって、動物のようにあつかわれている労働者がほんとうに動物になったり、あるいは、権力を握っているブルジョアジーにたいして憎悪を燃やし、たえず心のなかではげしく怒っていることによってのみ、人間らしい意識と感情をもちつづけることができるのも、当然のことである。

彼らは支配階級にたいして怒りを感じているかぎりにおいて人問なのである。

彼らにかけられている首かせを我慢し、その首かせを自分でこわそうとせず、首かせをつけたままの生活を快適だと思うようになるとすぐ、彼らは動物になる。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態」新日本出版社 p176)

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◎「「個性」とは、自分が自分の人生の主人公として生きていくなかからつくりだされていく、その人自身のもち味、といえるのだ」と。