学習通信051129
◎小さな声でボソボソ……

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声に出してみよう

 今、「声」がブームになってるって知ってた?
 本屋さんには「声」に関する本がいっぱい。ブームの始まりになったのは、斎藤孝さんという学者が書いた『声に出して読みたい日本語』(草思社)。日本人に昔から愛されてきた物語や詩などの一部を紹介しながら、それを声に出して読んでみよう、というもの。

 斎藤さんは教育学の先生。以前から、「腰やハラにしっかり力をこめよう」と言い続けてきた。「声を出そう」というのは、その応用。だから、小さな声でボソボソ読むんじゃなくて、ちゃんとしっかりした声でゆっくり読むのが大切ということ。

 たしかに今は、私たちの生活の中でも、「声を出す」ことよりも「目で見る」ことのほうが多くなっている。たとえば、高校生や大学生、若い会社員が大好きな携帯電話。あれも「電話」とはいうものの、通話よりメールをやりとりする装置として使っている人がほとんど。

 私が授業をしている大学のクラスできいてみたら、「メール機能より通話機能をたくさん使う」という人は、約一〇〇人のうちわずか三人だけだった。半分以上の人は「ほとんどメールしか使わない」。メールは指で打つけれど読むときは「目で見る」から、ここでも声よりも目が使われているということ。

 テレビでも、最近は音だけじゃなくて文字の字幕(テロップ)がよく出るよね。しかも、「○○県××市で震度3の地震」といったニュースのテロップだけじゃなくて、バラティー番組で「なに言うてんねん!」なんてタレントの発言はそのまま文字になって出てくることもある。「音で聞くより目で見たほうがインパクトが強い」と思う人が増えてるってこと。
 みんなはどう? ふだんの生活で、「声を出す」のと「目で見る」のとどっちの割合が多い?

 心理学では、「声を出す」ことで記憶がしやすくなる、という研究がある。まだ文字を持っていなかった古代の人たちは、本にすると何百ページにもなるような物語を口づたえだけで次の世代の人に伝えていた。「昔の人のほうが記憶力がよかったの?」と思うかもしれないけれど、そんなはずはないし。

いろいろな研究の結果、これはどうやら「声を出す」ということと関係しているのではないか、ということがわかってきた。長い物語も何度も何度も声に出してくり返しているうちに、自然に覚えやすい文章ができあがり、すんなり記憶できるようになったのではないか、というのだ。

 本に書かれたものを黙って読んでいるだけでは覚えられないものも、声に出しているとけっこう記憶しやすくなるというわけ。これからみんなのあいだでも、「声に出して覚える英単語」「声に出して覚える数学の公式」などがブームになるかも。「声に出して読む漫画」なんていうのも、そのうち出てくるかも?
(香山リカ著「10代にうちに考えておくこと」岩波ジュニア新書 p9-11)

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初めての朗読

作品選び

 朗読がブームになっています。声に出して読む、という朗読の魅力が伝わり、少しずつ広がってきているのでしょう。

 朗読を楽しむために、あたりまえではありますが、まず朗読する作品を決めましょう。特に難しく考える必要はありません。あなたが心を動かされる作品かどうかが大切です。例えば、好きな作家の作品、感動した小説など、その気になればいくらでも魅力的な作品が見つかります。
 ただ、最初は、一つの作品を読む楽しさを味わう意味で、あまり長いものではなく、エッセイや短編小説などを選ぶとよいでしょう。

作品の理解が朗読の第一歩です

 作品を見つけたらすぐに声に出して読んでみたくなることでしょう。でもそこをグッとこらえてください。

 最初から声を出してしまうと、どうしてもそのとき読んだ調子にとらわれてしまうからです。初めは黙読で全体の内容をつかみます。読み方や意味がわからないことばは、間違いを避けるために下調べをします。

 朗読するときいちばん大事なのは、作品の内容の理解と、理解した内容をどう表現するかということです。
 大正期の童謡詩人金子みすゞの作品を例に考えてみましょう。


海とかもめ

海は青いとおもってた、
かもめは白いと思ってた。

だのに、今見る、この海も、
かもめのはねも、ねずみ色。

みな知ってるとおもってた、
だけどもそれはうそでした。

空は青いと知ってます、
雪は白いと知ってます。

みんな見てます、知ってます。
けれどもそれもうそかしら。


 知っていると思っていた海の色もかもめの色も実際の色とは違っていた。みんなが見ていて知っているつもりの、空や雪の色も本物ではないのかもしれない。この作品は、やさしい言葉遣いですが、人間の目の不確かさや見えているものが真実とは限らないということ、そして、あたりまえだと思って疑問をもたないことの怖さが表現されています。黙読しながら、作者の意図やあなたが感じた心の動きを大事にしてください。

自分の声を知る

 九州のラジオ番組で、小学生の子どもたちに作文を読んでもらうコーナーがあります。録音をする前に、まず、声の大きさを知るために少し作文を読んでもらいます。マイクの位置やいすの高さなどを調整し、録音を始めます。するとたいてい、マイクテストのときの読み方のほうが自然で聞きやすいのです。いざ朗読となると、無理して大きな声を出して、不自然な読み方になってしまうようです。朗読だから、とあまり構えず、ふだん話すように読んでみましょう。

 ただ、作家は必ずしも朗読することを想定して作品を書いているわけではありませんから、話すときのような言葉遣いにはなっていません。でも、作者に代わって、理解した内容を話すつもりで声を出してみます。そのとき、いちばん無理なく自然に出る声が基本の声になります。

 基本の声を使っていろいろな表現をしてみましょう。高低だけではなく、強弱、大小そして間(ポーズ)を変えると同じ文章でもずいぶんさまざまな表現ができることに気がつきます。これが朗読のおもしろいところです。あなたも、理解した内容を伝えるには、どの表現方法がふさわしいか、あれこれ試してみてください。みすヾの「海とかもめ」もいろいろな表現で朗読してみましょう。

内容を伝えるための工夫

 理解した内容を伝えるために、私は文章を意味のまとまりごとに大きく分け、それぞれのまとまりがひと目でわかるよう空間をとるようにしています。さらに、まとまりの中の、小さな意味の区切りやつながりに《や◎などの目印をつけます。ただ、あまり細かく印をつけすぎて、印に頼りすぎないように注意しています。

作品の情景を思い描く

 朗読と一人芝居はどう違うのでしょうか。どちらも作品の世界を伝える意味では同じですが、朗読は、作者の意図を朗読者が理解して聞き手に伝えることに主眼があります。一人芝居は演じる俳優に主体が移ります。作品は作者の手から離れ、演じる俳優がその作品の世界を生きることになります。最近は、その中間ともいえる朗読劇も盛んです。

 ですから、朗読者は作品のなかに会話が出てきても必ずしも、ドラマのせりふのように演じる必要はありません。ただ、雰囲気作りは大切です。あるディレクターは、ヨーロッパの貴族の物語を取り上げたとき、少しでも朗読者のイメージづくりを喚起しようと、長いスカートで装いを凝らして立ち会ったそうです。もちろん、作品の時代背景や作者について知ることも内容を理解するうえで大切です。あなたも、ぜひ、作品に描かれた情景を想像し、朗読の世界を楽しんでください。

 森鴎外の名訳で知られるアンデルセンの『即興詩人』です。この作品を朗読したときは、私も十九世紀のイタリアに思いを馳せながら、美しい文体のリズムを大切に読みました。こうした作品を朗読すると、日本人に生まれてよかった、と感じます。ただ、気をつけたいのは、心地よさに引きずられ、読み方がいわゆる節にならないことです。意味を伝えることを大切にして、作者の息づかいに合わせ自然に読みましょう。
(「NHKアナウンサーの はなすきくよむ」03年版 日本放送協会出版会 p88-91)

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民話の読みきかせ

 木曜日の午後のひとときは、週一回の子どもたちとのたのしい時間です。幼稚園や学校をおわって、図書館へ本を読みにくる小さい常連にとりかこまれて、へたな読みきかせをするのですが、読んでいるわたしの方がたのしくなるくらい、子どもたちは目を輝かせて聞いてくれます。

 今週は何にしようか、わたしは図書室の中にある本をあれこれと手にとっては、どれにしようかと迷っていました。そのうち、『むかしむかし絵本』(ポプラ社)の中の「こぶとり」が目につきました。この本は、大川悦生の語り口で書かれたリズミカルな文と、切り紙の感覚をとり入れた重厚なさし絵で構成されたもので、これならきっと子どもたちがよろこんでくれると思いました。

 むかし、田畑も持てない貧しい人たちが、山で木を伐ってその日の糧をえていたこと、そして、天侯のかわりやすい奥山で、さまざまな天変地異にあうと、自然への脅威を鬼や山姥や天狗などのしわざとおきかえて考えていたこと、そうした中で、大すきな踊りで急場を救い、そのうえじゃまになるこぶまでとってもらって帰って来たじいさん、それに代表される庶民の知恵と楽天性が、このみじかい民話の中に語りつくされているように思われます。こんなおもしろい話をつくりだして不安や恐怖をふきとばし、明日の労働にそなえたむかしの日本の庶民たちのたくましいエネルギーが、この絵本を見ていると感じられます。

この絵本では、ふたりのこぶじいさんを善玉悪玉にし、勧善懲悪のかたちにおきかえた中世の作意は排除され、もう一人のじいさんの方はたんに主人公の引き立て役として軽くあつかわれているところに好感がもてます。また、この中に出てくる方言や、地方色ゆたかな笛たいこ、うたの文句には、郷土的な土のにおいと庶民の笑い声が、入りまじって聞こえてくる実感があります。

 黙読しておもしろいと思ったのですが、さて音読してみて、はたとゆきづまりました。

 「とれれ とれれ、とひゃら とひゃら、すととん すととん」と、闇の中を近づいてくる不思議な楽の音、「でぐすこ ばぐすこ、すかかご ひょうろ」と、異形の八天狗が「なんやらわけのわからんようなうた」をうたいながら、ふしぎな踊りをおどりだす。はじめはおそろしく、途中からむちゅうになり、ついにこぶのじっさまがつりこまれておどりだすという、ふしぎなこの歌、それから、急テンポの群舞にかわっていく「すまぐら すまぐら そっそっそっ」、それにあわせてじいさんがとる「はあ てれつくてんの 九天狗」のばかでかい声の調子、声をだしてみると黙読のようにうまくはいきません。

 長い時間わたしは、焚き火の上をとびこえたり、鼻の上に羽うちわを立て、一本音の片足でけんけらけんとやる大天狗、小天狗、からす天狗の、てんで勝手なおどりの絵とにらめっこをしながら、やめるのは借しいし、どうしたものかと考えていました。そのとき、まったく突然でしたが、数十年もむかし、自分がまだ幼い子どもだったころ、父の膝の上で炉の火を見ながら聞かされた「こぶとり」の、この場面が耳によみがえってきました。

 「上り坂の孫三郎、下り坂下るどって 古がん古道 古田道、どんどんどーしこ どーしこし、とひゃひゃーれ ひゃーれよ、じゃんがじゃんが、じゃんがじゃんが……」

 若いころ家をとびだした貧しい農家の次男坊であるこの父の語り口を、町育ちの母は恥ずかしがってばかにしながら、子どものわたしたちにかこつけては、何どもさいそくして語らせたものでした。わたしはこのことをすっかり忘れていたのでした。

 「頭で考えるからいけないのだ、話の中にとけこんで、思ったとおり自由にやってみよう」そう思うと気が楽になって、すらすら読めました。
 翌日、わたしは、自分のまわりに集まった子どもの一人を膝の上にのせ、むかし父に聞いた素朴な調子で読みはじめました。語り口の読みきかせは、語りきかせと同じでなければならない、聞き手の子どもたちといっしょに物語の世界を創造していくのだ、子どもたちと読み手の気があわなければ──そんなことを考え、子どもたちの反応をたしかめながらゆっくり読みました。けっしてじょうずとはいえない読みでしたが、子どもたちがよろこんで、帰りに口ぐちに「すまぐら すまぐら……」とうたいながらとびはねて帰っていったことが、何よりの収穫でした。

 おかあさんがたに近ごろよく聞かれます。
 「読みきかせをしようと思うのですが、語り口の民話は、その地方のことばやアクセントを知らないものが読んでもかまわないでしょうか」、わたしは即座に「おかあさん自身の調子で感動したまま読みきかせればよいのです」と答えることにしています。

 語り口で書かれた民話は、耳からの訓練をへない子どもには、三、四年生でもむつかしいといわれ、民話調で書かれた創作『八郎』(斎藤隆介作・福音館)など、その典型とされていま
す。

 しかし、おとながなめらかに感動をもって読みきかせれば、幼児も幼児なりの新鮮な感動をもってこたえてきます。それは、共通語では味わえない伝承文学の美しさ、力強さを、肌でじかに感じさせてくれるからだと思います。(M)
(代田昇著「子どもと読書」新日本新書 p58-62)

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◎「朗読は、作者の意図を朗読者が理解して聞き手に伝えることに主眼があり……一人芝居は演じる俳優に主体が移り……作品は作者の手から離れ、演じる俳優がその作品の世界を生きることに」と。

「なめらかに感動をもって読みきかせれば」……。