学習通信051201
◎子どもの世紀……
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子どもの世紀
『愛育』一九五七年七月号
五月五日が日本の子どもの日であることは誰でも知っていますが、六月一日が世界的な子どもの日、「国際子どもデー」であることは一般にはまだ知られていないようです。
しかし、毎年この日は世界中の子どもをたたえる日で、世界の国々でその子どもたちが親から、社会から、国家から守られているかを反省し、そして子どもの生きる権利、健康に育てられる権利、よい環境で教育される権利などについて運動することになっています。この運動は第二次世界大戦後、戦禍のあともまだ生々しく、街には孤児や浮浪児がはんらんしていた一九四九年、国際民主婦人連盟(ベルリンにその本部があります)の第三回評議員会議できめられたもので、それ以来毎年の国際的行事となっています。日本でも国家できめた五月五日とともに、国際的にきめられたこの子どもの祭日を世界の人々とともに祝いあい、世界中の子どものしあわせを祈り、その権利をまもるための決意と努力を新たにする日としようではありませんか。
二十世紀は子どもの世紀≠ニいう言葉は、わたくしがまだ若いころ読んだエレン・ケイの『子どもの世紀』という本ではじめて知ったことでしたが、たいへん感銘ふかいものだったので、五十年後の今も頭の中にこの言葉はきざみ込まれています。しかし、わたくしたちがすでに生きてきた現実の二十世紀の前半というものは、なんと子どもにとって不幸な、戦争つづきないやな世界だったことでしよう。せめてこの世紀の後半これからこそわたくしたちの努力で子どもの世紀としたいものであり、またしなければならないとおもいます。
戦後、子どもへの世界の関心が高まり、子どもの社会的地位がよほど認められて来たことはたしかなことです。殊に社会主義国家といわれているソ連、中国、その他東欧諸国では、十九世紀末にエレン・ケイがその理想として語っていたような子どもの諸権利が社会や国家の手で完全にまもられ、文字通り子どもの国である現状にはまことに羨しいものがありますが、イギリスやスエーデン、デンマークその他自由主義国家と言われる国でも子どもが尊重され、子どものための社会保障制度が徹底していて病気から、貧困から、またわるい環境からも保護されているような国もあります。
こういう国々のしあわせな子どもにくらべると、日本の子どもの現状は、何といってもほんとに気の毒です。あまりにも惨めではないでしょうか。
しかし、子どもは親の私有物か付属物としか考えられず、親だけの責任に、社会からも国家からもほとんどかえりみられなかった昔にくらべれば、児童福祉法が実施され、また児童憲章が定められたことだけでも戦後の日本の大きな変化にちがいありません。ただ残念なことには折角の好ましい法律も、今のところではまだほんとうにいかされていません。それにはいろいろ理由があげられるでしょうけれど、軍事費などにとられて児童福祉のための毎年の予算があまりにも少いためであることを思えば、わたくしたちはこの点でもっと政府に、また国会に対し闘わねばなりますまい。児童憲章にうたわれていることもまことにそうありたきこと、またあるべきことでありますけれど今はまだ描かれる餅でしかありません。憲章の精神が徹底し、親たちにより、国により、社会によってそれが守られるまでにはやはり今後のわたくしたちのたゆまぬ努力が必要であり、闘いを通してのみ期待されることでありましょう。
それにつけても、最近うれしくもまた心強く思われることは若いお母さんたちの目ざめであり、その立ちあがりであります。
今までの多くの日本のお母さんたちの愛情と関心は自分の子どもだけに限られていました。自分の子どもさえよい子であり、幸せであればそれでいい、少くとも他人の子どものことなど自分の責任ではないと考えていました。ところが最近見かけるお母さんは自分の子どもとともに他人の子どもにも母らしい愛と関心をもち、子どもたちの問題を自分ひとりではなく、親たちの努力で、あるいは親と社会や国との努力で解決しようと考える方向に、現実の生活の中で目ざめて来たようです。これはたしかに、この二、三年のいちじるしい変化であり、大きな進歩であるとおもいます。
一昨年から毎年開いてきた日本母親大会が世間の予期以上の大盛会であり、多くの成果をあげて来たことは、日本の母たちのこの社会的目ざめなしにはありえなかったことでしょう。本年も八月上旬に第三回日本母親大会が開かれるはずで、今、全国的にその準備行動がすすめられていますが、この運動の成功を今からひたすらに祈るわたくしの心はいうまでもなく二十世紀後半こそ子どもの世紀であれとのわたくしの念願と一つにつらなるものです。(一九五七、六、一)
(小林・米田編「平塚らいてう評論集」岩波文庫 p314-317)
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古いしつけと新しいしつけ
新しいしつけとはなんでしょうか。いままでのしつけは、子どもをどのようにしておとなの望む型にはめこむかということでしたが、これからのしつけは、子どもとおとなとが、日常生活のなかで、あるいはしつけをめぐる問題のなかで学びあい、考え合い、たがいが成長していくことだと私は考えています。
子どもとおとなとがともに成長しあうということで、深く学ばされた例を紹介しましょう。
いま、農村ではPTAや公民館を申心としたさまざまな教育活動・研究会がおこなわれています。先日も長野県の阿智村公民館主催による社会教育研究集会に参加しました。そこでは、変わりゆく農村の状態をどうとらえてゆくか、小学校、中学校の教育と家庭の教育をどう考えてゆくか、幼児教育をどう発展させてゆくかということが真剣に討議されました。その内容をすべて紹介することは無理ですが、新しいしつけと関連づけて感じたことは、五十代、六十代のおじいさん、おばあさんが寒い部屋の中で熱心に自分の子どもの教育、孫のしつけの問題を討論していた事実です。
そこでは、子どもをどのように自分の意見にしたがわせるかという発言もみられましたが、その反対に村ぐるみで村の子どもたちの教育、しつけをどうしたらよいかというまったく新しいしつけの発言もみられました。
こうした新しいしつけの考え方はたいへん貴重なものです。
そしてさらに大事なことは、古い「しつけ」のようにおとなが不勉強で子どもだけを変えようということでなく、子どもの成長のために、老人をふくめたおとなが、自分自身を成長させるという新しいおとなの教育のあり方──それをみんなで考え、討論しているということです。つまり新しいしつけは、子どもとおとながともに成長してゆくなかで確立されてゆくということを深く感じたのです。
(近藤・好永・橋本・天野「子どのしつけ百話」新日本新書 p50-51)
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──「最近見かけるお母さんは自分の子どもとともに他人の子どもにも母らしい愛と関心をもち、子どもたちの問題を自分ひとりではなく、親たちの努力で、あるいは親と社会や国との努力で解決しようと考える方向に、現実の生活の中で目ざめて来た」と。
──「おとなが不勉強で子どもだけを変えようということでなく、子どもの成長のために、老人をふくめたおとなが、自分自身を成長させるという新しいおとなの教育のあり方──それをみんなで考え……新しいしつけは、子どもとおとながともに成長してゆくなかで確立されてゆくということ」と。