学習通信05120304 合併号
◎この入れ替わり=c…

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 純粋数学には各個人の特殊な経験に左右されない妥当性がある、ということは、確かに正しいし、また、このことは、すべての科学のすべての確定された事実に、いやそれどころかおよそすべての事実にあてはまる。

磁石の両極、水の成分が水素と酸素だということ、ヘーゲルが死んでいてデューリング氏は生きているという事実、こうしたことは、私の経験あるいは他の個々人の経験とは独立に妥当するし、デューリング氏が心恋しい者の眠り〔執睡〕にはいったとたんに氏の経験にさえ左右されることなく妥当するのである。

けれども、純粋数学では、知力はけっしてただ自分自身の創造物・構想物だけに取り組むのではない。数と図形とについての諸概念は、他のどこからでもなく、まさに現実の世界から、取ってきたものである。

人間は一〇本の指を用いて、ものを数えることを、つまり、最初の算術的演算を行なうことを、覚えたのであるが、この一〇本の指が、ほかのなんであろうと知力の自由な創造物でないことだけは、間違いない。

ものを数えるためには、数えることのできる対象が必要であるばかりでなく、こうした対象を考察するさいにその数以外の残りすべての性質を捨象する能力も、すでに必要である。

そして、この能力は、長い・歴史的な・経験にもとづいた発展の結果なのである。数という概念と同じように、図形という概念も、もっぱら外界から取ってきたものであって、頭のなかで純粋な思考から生まれてきたものではない。まずはじめに、姿をもっていてそれが互いに比較されるもろもろの物がなければならなかった。

やっとそのあとで図形という概念が生まれてきたのである。純粋数学が対象としているのは、現実の世界の空間諸形態と量的諸関係とであり、つまり、非常に実在的な素材である。この素材がきわめて抽象的な形式で現われるということは、それが外界に起原をもっていることをただ表面的にしか覆いかくすことができない。

こうした形式と関係とを純粋にそういうものとして研究することができるためには、しかし、これをその内容から完全に切り離し、この内容をどうでもよいものだと度外視しなければならない。

このようにして、拡がりのない点、厚さも幅もない線、αとかまたxとy、定数と変数、こうしたものが得られるのであって、このあとはじめて、いちばんしんがりに、知力自身の自由な創造物・構想物に、つまり、虚量に、到達するのである。

数学上のもろもろの量がお互いどうしから導き出されあうように見えるということは、こうした量がアプリオーりな起原をもっていることを証明しているのではなくて、ただこの諸量のあいだに合理的連関があることを証明しているだけである。

円筒の形は長方形をその一辺を軸として回転させることによって得られる、という考えに到達するまでには、いくつもの現実の長方形と円筒とが──たとえごく不完全な形でにせよ──研究されたに違いない。

他のすべての科学と同様に、数学も、人間のもろもろの必要から生まれてきた。すなわち、土地の測量と容器の容量の測定とから、時間の計算と力学とから、生まれてきたのである。

しかし、思考のすべての領域でそうなのであるが、或る発展段階において、現実の世界から抽象された諸法則が、現実の世界から切り離されて、なにか自立したものとして、世界が基準とし従わなければならない・外からやってきた諸法則として、現実の世界に対置されるようになる。

社会と国家とでは、ものごとはこのように進行した。

ちょうどそのように、純粋数学も──ほかならぬこの世界から取ってきたものであり、この世界を構成している諸形態のただ一部を表わすにすぎず、まさにもっぱらそれゆえにこそそもそも適用できるわけではあるが──あとになってから世界に適用されるのである。
(エンゲルス著「反デューリング論 上」新日本出版社 p57-58)

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 では、労働生産物が商品形態をとるやいなや生じる労働生産物の謎的性格は、どこから来るのか?明らかに、この形態そのものからである。

人間的労働の同等性は、労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を受け取り、その継続時間による人間的労働力の支出の測定は、労働生産物の価値の大きさという形態を受け取り、最後に、生産者たちの労働のあの社会的諸規定がそのなかで発現する彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態を受け取るのである。

 したがって、商品形態の神秘性は、単に次のことにある。すなわち、商品形態は、人間にたいして、人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として、これらの物の社会的自然属性として反映させ、それゆえまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係をも、彼らの外部に実存する諸対象の社会的関係として反映させるということにある。この入れ替わり≠ノよって、労働生産物は商品に、すなわち感性的でありながら超感性的な物、または社会的な物に、なる。

たとえば、物が視神経に与える光の印象は、視神経そのものの主観的刺激としては現われないで、目の外部にある物の対象的形態として現われる。

しかし、視覚の場合には、外的対象である一つの物から、目というもう一つの物に、現実に光が投げられる。それは、物理的な物と物とのあいだの一つの物理的な関係である。

これにたいして、労働生産物の商品形態およびこの形態が自己を表わすところの労働生産物の価値関係は、労働生産物の物理的性質およびそれから生じる物的諸関係とは絶対になんのかかわりもない。ここで人間にとって物と物との関係という幻影的形態をとるのは、人間そのものの一定の社会的関係にほかならない。

だから、類例を見いだすためには、われわれは宗教的世界の夢幻境に逃げ込まなければならない。

ここでは、人間の頭脳の産物が、それ自身の生命を与えられて、相互のあいだでも人間とのあいだでも関係を結ぶ自立的姿態のように見える。

商品世界では人間の手の生産物がそう見える。これを、私は物神崇拝と名づけるが、それは、労働生産物が商品として生産されるやいなや労働生産物に付着し、それゆえ、商品生産と不可分なものである。

 商品世界のこの物神的性格は、これまでの分析がすでに示したように、商品を生産する労働に固有な社会的性格から生じる。
(マルクス著「資本論@」新日本新書 p123-124)

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◎「思考のすべての領域で……或る発展段階において、現実の世界から抽象された諸法則が、現実の世界から切り離されて、なにか自立したものとして、世界が基準とし従わなければならない・外からやってきた諸法則として、現実の世界に対置される……社会と国家とでは、ものごとはこのように進行した」と。