学習通信051206
◎わてはなあ……

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 京都は激しい政治風土でもある。私も何回かの選挙の情況をつぶさに見聞きしてほんとうにそう思う。おかしな土地だとしみじみ思う。真の京都人は、そんなものに目もくれず、シレッとしてわが道をいっているという説もあるし、実際そういう人びとが京都の何ほどかの特色をつくっていることも否定できないことではある。

 しかし、第一線に躍り出て無我夢中に選挙運動をやっている人もまた多い。そしてその人たちは共通語などを使って選挙など決してしない。そんなことばで票がとれることなどないからだ。もちろん宣伝カーの屋根の上に躍り上がって街頭演説をぶつときに、いきなり「わてはなあ」というわけにもゆくまいが、それとてもどこやらに京都ことばの風情を秘めることは大切であろう。親しげな雰囲気、仲間意識、連帯感、そんなものはすべてともに語る京都ことばから生まれることが多い。

「××区は○○はんでやらしてもらいまっせェ」と高らかに叫んでいる商人らしき人の威勢のいいかけ声を聞いて、まことにほほえましく思ったこともある。「××区は、OOさんでやらしてもらいますよ」なんて言ったってどだい京都では話しになりはしない。

 もともとことばというものは、次のような機能や意図をもっている。

〈ことばの機能〉
指示・表情・見出し・対人関係の調整

〈ことばの意図〉
表出・認識・通達・つながりを持つ・感化・態度の形成・社会的調整

 共通語と方言とが二重構造になって日本人の暮らしに食い入っているとき、共通語はこの表のことばを使えば指示機能、そして一方、表出、つながり、感化、態度形成、社会的調整などの意図は、方言の有効な使いこなしによって所期の効果を果たすことがどんなに多いことであろう。はげしい感情に襲われて、心の中の緊張をほっと外に吐き出そうとするときの吐き出しことばは、大てい方言だ。

母親がこどものいたずらに腹を立てて思いきり叱りつけるとき、誰が共通語で叱るだろう。「そんなことしたらあかんがな、ほんまにかなん子やなあ」というふうにわめいてこそ、親は叱ったという気がするだろうし、こどもにしても、親は怒っているなという気になるだろう。「そんなことをしたらだめですよ」などと言われても、こどもは芝居でも見ているようなもので、きょとんとしてしまうであろう。

 筆者はかつて学生たちといっしょに沖永良部島へ言語意識調査に出かけたことがあったが、そのときの調査項目の中に、「あなたは子供を叱るとき、標準語で叱りますか、それとも永良部のことばで叱りますか」というのがあった。島のお母さん方は、例外なく、「島のことばで叱ります」と答えていた。単に通達的なことの範囲ならば、共通語でもかまいはしない。何時に始まりますかというような質問に、「三時です」と答えても、「三時どす」と答えても用を足すというだけのことならばそれほどの差はない。正確に時間さえ答えてもらえばよい。

 しかし、心の底からものをいうときは、おのずと感情が籠もらずにはおれない。心の中の思いを吐き出すように語り出すとき、人はどうしても一種の母語である方言を使うであろう。興奮すると人はお国ことばで話す。さり気なく話していたときは、「これにしようよ、それがいいから」などと言っていた人でも、自分の論があまり人に受け入れられなくなったとき、「これがええねんて!」などと言い出しかねないのは、私たちの日常生活でしばしば経験しているところであろう。

 まして選挙のような行動で、一票を何とか獲得したいと願うとき、どうして相手が心を動かすかについて、ものを考える人であるなら、方言を適当に使うであろう。それはきわめて賢明な方法だ。また、テクニックとしてそれを採用する、というふうなつもりはなくとも、一所懸命に隣りの人に自分の考えを理解してもらおうとするとき、その一所懸命さに比例して方言が顔を出すのではあるまいかすなわち、説得という言語行動をとるとき、人はよく方言を使うのである。

 笑いを誘い出す場合も断然方言が活躍する。端的なところ、私はお笑い番組が大好きで、その手のものをよくテレビやラジオで見聞きするが、どうしても関西弁の方がよく笑える。おなかの底からけたけた笑うには、やはり、私の所属する地域言語の系統の方がいい。共通語系統では漫才も落語も頭の範囲で笑っているという感じである。フフフフとゲタゲタの違いである。それは東京の人にとっては、あるいは逆なのであろうか。

もちろん東京の人がよその方言のドラマとか落語とか聞いた場合、やはり方言自体の醸し出す何ものかに感化されるであろう。そのとき、私どもが東京弁を聞いてちょっと構える(特に私は中央集権主義が大嫌いなので、何をと思いがちなのであるが)のとは違って、心ひろくよそのおもしろいことばに耳を傾けることができるであろうが、しかし、よそのことばで腹の底からの笑いというのは少し無理であろう。いわば、それはクスクスという程度の笑いなのであろう。

 さて、ある日の新聞で、私は次のような記事を見つけて大変うれしくなった。


獣医の嘆き

「獣医いうたらやっぱりイヌとネコか」
「違う違う。小鳥も来るしな。こないだ、傑作やったんや。『カメの片目が白濁する』いうで連れて来た人があったんや。診療しょう思っても、首引っこめとるやろ。じっと待ってて、すっと出した、みよう思うたら、また引っ込めよった。あれは、ほんまに困ったわ」(京都市左京区の喫茶店で、城陽市で開業している三〇代の獣医さんが久しぶりに東京から帰った友人と)(「朝日新聞」一九七六年五月二六日付『たちばなし』)

 関西での笑いの本流というと、どうしても大阪中心になってしまうのを私は常々残念に思っているが、京都人に喜劇の素質がないのではないということは、毎日毎日私はいろいろなことで考えている。その例にゆうになるではないか。

 京都ことばで怒り、笑い、叫んでいるエネルギッシュな京都人の暮らしもぜひ考えてもらいたいものである。
(寿岳章子著「暮らしの京ことば」朝日選書 p81-85)

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活字の海で

「方言指南書」が花盛り
  若者の言葉探し≠ノ乗る

 東京の若者、特に女子高校生の間で「方言」がブームになって久しい。全国から気に入った言葉を取り入れ、仲間うちで親しみを表すために使うのが特徴。出版の世界でも若者の言葉探しのニーズに応えようと、次々と「方言指南書」なるものが登場し姶めた。

 『かわいい方言手帖』(河出書房新社)は面白い」「恥ずかしい」などの項目別に各地の方言一千語を収録する。「うるさい」の方言を調べたいと思ってページを繰ると、「せからしか」(九州一帯)、「いじくらしい」(石川、富山)など様々な言葉が引ける。項目ごとに「ほいじゃけぇ(それだから=広島)、行くなゆーたじゃろ」など、実際の会話で使う例文も付けた。『全国方言スラスラブック』(コアラブックス)は各道府県ごとに代表的な方言の言葉を収録した。

 『かわいい方言手帖』の編集では、事前に女子高校生らから言葉の選び方や実際の使い方などを聞き取った。「例えば北海道の方言全体をマスターしたいわけではなく、方言から借りた言葉を、仲間意識を確認する隠語≠フように使っている」。編集を担当した虹企画の重松英明氏は話す。

 こうした特徴は方言本の内容にも反映している。『ちかっぱめんこい方言練習帳!』(主婦と生活社)が挙げる文例は典型だ。「はんかくさくて(ばかで=北海道)テンションたがる(さがる=石川)」「うすたりー(まぬけ=熊本)。じゃ、学食行く?」……。様々な方言が同居しており、もともとその地方の方言を話す人からすると、何とも「けったいな(おかしな=大阪など)」印象だ。

 それでも若者が方言に注目するのは、「自分たちが普段話している言葉だけでは微妙な思いを伝えられないというじれったさがあるからでは」と重松氏は分析する。特に、地方の若者が「標準語」と方言を状況に応じて複雑に使い分けるのと違い、首都圏では自分の感情を表現するのに「標準語」しかない。それに気付いた若者たちが方言の豊かな世界に本格的に開眼したのが今回のブームをもたらしたといえる。

 「なまら(とても=北海道」や「めんこい(かわいい=東北)」といった言葉が全国区で使われる日も遠くはないかもしれない。(文化部 郷原信之)
(日経新聞 20051214)

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◎「一所懸命に隣りの人に自分の考えを理解してもらおうとするとき、その一所懸命さに比例して方言が顔を出すのではあるまいかすなわち、説得という言語行動をとるとき、人はよく方言を使うのである」と。