学習通信051207
◎逸脱した観察……

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観察する人

 ダーウィンは、調査船ビーグル号に博物学者として乗り組み、大西洋から南アメリカ、南太平洋、オーストラリア、インド洋、そしてアフリカ大陸の南端をまわってイギリスに帰港するという世界一周の航海に出発した。航海は四年十か月にわたって続き、イギリスに帰ってきたとき、ダーウィンは二十七歳になっていた。その航海の詳しい内容は『ビーグル号航海記』に記されているが、これは、類いまれなる面白さをもった航海記であると同時に、ダーウィン自身のもっとも重要な「勉強」の記録でもある。

 ビーグル号の大航海で、ダーウィンはいったいどんな「勉強」をしたのか。

 彼は生れつきのコレクターであって、コレクションそのものに大いに学習的役割があることはすでに述べたが、ビーグル号の大航海であらたにつけ加えられたのは、自然界のものごとを観察する能力である。

コレクターには観察力は欠かせない能力であって、「集める人」は同時に「観察する人」でもあるが、観察する能力にも進化というものがありうる。すべての能力と同様、観察力も活用によってとぎすまされる。能力は、試練にさらされればさらされるほど、刺激を与えられれば与えられるほど、伸びるものである。

航海といっても、いつも船に乗っているだけではなく、寄港先で上陸して、探検旅行に出かけ、珍しい動植物などを観察する機会がたくさんあった。その際の見聞が、ダーウィンにとっていかに「勉強」になったかは、たとえば、『ビーグル号航海記』のこんな一節からうかがうことができる。ブラジルのリオに上陸した際の記述である。

 「イギリスでは博物学の愛好家は、歩けばなにか注意をひくものに出会うので、散歩から非常に多くのものを得る。この地方の豊饒な風土では、生物はいたるところに充満していて、眼をひくものに限りがないので、ほとんど歩くこともできないほどである」

 この文章は、南アメリカの風土のゆたかさを強く印象づけると同時に、ダーウィンその人のとび抜けた観察力を感じさせる。ダーウィンが自然に見とれて歩くこともできないでいるかたわらを、博物学者ではない普通の人はただ素通りしてゆくだけだ。普通の人から見れば、そういうダーウィンは「特別な感覚の持主」ということになるにちがいない。ダーウィン本人もそのことは十分に自覚しでいて、自伝のなかで言っている。

 「私は、容易に見のがされてしまうような事物に気づいたり、それらを注意深く観察したりすることにかけては、世間なみの人たちよりすぐれていると思う」

 こういうすぐれた観察力をきたえあげたのがビーグル号の航海であったわけであるが、その観察欲は航海記のいたるところにあふれでいる。『ビーグル号航海記』というと、ガラパゴス諸島の部分が有名であるが、それは長い航海記のほんの一部にすぎない。どのページを開いても、ダーウィンの魚がピチピチはねるような生きいきした好奇心と観察力が躍動していて、「眼をひくものに限りがないので、ほとんど歩くこともできない」というダーウィンの気持がよくわかる。

 目につくすべてのものに関心をよせ、調べずにはいられないダーウィンの観察記録のほんの一部しかここでは紹介できないのが残念であるが、たとえば、タコが背景に応じてカメレオンのように体色を微妙に変化させる様子を詳しく記述したり、ホタルの発光のしくみを調べ、ホタルは死後二十四時間も光り続けるのを確認したり、コメツキムシがどれくらいの高さまで跳ねるかを見で楽しんだりする。コメツキムシの跳躍カテストは、私も小さい頃ためしたことがある。あのまるっこい虫を見れば、だれでもそういうことを調べたくなるものである。

 動物や植物や鉱物について調べることを仕事とする博物学者といえども、子供がもっているような旺盛な好奇心が観察の出発点となることでは、普通の人とほとんど変ることがない。そして、ときには旺盛な好奇心は博物学といった枠を簡単に乗りこえてしまうこともある。

 ダーウィンは海辺で、砂が落雷のためにガラス化して長い管ができているのを発見したことがあった。こういう現象はすでに知られでいたが、ダーウィンの好奇心は、大きな何の河口で雷が多いのは、大量の淡水と海水とが混合して、電気的平衡が破られるためではないかという考察ヘと及ぶ。このあたりまでは博物学者としての当然の関心であるが、ここで大いに興味を惹かれるのは、落雷の被害にあった家まで出かけ、その様子をこんなふうに詳しく調査していることである。

 「壁の一部は火薬が爆発したように砕かれて、その破片は部屋の反対の壁面をでこぼこにするほど強く飛散した。姿見の縁は黒くこげ、金色の塗料は蒸発したものと思われた。暖炉の物置台にあったかぎタバコ入れには、輝いた金属性の物質が覆い、エナメルのように固く附着していた」

 こんな落雷の被害記録を記すことは博物学者の仕事ではないが、ダーウィンはものごとを詳細に観察し、それを記述する訓練をしていたのかもしれない。そして、こんなふうに、好奇心が「逸脱」するところに、ダーウィンの研究の秘訣があったのである。大発見は、多くのばあい、既存の枠をこえた観察から、つまり、逸脱した観察から生れるからである。
(木原武一著「天才の勉強術」新潮社 p117-120)

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一九四五年六月十八日
福島県郡山市開成山の百合子から巣鴨拘置所の顕治宛

 きょうもまたこの棚のところへ坐りました。どうでしょう! 切符が(国のよ)夕刻までにしか手に入らず、しかも駅は何とか山のムカデのように七巻半のとぐろで、明日立つということになりました。

 わたしは腹が立っでやり切れなくなって、引こんで、プリュラールをよみはじめました。それからすこし気がしずまってからモンペの紐に芯を入れてしまいました。そして、おべん当にする筈の握り飯を生蕃袋からとり出してたべました、その握り飯は、柏の葉にくるんであります(なかは平凡だけれど)

 それから健坊と遊び、又プリュラールにかえり、さて又帰るべきところへと帰って来てしまった次第です。この頃の旅行って、まるで昔の旅ね、汽車にのる迄は分らないのね、そして、ここの人たちみたいに人まかせな人は、実にたよりないこと夥しいものです。今日の一日がどういう意味をもっているかということをちっとも実感として感じていません。(中略)

 けさは珍しく八時すぎまでしずかでした、ブンヴンが。だもんだからわたしはわざわざ、廊下まで出て行って「何か情報が入っていないかしら、飛んでないから」と云ったら「アラ先生大丈夫、こういうこともありますのよ」と滝川さんが申しました。

 ブリュラールはどんな印象でしたろう。一種の書き方ね。自伝を書こうとすると、全く私自分というものにひっかかります。スタンダールが其を気にしているのが同感されます。自分の場合だったらどうかしら。おなじみの伸子をつれて来る方が話しよさそうね。時代の相異も自分というものの観かたの角度もあって、わたしは自分を、時代の一人の女それによって語られるその時代の生活という風にしか或モティーヴをもち得ません。スタンダールのナポレオン観のポイントは、いつもよく分らないのですが、これをよんでもまだ(第五章)よく分らないわ、何と判断しているのか。この中でも特長をなしている彼の考察は、静的ね。

そして、精密であるが情感を貫いて考察されず「感情生活を考察する」、という風な性質のもので、それが彼の小説をパルムの僧院のようなものにするのだろうと思いました。情熱的でしかもその情熱をいつも不安に皮肉に監視しているのね。ナポレオン后の聡明さはそういう特長だったかもしれませんね。わかるょうにも思えるわ。

 才智の萌芽の信じがたいこと、「何物も天才の予告とはならない多分執着力が一つの徴候であるだろう」というのは面白く思いました。最近こういうエピソードがあったのよ。

わたしのところへ女の子で舞台監督になりたいひとが来ます。日本で、女で、この仕事をしたいというのは、丁度寿が、指揮者になりたいと思っているのと同じに実現のむずかしい願望です。山本安英に相談したりしてもやはりわたしが見当つけられる範囲しか見当がつかずとどのつまり戯曲をかきました。自分で一年ほど芝居をやって。はじめ書いたのは、対話でした。次のは少女歌劇じみていました。この間もって来たのは、チェホフ風の味で、しかも十分芝居になっていて、情然もゆたかでなるほど芝居のかける人はこういうものか、と素質のちがいにおどろき、よろこびを感じました、その嬢さんは戯曲のかける人なのよ。そしてそれはやっぱりザラにはないことです。まだ廿三四なのよ。近代文学の中で婦人のドラマティストは殆どありません。岡田禎子なんか、会話や人の出し入れの細工が面白いという程度の作家だし。

 いろんなそんな話していたらばね、そのアキ子(寺島アキコ)さんがいうのよ、「わたしが(その人)芝居やめたいと思っていたら何とかさんがふっと女の人は逃げ道があるもんだからじきやめたがったりする。いつか先生が(これはブランカよあなかしこ)芝居の人たちにお話をなすったとき、よく世間には自分にこういう才能があるかしら、わたしにやれる丈才能があるかしらと心配したり調べたりしてばかりいる人があるけれども、才能なんて、決してそういうものではない。どんな目に会っても決してやめないでやってゆく男気が才能だっておっしやった。本当にそう思うって申しました」というの。

成程と思ってね、わたしはいつ、どこでどんな人にどういう話をしたか全然覚えて居りません。しかしそうして覚えていて何かの鼓舞としている人があるということは感動的です。

 「でも、その人は自分流に解釈しているのね」とわたしは補足しました。「勇気が即ち才能という風には云えないわ、わたしは多分どんなに苦しくてもその事をやらずにいられなくてついやって行くそういう内からの力みたいな押えられない力がもしいうならば才能だと思う」と云ったのでしょう。

だってね、そうでしょう、勇気とそういう願望とは別よ。願望があるからこそ勇気があるという結果にはなるだろうが「ああそう、そうおっしゃったのわかるようだわ」「才能なんか本人がとやかく心配しなくていいのよ、あるものならば必ず在って何とか動き出すものだから。知らず知らずよ。その位のものでなければ謂わば育ちませんよ」つけ加えて「その方、誰かしらないけれども、個人的にでなく芸術の理解という点から言うと、お気の毒ね、才能は勇気なりと要約して覚えているだけのところという点があるわけでしょう? だからね」「全くねえ」その姐さんがお母さんと暮していて、亡父の財産が、満洲にあって、あっちで後見役をしている三十何歳かの叔父さんが、満洲こそ安全と主張するため、新京へ帰ったのは残念至極です。そういう話、そんな事があったのブリこフールのこの文句はああやっぱりこう思うのねと面白く思えました。

 男の人たちは自分の才能について大抵の人が一とおり考えるらしいのね人生というものを見わたしかかった年になると。それに比べて多くの女のひとたちはその問題以前のまで人生に送りこまれてしまいます。しかし、一応考える男の人たちにしろ才能というものと処世ということとを何と傾倒し混同して考えているでしょう。

真の才能というものは、こわいものだわ。持ち主をして其に服従せしめる一つの力であり、一つの人生をグイグイと引っぱってゆく強力な人間磁気です。この磁力の歴史的興味を知らなかった過去の天才たちは多く「不遇な」天才として自分自身を感じたりしたのね。

ピエール・キュリーとマリとはその磁力にみちた人々であり互にひき合う魅力を満契した人々でありそれは普通に云われる男女の間の能力をはるかにしのぐ魅力、かけがえなきもの天と地とのようなものだったと思います。だからマリはピエールが馬車に轢かれた後は義務の感じだけで努力したというのもよくわかります、ね。

 ああ、わたしはこんなに話し対手がないのよ。こうして、何ぞというと、この隅っこへひっついてしまうぐらい。炉ばたでいろいろ喋っていますが、いつも買物の話、荷物の話、汽車の話。わたしは、一人で、もう何ヶ月もそんなことばかり考えて来たのだからもう結構よ。本当に人間の話題が菰包みばかりになってしまうというのは、何たることでしょう。この状態はもう今月一杯で終られなければなりません。ここの人々は百喋っで一つのコモ包を始末するという風だからなおさらわたしは飽きたのね。一人でいれば退屈しないのに。

 わたしはここヘ来たら極めてストイックに自分の生活プランを立て其を実行しなければなりません、どれ丈手伝いどれ丈勉強するかということをはっきりさせて。わたしはこういうリズムのない万年休日のダラダラ繁忙は辛棒し得ません。大の男が、何を考えているか分らない眼をして炉辺に一日いるのを見てもいられません。

 わたしの人生はゴクゴクむせんで流れて居ります。胸のしめられるような思いで。ですからね、大いに智力を揮って、その熱い流れを、生産的な水源、発電所に作らなければね。

 こんな生活の中で折角のわたしが何となく気むずかしく欝屈したユリに化してはたまりませんものね。

 ブリキュラールはね、今五七頁のところです。お祖父さんが布地屋の悴に本をかしてやりこの利溌でない本ずきが、あとで継母になったマダム・ボレルという女に「マダム正直者の言値は一つしかありません」と云って、かけ引をする女の前から布をしまってしまったというところよ。可哀そうなムーニエね、きっとこのマダムは継母となったあと度々これを父親に話したにきまっていてよ「ムーニエったら」と。そして親父の遺言から何フランかをへずらしたのよ。(バルザックによれば)
(宮本顕治・宮本百合子「十二年の手紙 下」筑摩書房 p186-189)

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「勇気が即ち才能という風には云えないわ、わたしは多分どんなに苦しくてもその事をやらずにいられなくてついやって行くそういう内からの力みたいな押えられない力がもしいうならば才能だと思う」と云ったのでしょう。