学習通信051212
◎社会全体で子どもの生命を……

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弱者ねじふせる風潮改めて

日本子どもを守る会の中野光会長の話

 子どもの生命が悲惨にも奪われることに怒りと悲しみを覚えます。社会全体で子どもの生命を守るために知恵や方策を考え、実行していかなければならないと思います。

 もともと子どもの世界では上級生が下級生と連れ立って登校するなど、「連れ」の関係がありました。そうした協同の関係を再生・強化すること、子ども自身が助けを求める権利を持っているんだと自覚できるようにすることも必要です。子どもを閉じ込めてしまったり、監視・規制を強めるのではなく、自由で安心で安全に過ごせる空間を保障することが大切です。

 同時に、人間社会の全体が戦争をはじめとする暴力の文化、強い者が面い立場の者をねじふせるような風潮を改めることが大きな課題です。人間同士が平和のうちに愛し合い、助け合って生きることを最高の価値とする、平和の文化を豊かにしていくことが、子どもたちの不幸な犠牲を無駄にしない道です。
(「しんぶん赤旗」2005.12.11)

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うれうべき事態は何を語るか

 一九七〇年夏、いくつかの研究会でだされた子ども像の、困った特徴のひとつに残虐性というのがありました。「おい見てろ」と、友だちの前で生きたカエルの股をさく。何匹かの毛虫を地上にならべて三輪車でひき殺す。下級生をしごいて、そのうちのひとりに六ヵ月の人院という大怪我までさせた女子中学生。自転車の前をじゃましたと、二人の幼児を殺傷した中学生……。

 この子たちは、そろって感覚的に、衝動的に、したがって刹那的に行動するという特徴をみせています。受けた刺激とそれに対する自分の行動との間に、人間的な思考(その子の年齢なりにせよ)がはたらいていないことでは動物的といえましょう。こんな子どもをつくりだす原因には、二つのことが考えられます。ひとつには生活経験も感動もともなわない無味乾燥なつめこみ教育。そしてもうひとつは、子どもを勝手気ままに放任することです。適切な行動の規制、もっとものぞましいのは子ども自身の自制ですが、それなくしては考える、判断する力は育ちません。

 一方、親の側にも常識では考えられないような事件が相ついで起こりました。欲しくないのに生まれてしまったからと、新生児を江戸川堤に埋めてしまった若い夫婦(幸いこの赤ちゃんは助かりましたが)、入園前になんとか字を教えこもうと、いやがる子どもをしばって押入れに放りこんで窒息死させた母親、その他車の中に赤ちゃんをおき忘れて殺してしまった夫婦、煮えたった風呂にこらしめのためいれて殺す、走る列車から赤ちゃんを捨てる……。こう集中的につづくと、異常だ、例外だといってすませられないものを感じます。

 何かが、どこかが狂っていないでしょうか。何が、どこが狂っているのでしょうか。そんな残酷な異常なことには、私たちは無縁だとおっしゃるかもしれません。しかしそういう私たち自身が、深刻に考えてみなければならぬ時点にきてはいないでしょうか。結論からいってしまえば、人命軽視、人間不在、他人のこと、子どものこと、先のことなどかまっていられるかという退廃も極致に達しつつある現在の政治、社会の風潮に根本の原因があるでしょう。

そのとおりだろうと思います。だが、それだけでは、どうすべきかという人間的な思考をはたらかせていない点で、やはり最初の子どもたちと結果的には同じではないでしょうか。私たちは、現状を変革し、よりよき未来をきずきうる人間のはずです。そういう見とおしのなかで、もう一度、いかに生きるべきか、どんな子どもを、どう育てるのか、考えなおしてみたいものです。
(近藤・好永・橋本・天野「子どものしつけ百話」新日本新書 p206-207)

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◎「……平和の文化を豊かに」「いかに生きるべきか、どんな子どもを、どう育てるのか」が問われています。