学習通信051216
◎現在の日本国憲法……
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民主主義と共産主義
ここで、私自身の立場について一言ふれるなら、私は共産主義者のつもりであり、この立場をどこまでもつらぬきたいと願っているものです。ではなぜ共産主義を自分の立場としてえらぶのかといえば、共産主義の主張こそもっとも徹底した民主主義の主張であり、共産主義者こそもっとも戦闘的な民主主義者であると考えるからです。そして、それは私だけの認識ではなく、すべての共産主義者の共通認識であるはずだ、と思っています。
──略──
そもそも共産主義は、民主主義を資本主義の枠のなかだけにとどめず、資本主義の枠を越えるところにまで徹底させようとするところに生じるものです。たとえば、人間はみな平等であるべきだ、というのは近代民主主義の基本的主張の一つですが、これをたんに形式的、法的平等にとどめず、実質的、経済的平等にまで発展させようという、それが共産主義の主張です。同様に、人間はみな自由であるべきで、そのためには「他人の自由を奪う自由」は認められない、というのも近代民主主義の基本思想にぞくしますが、これを搾取の自由の否定にまで徹底させ、それを通じて「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような共同社会」(『共産党宣言』)への道を開こうとする、それが共産主義の主張です。共産主義の主張がもっとも徹底した民主主義の主張である、というゆえんです。
もちろん、一気に資本主義の枠をのり越えようというのではありませんし、そんなことはできもしません。そこで、それを展望しながら、民主主義をまもり前進させるために全力をつくすことが、共産主義者の日々の課題となります。共産主義者がつねにもっとも戦闘的な民主主義者としてあらわれる、というゆえんです。
じつは、民主主義の敵も、ある意味でこうした認識を共有しているのだ、と思います。だからこそ、反共主義をふりかざしてくるのだ、と。
以上、共産主義者として私はこんなふうに認識している、ということを述べました。
たたかう民主主義
反共主義とたたかわねばならない、と私は思います。その場合、共産主義者だから反共主義とたたかう、というのであってはならない──少なくともそれだけであってはならない、反共主義は反民主主義であり、だから民主主義者としてそれとたたかう、というのでなければならず、それが共産主義者だ、というのでなければならない、と思うのです。まずそのような立場に立ってこそ、反共主義の本質は反民主主義であり、したがって反共主義の問題は共産主義者であろうと共産主義者でなかろうとを問わず、すべての民主主義者にとっての問題だ、ということを強調することができるのだ、と。
反共主義とのたたかいという場合、いちばん大切なことは、反共主義イコール反民主主義、というとらえ方に徹底的に立つことだ──共産主義者にとっても、そうでない人にとっても、それがいちばん大切なことだ──ということがいいたかったのです。
となれば、反共主義とのたたかい方の問題は、民主主義者としての生き方の問題に帰着することになるでしょう。二つのことを、ここでは強調しておきたいと思います。
その一つは、個人の思想の自由ということを、何ものによってもおかしえない権利として徹底的に主張し、大切にしよう、ということです。
「共産主義に賛成できないという人たちもふくめて、反共主義とはたたかわなければならない。その場合のよりどころが、思想・信条の自由を尊重するという民主主義の立場であって、反共主義は反民主主義だということを、つよく訴えていくことが大切です」
「第二に、こういう反共主義の攻撃が、共産主義者でもなんでもない人びとにまでおそいかかってきているという状況があります。つまり、会社の命令にしたがわない人や、自分たちの権利を主張する人などを、孤立させ排除するために、アカ″U撃がおこなわれる。……この場合、アカ≠ニはなにか、アカ≠ヘなぜいけないのか、などという理屈はなんにもなく、ただなんとなくまわりの人びとの気分に訴えているだけなのですが、そういう雰囲気をつくられてしまうとなかなか反撃しにくいということも事実です。こういうときには、職場の状況にもよりますが、私はアカ≠ナはないと逃げるよりも、アカ≠ニはどういうことか、それがなぜいけないのかと、むしろ積極的な反撃にでることが必要です」
これは『季刊・労働者教育』(労働者教育協会会報、第六〇号)の特集「反共イデオロギーとのだたかい」(シンポジウム)での浜林正夫さんの発言ですが、その通りだと思います。
「人の内心をうかがうものを許すな。それを許すことはファシズムを許すことだ」と私なりにつけ加えておきましょう。
その二。民主主義は本来「たたかう民主主義」であったということ、そのことを忘れると、民主主義は形骸化され、ほろぼされてしまう、ということです。
ある集会での私の若い友人の発言を思いだします。「人間はみんな平等だということは事実ではない。事実でないことを大きな声で叫ぶような社会は発展する、と思います」というのが、その友人の発言でした。
この発言については、すでに一度書いたことがあります(『新人生論ノート』PARTU)。強く心にとまったので、その場であわただしくメモに書きとめ、そのまま「ノート」に書きうつしたのでしたが、そのときはそれ以上、その意味するものについて考えることをしませんでした。しかし、いまあらためて考えてみて、そして気がつきました──人間は平等だ、というのは、人間が現に平等だというのではなくて、人間は平等であるべきだ、ということであったはずだ、ということに。
人間の平等ということ──「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」ということは、人間の不平等ということ、人の上に立つ人と人の下に立つ人とが本来的に分かれていることを原理としていた身分制社会のなかで、それにたいするたたかいのスローガンとしてかかげられたものであったはずです。
「新春所感−ワイマール共和国はなぜ亡んだのか」という有沢広已さんの文章の紹介でもってこの章をおわらせてください。「ワイマール共和国」というのは、第一次世界大戦後のドイツにおける革命的激動のしめくくりとして、それまでのドイツ帝国にかわって成立したドイツ共和国のことです。ワイマールで開かれた国民会議で共和国憲法が制定されたので、「ワイマール共和国」と呼ばれます。ワイマール共和国は、ヒトラーが政権の座につくことによって崩壊しました。
有沢さんは次のようにその「所感」を結んでいらっしゃいます。
「ワイマールは反対派と戦って敗れたのでもなく反対派から撃滅されたのでもなく、これといった最後を飾ることなく亡んでしまった。それでワイマールは自己放棄したという人もいれば、いや自殺したという人さえいる。末期のワイマールを共和派のいない共和国と評する人もいるが、共和派がいなかったわけではない。闘う共和派がいなかったのだ。民主主義はただそのままで自ら存続しうるものではない。民主主義を守る人々 によって支えられているのだ。従って民主主義はいつも闘う民主主義でなければならない。フイマールの哀しい歴史はそのことを教えているのである」(『学士会会報』一九八六年一月)。
有沢さんの歴史認識については、有沢さんの現状認識についてと同様、いろいろと異論もありうるでしょう。しかし、ここに引いた結びのなかで有沢さんが強調しようとしていらっしゃること、それに私は心から共感します。ドイツの牧師マルチン・ニーメラーさんの次のことばは、ぴったりとこれに重なるでしょう。
共産党員が迫害された 私は党員でないから黙っていた
社会党員が迫害された 私は党員でないからやっぱり黙っていた
学校や図書館、組合が弾圧された やはり私はじっとしていた
教会が迫害された 私は牧師だから行動にたちあがった
しかしそのときはもう遅すぎた
私たちは、わが国の戦後民主主義を、断じて「第二のワイマール」にしてはならない、と思うのです。
(高田求著「学習のある生活」学習の友社 p181-188)
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第一回 マルクスとリンカーンの交流
先日の赤旗まつりでの記念演説(本書収録)のなかで、マルクスが普通選挙権の先進的な提唱者だったという話をしたところ、一般紙の記者から「意外な事実を聞いた」という趣旨の感想をうけました。これまでの東欧・ソ連での社会主義なるものの実態が、民主主義とはあまりにもかけはなれていたので、そうした今日的な「常識」からいうと「意外」だったのでしょう。しかし、実際の歴史の現実としては、科学的社会主義者マルクスは、親友のエンゲルスとともに、十九世紀のヨーロッパの政治の舞台に、社会主義者であると同時に最も徹底した民主主義者として、登場したのです。
ここで、その事情にもかかわる一つの歴史的なエビソードを紹介しておきましょう。
一八六四年十一月、すでに峠をこしたとはいえ、南北戦争はまだ継続しているさなかでしたが、リンカーンが大統領に再選されました。このとき、ヨーロッパでは、国際労働者協会(のちに第一インタナショナルと呼ばれるようになった)が創立されたばかりでした。リンカーン再選のしらせを聞いた国際労働者協会の中央評議会は、ヨーロッパの労働者を代表してリンカーンヘの祝辞を送ることをきめ、マルクスが委任されてこれを執筆しました。南北戦争における奴隷制反対勢力の勝利は、人間の解放への歴史的な一歩として、社会主義者をはじめとするヨーロッパの労働者階級から熱烈に歓迎されていたのです。
「最初の人権宣言」の国・アメリカ
マルクスは、この祝辞のなかで、奴隷制反対の戦争へのヨーロッパの労働者の熱い連帯の気持ちを表明し、「アメリカの独立戦争が、中間階級〔ブルジョアジーのこと──不破〕の権力を伸張する新しい時代をひらいた」ように、「アメリカの奴隷制反対戦争が労働者階級の権力を伸張する新しい時代をひらくであろう」という確信を披瀝しました。
そして私がとくにみなさんの注意をひきたいのは、そのなかで、マルクスが、アメリカを民主主義の発祥の地として、次のように特徴づけていることです。
「まだ一世紀もたたぬ昔に一つの偉大な民主共和国の思想がはじめて生まれた土地、そこから最初の人権宣言が発せられ、一八世紀のヨーロッパの革命に最初の衝激があたえられたほかならぬその土地」(マルクス・エンゲルス全集=この論文では以下全集と略す=I一六ページ)
マルクスがここでのべている「人権宣言」とは、一七七六年、それまでのイギリスによる植民地支配のくびきを断ちきったアメリカ大陸会議が採択した「独立宣言」のことで、そこでは、人民こそ国の主人公であるという人民主権の宣言が、格調高くうたいあげられていました。この「宣言」は、いかなる政府も、その権限のよって立つ由来は「被続治者の同意」にあると人民主権の原理を明確に規定したうえで、人民の主権の内容を次のように展開しています。
「いかなる政治の形体といえども、もしこれらの目的をき損するものとなった場合には、人民はそれを改廃し、かれらの安全と幸福とをもたらすべしと認められる主義を基礎とし、また権限の機構をもつ、新たな政府を組織する権利を有することを信ずる。……連続せる暴虐と簒奪の事実が明らかに一貫した目的のもとに、人民を絶対的暴政のもとに圧倒せんとする企図を表示するにいたるとき、そのような政府を廃棄し、自らの将来の保安のために、新たなる保障の組織を創設することは、かれらの権利であり、また義務である」
リンカーンから礼状が送られる
マルクスが書いた祝辞は、ロンドン駐在のアメリカ公使を通じて、リンカーンに送られましたが、リンカーンの側からは、翌六五年一月に、礼状がとどけられました。この礼状は、アメリカ公使から伝達され、国際労働者協会の評議会二月三十一日)で読みあげられました(補注)。
リンカーンの礼状は、イギリスの代表的な新聞「タイムズ」が、「リンカーン氏と国際労働者協会」という表題で解説つきの紹介をしたほか、ロンドンの他の新聞も報道したため、発足直後の国際労働者協会の民主主義の精神を、世論の前にひろく知らせる役割をもはたしました。
当時、イギリス政府などは、「中立」を称しながら、実際には南部の奴隷所有者の側に支持をよせていました。それだけに、ヨーロッパの先進的な労働者からのこの激励の祝辞は、リンカーンにとって、大変はげまされる、うれしい内容のものだったのでしょう。大統領再選にさいしてリンカーンが各方面からうけとった祝辞は、大変な数にのぼったでしょうが、ただの実務的な礼状にとどまらない、中身のある礼状は、この国際労働者協会あてのものだけだったとのことです。このことが、イギリスで呼び起こした反響について、マルクスがその四ヵ月後、ドイツの同志リープクネヒトに次のように書き送っています。
「A・リンカーンの再選を祝ったいろいろな祝賀状にたいする彼の回答のなかで、われわれの祝賀状にたいする回答だけが形式的な受領証明書以上のものであったことで、ブルジョア諸新聞はわれわれのことをまだ怨んでいる」(W・リープクネヒトヘ 一八六五年五月、全集I三九八ページ)
マルクスによって、「偉大な民主共和国の思想」がはじめて生まれた土地、「最初の人権宣言」が発せられた土地と評価され、その祝辞にたいしてリンカーンが丁重な感謝の言葉をのべたアメリカが、それから百二十年余を経た現在、マルクスが創設した科学的社会主義の流れに属する人びとを、麻薬業者なみの犯罪者扱いして、入国に厳重な制限を課している事実は、資本主義の道義的な退廃を示す以外の何ものでもありません。
もちろん、リンカーンは、国際労働者協会の祝辞の執筆者マルクスが、世界史にどのような業績を記録する人物であるかについて、当時知るよしもなかったでしょう。そして、リンカーンが、暗殺者の凶弾にたおれたのは、その年の四月十五日、礼状が第一インターの評議会で読みあげられてから、わずか二ヵ月あまりのちのことでした。
しかし、私たちは、大西洋をこえたマルクスとリンカーンのこの思わざる交流のうちに、「民主共和国の思想」と「人権宣言」を人類の偉大な遺産として何よりも重視したマルクスの民主主義の精神が浮きぼりにされていることを、たいへん具体的な形で読みとることができます。
(補注)リンカーンの礼状
リンカーンの礼状の全文はつぎのとおり。
「拝啓
私は指示により、貴協会中央評議会の祝辞が当公使館を通じて合衆国大統領にしかるべく伝達され、大統領によって受け取られたことをお知らせするものです。
祝辞が表明しているお気持ちは個人にたいするものであり、このお気持ちをうけとった大統領は、米国民および世界中の非常に多くの人道と進歩の味方の人びとから近来さしのべられてきた信頼に値いすることを示したいとの、心からの希望をいだいております。
合衆国政府が明確に自覚しているのは、私たちの政策は反動的ではありえないが、同時に、いかなる場所でも宣伝活動や不法な干渉は差し控えるという、当初から採択した立場に忠実でありつづけるということです。合衆国政府は、すべての国家とすべての人間にたいし平等かつ厳格に公正な対処をするよう努力し、その努力の有益な結果に依拠して国内での支持と世界中の尊敬と行為を求めることです。
諸国家は自分のためにだけ存在するものではなく、善意ある親交と模範によって人類の福祉と幸福を促進するために存在するものです。まさにこの関係において、合衆国は、奴隷制との現在の紛争における自らの大義、〔奴隷制への〕反逆者たちへの支援を、人間性のためのものとみなしているのであり、わが国の態度が開明的な賞賛と熱烈な共感をうけているというヨーロッパの労働者階級の証言を新たな励ましとして、努力をつづけるものです。
敬具」
(不破哲三著「科学的社会主義における民主主義の研究」新日本出版社 p10-16)
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アメリカ占領軍が憲法草案を作成した
日本国憲法草案作成に与えられた時間は、わずか九日間でした。しかも、日本側に草案を示すまで、そもそもアメリカが草案を作っていること自体を秘密にすることになっていました。
直ちに民政局のメンバー二五人が集められ、密かに憲法草案を作ることになりました。二五人は、アメリカ軍の将校が中心になり、民間人も加わりましたが、将校の多くは、もともと弁護士や政府の役人、政治学者、ジャーナリストなどの仕事を経験していました。優秀なスタッフがそろっていたのです。ケーディス大佐自身も、弁護士でした。
草案作成メンバー二五人は、七つの小委員会に分かれ、それぞれの担当部分の草案を作ります。それを小委員会の上部の運営委員会で検討して完成させる、という作業手順で行われることになりました。
憲法の条文の構成は、なるべく明治憲法をそのまま残すことにしました。明治憲法の改正として新しい憲法を作るためでした。このため、新しい憲法案でも、天皇の条文から始まっています。
メンバーは、憲法案作りに当たって、誕生したばかりの国連の国連憲章や人権宣言を参考にしたばかりでなく、アメリカ合衆国憲法はもとより、ドイツのワイマール憲法、フィンランド憲法、ソビエト憲法なども参考にしました。
憲法案を作る過程では、マッカーサ三原則が修正された部分もありました。マッカーサ三原則には、「自国を守るための戦争も放棄する」とありましたが、この部分は、ケーディス大佐が独自の判断で削除しました。どの国にも、自分の国を守る権利はあり、そのための自衛の戦争まで放棄するのは非現実的だという考えからでした。アメリカは、「自衛のための戦争」の放棄までは求めていなかったのです。
日本の学者グループの案も盛り込まれた
日本では、政府の憲法問題調査委員会が憲法改正案を作る一方で、さまざまな政党や学者グループが、それぞれ独自に憲法改正案を作って発表するようになっていました。
保守系の進歩党の憲法草案要綱は、「臣民」という言葉がそのまま使ってありました。やはり保守系の自由党の改正案は、天皇が続治権を持つ一方で、天皇に法律上、政治上の責任は負わせないというものでした。どちらの政党とも、明治憲法と大差ないものでした。
一方、社会党は、統治権を議会と天皇に分割するという案でした。天皇の政治的な力を残すものになっていたのです。
これに対して共産党の「新憲法の骨子」では、「主権は人民に在り」という表現で、天皇制を否定していました。
こうした政党の草案以外に、民間の学者グループも憲法改正案を作って発表していました。高野岩三郎や森戸辰男などの学者の集まりである「憲法研究会」は、一九四五年一二月二七日に「憲法改正要綱」を発表していたのです。
ここには、「日本国の統治権は日本国民より発す」となっていて、「国民主権」の原則を打ち出していました。天皇については、政治にタッチせず、国政の最高責任者は内閣と定めています。
国民は平等であり、差別は許されないこと。健康にして文化的な生活をする権利を持っていること。こうした条項は、まさに現在の日本国憲法に盛り込まれています。
アメリカ側の憲法草案作りメンバーは、この憲法研究会の改正要綱を入手すると、直ちに英語に翻訳して研究を始め、その後の草案作りに、大いに参考にしていました。
日本国憲法の草案はアメリカが作ったものですが、その内容の多くは、日本の学者グループの改革案を参考にしていたのです。
(池上彰著「憲法はむずかしくない」ちくまプリマー新書 p38-41)
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◎「そもそも共産主義は、民主主義を資本主義の枠のなかだけにとどめず、資本主義の枠を越えるところにまで徹底させようとするところに生じるもの」と。