学習通信051219
◎労働者に白人奴隷(whiteslaves)と……

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労働者とは、貧困とは

 いまの世のなか、朝おきてから夜ねむりにつくまで、考えてみるとたいヘんな社会的なつながりのなかで、労働者がつくりだしたものによって生きていくことができるようになっています。

 顔を洗う。水は水道をひねればでてきますが、水はどうしてでてくるか。いうまでもなく自治体の水道局と契約しているから。しかしもっと素朴に考え直してみませんか。たとえば、水源涵養林の植樹は誰がしたの? 水を浄水場にとりいれる設備は? 水を運ぶ鋳鉄管は? その鋳鉄をつくるための鉄は? 鉄鉱石は? その鉱石を運んだ船は? その船のエンジンは? その船を動かしたのは?

 すべて働く者、労働者がつくりだしたものです。そしてまた、すべて労働者が働くことでまかなわれている各種のサービスがあってはじめて水はでてきます。一日の暮らしのなかで、人間が生きてゆく上での必要な営みのすべてについて、いまの水の場合とことなる例外はあるでしょうか。

 そうです。どんなに複雑にからみあっているとはいえ、労働なしには人間社会は一日も成りたたないのです。その大切な労働をうけもっている労働者が、なぜ三〇〇時間も残業せざるをえなくされ、過労死におびやかされ、一生働いても自分の住む家をもつことさえできないという、ひどい暮らしをさせられるのでしょうか。

 私たちが生きている資本主義の社会の特徴の一つは、生活に必要な衣食住をはじめ、すべてのものが商品として、おカネで売り買いされるところにあります。そして、そのおカネは、何か商品を売らなければ手に入れることはできません。

 ところで、私たち労働者は売りつづけることのできる品物も、それを作り出す手段も持ちあわせていません。おカネに代えられるものといえば、自分自身の労働力(肉体的・精神的能力の総体)だけです。そこで私たちは、その労働力を商品として時間ぎめで資本家に売り、その代価として賃金を受け取る。こうして手に入れたかカネで生きてゆくしかありません。こうして生活している人間のことを労働者≠ニいいます。

 一方、私たちの労働力を買う資本家とは、生産手段(建物・機械・原材料など)を持ち、これによって労働者を働かせ(労働力を支出させ)、労働者が作り出した生産物を売ることでばく大な儲けを手に入れます。

 資本家はすべて、いつでもより多くの儲け(利潤)を手に入れようとして、労働者をできるだけ長く密度も濃く働かせ、一方では賃金を可能なかぎり低く抑えようとしています。そして、他のさまざまな要素もあって、資本主義のもとでは資本家のもとにますます多くの富が集まり、労働者の側には逆に貧困がおしつけられるのです。

 「貧困? 日本は世界一のカネモチだし、クニで百姓のセガレだった頃より、ずっとラクになっているよ」
 「そうだよ。ゴルフにもゆくし、このコート、ロンドンで買ったものですよ。貧困はピンときませんね」。

 科学的な理論は、貧困とは欲求が社会的水準に伍して解決されていかない状態をさしています。

 欲求は社会的ですね。ハラがへったら食パンの一斤もかじったらいい。立喰いそばの三杯も喰ったらいい。しかし、そのとき薬味のねぎを少々余計にドンブリになげこんでみても、他の人たちが家庭で子どもらとだんらんしながら、ビールをのみ、手づくりの料理で食事をしているのを想像したとき、君はしみじみと貧しさをあじわうものです。

 そういう、欲求をみたす上での社会的な水準との比較での相対的な貧しさとともに、貧しさはいろいろな顔をもっています。

 仕事が山ほどおしつけられ、しかも面白くないこと。職場で自由に口をきけないこと。頭にくる命令でもきかないわけにはいかないこと。疲れた上にアタマにきているから、仕事をはなれてもまじめに勉強しようなんて気になりません。夕刊フジとか日刊ゲンダイとか、FF写真誌でたくさんということになり、休みの日には馬券売場へ。もちろん「学習の友」はおよびじゃありません。

 そんな暮らしですから、お彼岸だからといって墓参りにクニヘ帰るヒマもカネもなく、あっちにもこっちにも不義理を重ね、暮らしは荒れてきます。人間的にも堕落してきます。ツケで呑む。払えないのでゴマカそうとする。ウソをつくようになる……。

 これらはいずれも貧困のあらわれ方にほかなりません。そういわれると、自分はまさしくそうだ、と思えるフシがいっぱいあるではありませんか。

 そうです。これが労働者階級の側にたまっている貧困のあらわれなのです。

 現代の世の中では、ひとにぎりの資本家が巨大な富をにぎって独占資本となり、経済を支配するだけでなく、自分たちの代理人である自民党を使って政府をにぎり、政治までも独占資本の利益のために奉仕させてしまいます。そして、労働者だけでなく、中小企業家や農民など、すべての働く人びとに、重税、高物価、低福祉をおしつける一方、とくに最近見られるように、独占資本の利益のためには国民を戦争政策に引きずりこもうとさえしているのです。

 こうしてみると、労働者というのは踏んだり蹴ったりでいいことなしのように思えます。

歴史発展の原動力

 たしかに、労働者がいつまでも資本家の思い通りになっているとすれば、いいとこなしの存在です。

 いま、わが国では政治の反動化か進んでいるとはいえ、戦前にくらべれば労働者をはじめ国民の権利はくらべものにならないほど拡大していますし、平和や民主主義を大切にする考え方も強まっています。このような社会的な進歩、歴史の発展の原動力は何だったと思いますか?

 その原動力というのが、ほかならぬ労働者を中心とした働く人びとの団結の力だったのです。──以下略──
(労働者教育協会篇「労働組合の基礎知識」学習の友社 p7-9)

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 これが工場制度である。私はそれを紙面のゆるす限り詳しくのべた。また、身を守る力のない労働者にたいするブルジョアジーの英雄的行為を、なるべく公平にのべた。この行為について無関心でいることは不可能であり、無関心でいることは犯罪的なことなのだ。

だがもう一度、一八四五年の自由なイギリス人の状態を、ノルマンの貴族の鞭のもとにあった一一四五年のサクソン人農奴の状態とをくらべてみよう。

農奴は土地にしばりつけられていた。自由な労働者もそうである──小屋制度によって。

農奴は領主に初夜権をささげる──自由な労働者は初夜だけでなく、すべての夜の権利をささげ今農奴は財産をもつことができず、彼が稼いだものはすべて領主がとりあげることができた──自由な労働者も同じように財産をもっていないし、競争の圧力によって財産を手にいれることができない。

そしてノルマン人さえやらなかったことを工場主はやる。つまり工場主は現物給与制によって労働者の直接的な生計手段を毎日管理しでいるので、ある。

農奴と領主の関係は法律によって規制されていたが、この法律は慣習に一致していたために守られており、そして慣習自体によってもこの関係は規制されていた。自由な労働者とその主人との関係は法律によって規制されているが、この法律は守られていない。というのは、それは慣習にも一致せず、主人の利益にも一致していないからである。

領主は農奴を土地からひきはなすことはできなかったし、土地からひきはなして農奴を売ることはできなかった。そしてほとんどすべてのものが長子相続財産で、資本はどこにもなかったので、そもそも農奴を売ることはできなかった。近代のブルジョアジーは労働者にたいして自分自身を売ることを強制する。

農奴は自分が生まれた土地の奴隷であった。労働者は必要不可欠な生活必需品と、それを買わなければならないお金との奴隷である──両者とも物の奴隷である。

農奴は封建的社会秩序のなかにおのおのの場所をもっており、それによって生存を保障されていた。自由な労働者はまったく保障をもっていない。なぜなら彼はブルジョアジーが彼を必要とするときにのみ、社会のなかに場所をもつからである──それ以外のときは彼は無視され、まったく存在しないものと見なされている。

農奴は戦争のときには主人に身をささげる──エ場労働者は平和のときに身をささげる。

農奴の主人は野蛮人で、自分の隷属民を一頭の家畜と見なしていた。労働者の主人は文明人で、労働者を機械と見なしている。

ようするに両者はあらゆる点でほとんど同じなのだが、どちらかの側に不利な点があるとすれば、それは自由な労働者の側である。

両者ともに奴隷であるが、ただ、一方の隷属が偽善的ではなく、公然として、あからさまであるのに、他方の隷属は偽善的で、自分自身からも他人からも陰険にかくされていて、昔のものよりももっとひどい神学的農奴制である。

人道主義的なトーリ派の人びとが工場労働者に白人奴隷(whiteslaves)という名称を与えたのは正しかった。

しかし偽善的な、かくされた隷属状態は、少なくとも外見上は自由の権利をみとめる。

それは自由を愛する世論に屈服しており、少なくとも自由の原理がつらぬかれているところに、昔の奴隷制にたいする歴史的進歩がある──そして抑圧された人びとはもちろん、この原理が実現されるよう、つとめるであろう。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 上267-269)

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◎「どんなに複雑にからみあっているとはいえ、労働なしには人間社会は一日も成りたたない……その大切な労働をうけもっている労働者」とは。