学習通信051220
◎科学性がひそんでいた……

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運動から生まれるこころ

 知人に赤ちゃんが生まれたとき、お祝いのプレゼントに選ばれるものにオルゴールがあります。赤ちゃんはその柄をもってふりまわします。これは赤ちゃんの大脳が命令した運動ではなく、意識以前のものです。

 ところがふりまわした結果、赤、白、緑、黄などのきれいな模様が目の前を動きます。一方、カラン、コロンと美しい音が耳にはいります。くわえた指や腕にはからだの内部感覚が走ります。それらは大脳の皮質へ伝えられるので意識ができてきます。やがてオルゴールは意識的にふられるようになります。

 これは一例ですが、意識が先にあって運動がおきたのでなく、運動が先にあって意識がおきてきます。これが赤ちゃんの心身の発達の原則ですし、しつけのねらいどころです。

 そこで哺乳や、食事の時間を規則正しくすることは、赤ちゃんの内臓や神経にリズム(生存に必要な周期)をよび起こすことになります。睡眠や午睡についてもそうです。よごれたおむつをなるべく早く替えてあげることは、皮膚感覚が清潔(快)と不潔(不快)を感じわける能力をつけてやることです。

 ダラダラと、のべつ口を動かしている幼児、感覚のままに衝動的に一日をすごす幼児は意志や知能の面でもおくれがちです。そういう幼児にならないような基礎づくりが赤ちゃんのしつけです。

 おむつ替えのとき、赤ちゃんは、足をピンとのばしたり、バタバタしたがります。おとなはアーバーバーバーと声を出しながら、赤ちゃんに顔を近づけ、ブッといっておへそにキスしてあげます。赤ちゃんはくすぐったくて、からだをよじらせながらケラケラわらいます。数回くりかえすうちに、赤ちゃんは、視覚の遠近調節、聴覚の分化と体内感覚の結びつき、皮膚と筋肉の運動とそう快感、笑うことでの発声練習、その他いろいろのものを与えられます。

 おばあちゃんがよくこんなことをしているのを見かけます。
 赤ちゃんの両手をとって、グルグル交互にまわし、カイグリカイグリ。その手を顔へ、トットノメ。その手を頭へ、オツムテンテン。日本独自の育児のちえが(育児体操も)あったのです。そこには科学性がひそんでいたわけです。これも赤ちゃんのしつけです。

 赤ちゃんのからだと神経(心)をリズムあるものにしていくこと。そのために規則正しい日課が大切です。赤ちゃんのしつけとは、おとな白身の(育児の)しつけなのです。
(近藤・好永・橋本・天野「子どものしつけ百話」新日本新書 p58-59)
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 これをもう少し詳しく解説しますと、だいたい世界にたいする見方には、大きく言って三つの流れがあります。

(1) 一つは、私たちがそのなかで生きているこの自然も、それから社会も、客観的に実在するものだと見る、そして、人肌というもの、あるいはこの「自分」というものは、客観的に存在している自然の一部であり、社会の一部だと見る、こういう見方です。

 これはおそらく、世界にたいするみなさんのごく普通の見方だと思います。自然も社会も、自分の頭のなかにだけあるもので、本当は存在しないものなどと考えていたら、誰も苦労してこの学校まで、存在もしない山道を登ってきたりはしないでしょう。これは、人間の普通の見方なのですが、これが、唯物論なのです。

(2)ところが、その普通の見方をひねって考えて、「世界」というものは、客観的に存在しているかのように思われているが、実は、その「世界」なるものは、自分の頭のなかにあるものであって、自分の意識から独立した存在などは実在しないのだ、という見方があります。これが主観的観念論と言われるもので、哲学の歴史には、なかなか大きな流れがあります。

(3)観念論には、もう一つの流れがあって、これは、ヘーゲルに代表されるものです。世界が客観的に存在していることは認めるのですが、世界も、自分の意識も、すべて現実の世界の外にある「絶対者」が生みだしたものだと見る。この「絶対者」というのは、宗教でいう「神」に近いもので、世界の発展も、人間の精神の発展も、すべて「絶対者」が生み出し、動かしているのだと説きます。これは、客観的観念論と呼ばれます。

 「絶対者」が世界を支配していると見る点で、非常に極端な観念論のようですが、人間の意識から独立して現実世界が「ある」ということは認めるのですから、その面では唯物論に近い。レーニンは、客観的観念論は、唯物論に転化する「前夜」だと特徴づけたことがあります。

 哲学の流れには、だいたいこの三つの流れがありますが、大きく唯物論と観念論の二つの陣営に分かれます。

 エンゲルスは、この話をしたあと、「思考と存在の関係」には、もう一つの側面があると言って、客観世界が存在していることは認めながら、「われわれの思考」が「現実世界」を認識できるかどうかを疑う流派がある、と言っています。

これは、不可知論という流れです。ドイツの哲学者のカント(一七二四〜一八○四年)がいちばんの代表者ですが、カントは、人間が認識できるのは「現象」だけで、現象の背後にある本体──「物自体」を認識することはできない、と主張しました。この主張については、エンゲルスがいまの文章のなかでかなり詳しい批判をしていますので、この問題は、そこで勉強してほしいと思います。

 こうお話しすると、世界の実在を認めないような議論が、哲学の世界でなぜ幅をきかせているのか、不思議に思うかもしれませんが、観念論が横行するには、やはりそれなりの理由があります。
(不破哲三著「科学的社会主義を学ぶ」新日本出版社 p32-33)

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◎「自然も社会も、自分の頭のなかにだけあるもので、本当は存在しないものなどと考えていたら……」「意識が先にあって運動がおきたのでなく、運動が先にあって意識が……。これが赤ちゃんの心身の発達の原則……しつけのねらいどころ」と。