学習通信051221
◎「機械人間」みたいな……
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わたしたちは弱い者として生まれる。わたしたちには力が必要だ。わたしたちはなにももたずに生まれる。わたしたちには助けが必要だ。わたしたちは分別をもたずに生まれる。わたしたちには判断力が必要だ。
生まれたときにわたしたちがもってなかったもので、大人になって必要となるものは、すべて教育によってあたえられる。
(ルソー著「エミール 上」岩波文庫 p24)
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●──われら動物みな兄弟
なにから話をはじめようかと、ずいぶん迷いましたが、けっきょく「われら動物みな兄弟」というところからはじめよう、と心をきめました。
「われら動物みな兄弟」というのは、畑正憲さんが文筆家としてデビューした最初の著書の表題ですが、じつにいい題だと思います。「この表題だけは、われながらよくぞ思いついたといまだに鼻が高い。それは私の信念でもあり、兄弟以上の関係を結ぶのが理想である」と角川文庫版のあとがきに畑さん自身が書いていらっしゃるように。
もっともヽこれからの私の話は、「動物兄弟」のなかで人間がどんなに特殊な存在であるか、というところにもっぱら重点をおくことになるでしょう。保育の仕事は動物の子育てと同じではなく、したがってその意義について考えるためには、そうすることがどうしても必要だと思うのです。
それにしても、人間が動物兄弟の一員だという自覚は、やはりたいせつだと思います。子どもはみな、動物が好きですね。動物兄弟の一員としての血が自然にそうさせるんじゃないでしょうか──あんまり科学的ないい方じゃないみたいですが。子どもはみな、動物が好き、といいましたが、動物がきらいな子もいないではない。しかし、そういう子は、あまり健康な子とはいえないように思います。
その意味で、子どもたちが動物を友だちとすることがすくなくなり、もっぱら仮面ライダーやウルトラセブンを友だちとするようになってきたことを私は憂えています。松本零士さんのコミック『銀河鉄道999』ご存知ですか。未来の地球では、金で機械の体を買った「機械人間」がはばをきかせており、生身の人問を狩りたててあそんでいる、というのがその出だしです。そんなのが人類の未来であったらたまらない、と思いますね。そうした機械人間の支配にたいするたたかい──それがこの作品の一つのモチーフでもあるのですが。
私がこれから人間の特殊性を強調するのも、またその出発点にあたって「われら動物みな兄弟」ということを強調するのも、私たちが「機械人間」にならないためであり、子どもたちを「機械人間」みたいなものに育てることがあってはならない、と思うからです。
●──キリンの赤ちゃん、ゾウの赤ちゃん
畑さんの本の刺激もあって、いろいろ動物の本を読みあさっているなかで、とても強い印象をうけたのは、キリンのお産の話でした。
ながいこと上野動物園の飼育係をつとめ、いま東武動物公園の園長をしていらっしゃる西山登志雄さんの本(『河馬的文明論』ブロンズ社、『動物賛歌』新日本出版社・新潮文庫)で出会ったのですが、キリンのお母さんは赤ちゃんを四四〇日もおなかのなかにいれてるんだそうですね。だから、キリンの赤ちゃんは、生まれたときすでに身長一メートル八〇センチもある。その大きな赤ちゃんを、地上ニメートルほどの高さから、足をふんばって、ドタンと生みおとすんです。
生みおとされた赤ちゃんは、ちょっと間をおいてからはじめての呼吸をし、首を立てて立ちあがろうとするけれども、足が長いから、なかなか立てない。お母さんキリンは、赤ちゃんの体をペロペロなめてやる。こうして四、五時間もすると、赤ちゃんキリンはお母さんキリンのまわりをもう元気よくはねまわっているんだそうです。
ゾウのお産の話も出てきます。ゾウのお母さんは赤ちゃんを、六六〇日もおなかのなかにいれてるんだそうですね。だから、ゾウの赤ちゃんは、生まれたとき肩までの高さが一メートルもあり、生まれるとすぐにトットコトットコお母さんについて走るんだそうです。
なんでこんな話をはじめたかというと、このようなキリンやゾウの赤ちゃんに接するなかから、西山さんがふと書きとめていらっしゃる次のことばをご紹介したかったからです。そのことばというのは──
「そこで私は思うのですが、人間の赤ちゃんというのは、その発育状態から見て、あと一年くらいは胎内にいたほうがいいのではないかと思います。他の動物とくらべるとまったく生活力が乏しく、私の感じ、これはあくまでも感じなのですが、ちょうどあと一年くらいたったころが、やっとサルとか他の動物の出産時の状態と同じ程度になるのです。だから、たとえ生むときはたいへんでも、子どものことだけを考えるなら、もうすこしおそく生んだほうがよろしい。しかしこれは、母胎の問題をいっさい考えない場合の結論です」
これ、ほんとうに西山さんの実感なんだろうと思います。
(高田求著「未来をきりひらく保育観」ささらカルチャーブック p10-13)
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こういうことになるのは、「意識」・「思考」をまったく自然主義的に、或るなにか与えられたもの・はじめから存在に、自然に、対立しているもの、というふうに、受け取るためである。
そんな考えかたをすれば、意識と自然とが、思考と存在とが、思考諸法則と自然語法則とが、非常によく一致している、ということは、実際この上なく奇妙に思えるに違いない。
しかし、さらに進んで、それではいったい思考と意識とはなんであり、また、どこから生まれてくるのか、と尋ねてみれば、それが人間の脳の産物であるということ、人間自身が自然の一産物で、自分の環境のなかでまたこの環境とともに発展してきたのだ、ということ、このことがわかるのである。
そうすると、人間の脳が生み出したものも、結局のところやはり自然産物なのだから、残りの自然連関と矛盾するのではなくて照応するのだ、ということが、実際またおのずから明らかになるわけである。
(エンゲルス著「反デューリング論 上」新日本出版社 p53-54)
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◎「人間自身が自然の一産物で、自分の環境のなかでまたこの環境とともに発展してきたのだ、ということ」と。