学習通信060110
◎労働者の羅針盤……

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一、京都に於ける学習教育運動の先駆

@戦前

 戦前、日本で最初の労働組合全国組織である「日本労働総同盟」の京都連合会第三回大会が、一九二三年(大正十二年)十月、岡崎公会堂でひらかれ、ここで京都労働学校の設立が決定され、翌二四年四月一日最初の「京都労働学校」が三条青年会館(現在のYMCA)で開校された。

 これより以前、一九一八〜二〇年ころ、河上肇先生を中心にした「労学会」が、「社会問題研究」という雑誌を中心に労働組合運動の学習、理論活動をすすめており、この会で一九二〇年三月、労働学校開設が計画されたが、計画だけにおわった。

 この最初の「京都労働学校」は、「真の労働学校は労働者の羅針盤である。今では、大ざっぱな知識によって根底が浅かった。土台が是非必要である。それには我らを我らのために教える学校が必要だ。将来労働者の国家を仕立てあげるためにも──」とよびかけられ、予想をこえて一四一名があつまったのである。このため当時、この中心メンバーであった谷口善太郎らが入学者を詮衝し、七三名に入学を許可した。

 この学校は、刑事が毎回臨席し、通学者の氏名、勤め先をしらべるといった弾圧のもとで、小田美奇穂、河上肇、山本宣治、住谷悦治らが講義し、活気旺盛に、六月三〇日まで(火・木・土、後七時半より二時間)予定通り開かれた。

 つづいて七月から九月まで、第二期が開かれ、五八名が入学し、弾圧や財政難とたたかいながら、つづけられたものである。
(「京都における大衆的学習・教育運動のあゆみ」京都労働者学習協議会 p1)

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山本宣治は、京都労働学校の校長として、また関西労働学校連盟の委員長として、労働学校運動において重要な役割をはたしていた。そしてかれは京都・大阪その他の労働学校で、生物学の講義を行なっていた。労働学校においては、一期(三ヵ月程度)の間に、生物学の講義は、四〜五回くまれるというのが実態であるが、かれはそのことにかんする問題として、@問題が広すぎ、材料が多すぎるために、この時間内にまとめることは困難である、A受講者の動植物の知識がまちまちなので、説明が非常にやりにくい、B写真・幻灯等の設備があれば、それを若干捕えるが、労働学校ではそれは不可能である、C挿図入りの参考書はあるが、高価で労働者が購入するのは不可能である、などをあげている。

 山本宣治は書いている。そこで考えてみるべきことは、なんのために労働者が科学を学ぶのかということである。それは知識を「飾り」として身につけることではなく、科学を徹底的に消化し、血肉とすることにより、人生観・社会観をつくりあげるためである。

「無産者自身が自身にひきくらべて我物にした科学知識は、必然自己の束縛をたちきる武器となる」。

山本宣治はこうして、生物学のあれこれの知識を与えるのではなく、生物界のもっとも根本的な原理・法則をわかりやすく講義することにより、受講者が、歴史的な見方を学び、常識的にとらわれた考え方や既成のものの見方を根本的に転換させることが必要であり、それが科学的に社会を把握する基礎になると論じている。

 さて、労働学校について、かなりの紙数を使って説明してきたが、この時期に労働学校が盛んになったとはいえ、それは地域的にも限られており、労働学校で学べる労働者というのは全体からみれば、きわめて小さな部分でしかなかった。
(「労働者教育論集」学習の友社 p324)

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しかし、『宣言』が書かれたときに、われわれがそれを社会主義宣言
と呼ぶということはありえなかったであろう。

一八四七年には、社会主義者とは、一方では、種々の空想的体系の支持者たち、すなわちイギリスにおけるオウエン主義者、フランスにおけるフ一リエ主義者のことであり、この両者はすでにたんなる宗派の地位になりさがって、しだいに死滅しつつあった。

他方では、あらゆるつくろい仕事によって、資本と利潤にはなんら危害を与えずに、あらゆる種類の社会的な苦情の種を取りのぞくと公言した、きわめて多様な社会的やぶ医者のことであった。

どちらの場合にも、労働階級の運動の外部にあって、むしろ「教養のある」階級に支持をさがしもとめる人々のことであった。

労働階級のどの部分でも、たんなる政治的革命の不十分さを確信するようになって、全体的な社会的変革の必要性を宣言していたもの、その部分は、当時、自分を共産主義者と呼んでいた。

それは、粗野で、荒けずりの、純粋に本能的な種類の共産主義であった。

それでもなお、それは基本的な点に触れていて、労働階級のあいだで、フランスではカベーの、ドイツではワイトリングの空想的共産主義を生みだすのに十分なほど強力であった。こうして、社会主義は、一八四七年には、中間階級の運動であり、共産主義は労働階級の運動であった。

社会主義は、少なくとも大陸では「尊敬すべきもの」であったが、共産主義はその正反対のものであった。

そしてわれわれの考えは、はじめから、「労働階級の解放は労働階級自身の行動でなければならない」ということであったから、われわれが二つの名称のどちらをえらばなければならないかについては、疑問はありえなかった。

それだけではなく、われわれは、それ以来、これをすてることなど断じてなかったのである。
(マルクス、エンゲルス著「共産党宣言」新日本出版社 p19-21)

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……「無産者自身が自身にひきくらべて我物にした科学知識は、必然自己の束縛をたちきる武器となる」

……われわれの考えは、はじめから、「労働階級の解放は労働階級自身の行動でなければならない」ということであった

……「真の労働学校は労働者の羅針盤である。今では、大ざっぱな知識によって根底が浅かった。土台が是非必要である。それには我らを我らのために教える学校が必要だ。将来労働者の国家を仕立てあげるためにも──」