学習通信060117
◎先入観が何より恐ろしいのでは……

■━━━━━

女の座

 雑用に追われて新聞さえ読むひまのない妻のために、朝、先に眼を通した良人が、ぜひ読むべき記事には赤い鉛筆、なるべく読むほうがいいものには青い鉛筆で線をひいて、妻にモノを読む習慣を与えたという投書を読んだことがある。五十をすぎて生活もある程度安定し、子供の手もはなれてから、社会的な仕事に活躍し始めた婦人も私の縁辺にいる。この人の場合も、進んでご不浄や風呂場、庭先などの清掃を主人が肩代わりしてくれるのだということであった。

 楽しがるべき夕げのあとの雑談のひとときに、とかく、女親はひとりとり残されたように話題からはみ出しがちになるようである。そしてやがて「教養のない妻」だの「母に相談しても仕方がない」などと家人からも、うとまれる不幸な人が意外に多い。こうした例は、逆にその家庭の主人や子供たちの無理解、または妻や母の立場に対する愛情の欠如に原因があると思う。家庭の雑事をとかく、女まかせにして顧みない男性の封建性の名残りがそこにある。そして、そうした家庭内の精神的な断層のようなものが、結局、主人自身の生活を空疎にし、家庭を味気ないものにするのではないだろうか。

 良人の理解と援助によって社会的な仕事に乗り出した婦人の場合はともかく、せめてその日の新聞の政治面や社会面の動きについて一家が話し合えるような、ひとときの団らん時間を持つように心がけたいものである。
(沢村貞子著「わたしの茶の間」光文社 p59-60)

■━━━━━

女性は仕事人としても母親としてもつよい

 ここ二、三年、子育てと仕事(私の場合には研究であるが)を両立させるためにはどうすればいいか……というテーマで、講演や原稿を依頼されることが多い。この事実は、少なくともふたつのことを意味していると私は考えている。

 まず、私自身が大学院を終えて以来このかた、研究・仕事を休止したこともなく、また休みたいなどという発想が念頭に浮かんだことすらなく、その道すがら、三人の娘たちを産み育てたという、私にとっては当たり前以外のなにものでもないそのことが、世間的標準からすると、けっして当たり前ではないらしいことである。

 いまひとつは、仕事と家庭を両立させたいと真剣に取り組んでいる女性が少なからずおられて、私の例から何かを学ぼうとしてくださっているためであろうと考えている。そういう女性が増えているのは、ほんとうに嬉しいかぎりである。

 先日、『サイエンス』という科学雑誌に載せるために、アメリカのふたりの共同研究者たちの論文の翻訳を頼まれた。タイトルは結婚・母親業と研究活動は両立するか≠ニいう魅力的なもので、この論文は、アメリカの大学で研究職に就いている男女の科学者百人以上について、著者たちが直接インタビューした結果にもとづいて書かれたものである。

 得られた結論は、結婚、出産、子育てが、研究活動に何ら妨げになっていないばかりか、子どもを持ったことによって、より生産的になった女性科学者が圧倒的に多いというもので、一般的な予想や常識に完全に反している。年間発表論文数でいうと、子持ち女性科学者のほうが、独身女性科学者より、上まわっているのである。

 出産や子育て戦争の最中は、自由になる時間が少なくなることは、動かせない事実であるが、そのために研究に使う時間はいささかも影響を受けなかったし、アイディアが枯渇するようなことはまったくなかった、と証言する女性科学者がほとんどであった。何が減ったかというと、映画を見たり、小説を読んだり、パーティーを開いたりするための時間であって、仕事のほうは、それまでより能率的に片づける才覚が自ずと身についたという人が多数を占めていた。

 女性の社会進出において、仕事と家庭との両立は困難であるという先入観が何より恐ろしいのではないだろうか。これは、女性本人についても、周りの人間についてもいえることである。男女雇用機会均等法ができたとはいえ、さまざまの形で差別が厳然と残っているのは、結婚、出産のため能率が落ちたり、仕事がお留守になったりするのではないか、という不安が雇用者側に明らかにあるためである。

 雇用者や周りの人間たちの意識を変えてゆくのには、時間がかかるだろう。しかし、それより何より先に、女性ひとりひとりの意識を変革することが急務である。そしてそれは、今すぐにできるはずだし、そうしなければならない。「女性は、仕事人としても、母親としてと同じくらい強いのだということを、いつも覚えていましょう」と、私は同志の女性の皆様に大声で伝えたいと思う。
(米沢富美子著「人生は夢へのチャレンジ」新日本出版社 p106-108)

■━━━━━

 女らしさ、という表現が女の生活の規準とされるようにまでなってきた社会の歴史の過程で、女がどういう役割を得てきているかといえば、女らしさという観念を女に向かってつくったのはけっして女ではなかった。

社会の形成の変遷につれしだいに財産とともにそれを相続する家系を重んじはじめた男が、社会と家庭とを支配するものとしての立場から、その便宜と利害とから、女というものを見て、そこに求めるものを基本として女らしさの観念をまとめてきたのであった。

それゆえ、女らしさ、という一つの社会的な意味をもった観念のかためられる道筋で女が演じなければならなかった役割は、社会的には女の実権の喪失の姿である。

 女らしさは一番家庭生活と結びついたものとしていわれているかのようでありながら、そういう観念の発生の歴史をさかのぼって見れば、現代でいう家庭の形が父権とともに形成せられはじめたそもそもから、女ののびのびとした自然性の発露はある絆をうけて、けっして万葉時代のような天真なものであり得なくなっているということは、まことに意味深いところであると思う。
(宮本百合子著「若き知性に」新日本新書 p8-9)

■━━━━━

 マルクスは一八五一年二月三日付のエンゲルスあての手紙で、どんなに困難なときにも失わなかった皮肉をまじえて、自分の家族の子だくさんについてこう述べている。「土地の豊度が人間の豊度に反比例するということは、僕のような腰の強い家父には深刻に作用せざるをえなかったわけだが、僕の結婚が僕の仕事以上に生産的なので、なおさらそうなのだ。」

 マルクス家では、家族六人全部(ヘレーネ・デームートもふくめて)が二部屋に住んでいた。おまけにこの家へはしばしば、亡命者の友人たちが避難所をもとめてやってきた。この時代の苦しい家庭生活については、イェニーが親しい友人たち、とくにヴァイデマイアーにあてた手紙にえがいていることを私たちは知っている。一八五〇年五月二〇日に、イェニーはこう記している。

「こうした生活のなかから二日だけとりだして、ありのままにお話ししてみましょう。そうすれば、亡命者で同じような目にあった者はおそらくあまりいないことがおわかりになるでしょう。……あわれな小さい天使は、私の多くの心配と胸にひめた悲しみとをたんと飲みほしてしまったために、いつも病弱で、日夜はげしい苦痛のなかに寝ていました。この世に生まれてから、彼はまだ一晩も熟睡せず、せいぜい二、三時間しか眠りません。……こうした苦痛のあまり彼は強く吸いましたので、私の乳房は傷ついて裂けました。しばしば血が彼の震える小さな口に流れこみました。こうしてある日、私がすわっていますと、突然私たちの女家主がはいってきました。……彼女は契約を取り消し、私たちがなお彼女から借りていた五ポンドを要求しました。

私たちがその五ポンドをすぐに手にいれなかったので……二人の執達吏が家にはいってきて、私のささやかな全財産、つまりベッド、シーツ類、衣服などの一切合財、それに私のかわいそうな子供の揺りかごや、熱い涙を流して立ちすくんでいる女の子たちの少しはましな遊び道具までも差し押えました。二時間のうちにみんなもっていくと彼らはおどしました。……私たちの友人シュラムが救いを求めて、街へ急ぎました。彼が辻馬車に乗るやいなや、馬が逸走しはじめ、馬車から飛び降りました。彼は、私がかわいそうな震えている子供たちとともにむせび泣いていた家のなかへ血だらけになって運びこまれたのです。

 その翌日、私たちは家を出なければなりませんでした。寒い、雨模様の、どんよりした日でした。私の夫が私たちの住居を探しますが、子供が四人いると話しますと、誰も私たちを受け入れようとしません。最後にある友人が私たちを助けてくれて、私たちはその部屋代を払いました。それから差し押えの騒ぎに心配になって、いきなり勘定書をもって私のところに押しかけてくる薬屋、パン屋、肉屋、牛乳屋に支払うために、私はいそいでべッドを全部売り払いました。売られたべッドは戸口に運ばれ、手押車に積まれます。

──さあ、これからなにが起きるでしょう?──日は暮れておそい時刻になっていました。イギリスの法律ではそういうこと〔そんな時刻に搬出すること〕は禁じられているのです。家主が警官をつれて現われました。そしてそのなかには自分のものもあるかも知れない、私たちは外国へ逃亡するつもりなのだと主張します。五分もたたないうちに、二、三百人以上もの人間が私たちの戸口のまえで口をあけて見物しています。チェルシーの全群衆です。べッドは返され、翌朝夜が明けたら、はじめて、それを買い手に渡してもよいということになりました。こうして持物を全部売り払うことによって、一文残らず支払いのかたをつけてから、私は小さな愛する者だちとともに、……ドイッチェス・ホテルのいまいる二つの小部屋に移りました。」

 おどろくべきことは、このように辛い瞬間にも、イェニ一が主として心配したのはマルクスのことだった。彼女はなによりも、マルクスをこうした不幸からぬけださせようとつとめたのである。

 イェニーは同じ手紙で述べている。

「愛するお友達、当地での私たちの生活のたった一日だけについて、こんなにことこまかに長々とお話ししたことをお許しください。はしたないとは存じておりながら、でも今夜は、私の胸のなかがいっぱいになって震える手へとつたわりました。私たちのもっとも古く、もっともすぐれた、もっとも忠実なお友達の一人のまえに自分の心を一度は打ち明けないではいられなかったのです。こんなちっぽけな苦しみに私が負けたなどとは思わないでください。

私たちのたたかいはけっして孤立したものではありませんし、なかでも私は、私の生涯の支えである忠実な夫がいまも私のそばにいるのですから、えらばれたしあわせ者、恵まれた者の一人であることを知りすぎるほど知っております。けれども現に、私を心底まで苦しめ、私に血を吐く思いをさせているのは、私の夫がこんなにも多くのつまらない目にあわねばならなかったこと、それもほんのわずかなことで彼を助けることができたのにということと、あれほどよろこんで人を助けてあげた彼が、ここではこんなにも無援であったということです。」

 一八五〇年一一月一九日、イェニーが前述の手紙でふれたグイード少年がこの地で死ぬ。マルクスはもっとも親しいエンゲルスにあてて、子供の死をこうつたえている。

「ほんのわずかだけ書く。今朝一〇時、僕たちの小爆破陰謀者フェクスヒェンが亡くなった。突然、まえからよくやっていたけいれんのために。二、三分前までは笑ったりふざけたりしていたのに。まったく不意のことだった。ここのありさまは推察できるだろう。君がいないので、こんなときこそほんとうにさびしい。」追伸に彼はつぎのように友にたのんでいる。

「もし気が向いたら、僕の妻に少しばかり書いてやってくれたまえ。彼女はほんとうにがっかりしているから。」

 長年たってから、イェニーはその思い出のなかでこう述べている。「私の悲しみはとても大きかった! この子供は私の失くした最初の子供であった。そして、ああ、私はそのとき、自分の前途には同じような苦しみがもっとひかえているのではないかと疑った。」

 プロレタリアートの指導者であり理論家であるマルクスの明確な生活目標と、イェニーの世なれなさを考直にいれるなら、ロンドンでの絶望的な貧困生活のもとでおこったこうした事件が、全家族にとってどれほど辛いものであったかは、想像にあまりある。この点であるスパイの報告に描かれているマルクス一家の生活や日常生活のありさまは真実をついているように思われる。

「マルクスはロンドンのもっとも下等で、安あがりな地区に住んでいる。彼は二部屋を借りている。一部屋は往来に面した客室で、もう一つはそのうしろにある寝室である。客間の中央に大きな旧式なテーブルがすえられており、テーブルかけのかかったその上には原稿や書籍や新聞や、子供のおもちやや、イェニーの布切れ、裁縫道具がのっている。……マルクスのところへはいってゆくと、石炭やたばこの煙の雲で眼さきがひどくかすみ、あたりがどうやらはっきりするまでは、地獄でもさまよっているような気持になる。そして霧のなかにいるように、だんだんと少しずつ物の形がみえてくる。」
(ヴィノグラスカヤ著「マルクス夫人の生涯」大月書店 p154-157)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「女らしさ、という一つの社会的な意味をもった観念のかためられる道筋で女が演じなければならなかった役割は、社会的には女の実権の喪失の姿である」と。