学習通信060118
◎じつは残酷なほど短い……
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はじめに
家族が家族で「あることができる」時間はひどく短い
先日、一通のお手紙をもらった。それはとても心にのこる、そして、考えさせられる内容のものだった。
──主婦の存在って何だろうと考えるからです。食事を用意しても食べる人がいないという現実があることを、私は結婚してから知りました。
そう、この人がいうように、まぎれもなくいま、「食」が家庭から流出している。家族全員で食卓をかこむということは「まれ」なイベントになりつつある。
──子どもが幼児期のころを除けば、住人が家にいる時間というのは、本当に短いのです。
まさにそのとおりである。
念願のマイホームを手に入れる。そのとき人は、住まいが終の棲家として、ほとんど永遠に存在しつづけるかのような思いを無意識にもつ。けれどそれは幻想なのだ。家制度が解体され、核家族の時代になったとき、家族という存在はいずれちりぢりになることを運命づけられている。マイホームで家族が「家族である時間」は、じつは残酷なほど短い。
お手紙の主は、下町育ちだ。
──実家では、家にいるだけで、せねばならぬことがありました。朝の神棚の清めから始まって、家の前の清掃、日除けの出し入れ、打ち水など。ところが自分の家では何の役割も見えてこないのです。生活するというより、住んでいるだけの家、夜だけしか住人が揃わなくて、そのときは皆疲れてる。家族って何だろう。そんなことをずっと考えながらきました。私の父はバブルのころ、下町の商店街の店をたたみ、まだ田畑の残る近郊に引っ越しました。が、しばらくして亡くなりました。そんなに辛くさせたものは何だったのだろうと、また「家」について考えました。
ぼくはこれまで、住まいという空間を通して、そこで営まれる人間開係=家族について調べ、そして考えてきた。多くの人に会い、話をきき、住まいを見てきた。そこでみえてきたのは、けっきょく家族という存在の儚さだった。
家族とは儚いのである。
だからこそ、その短く儚い「家族の時間」は、凝縮した、濃密な、なにものにも代えがたいものでありたい、あってほしいとおもう。
子どもたちが家族を解体する
ところが最近になって、またこれまでとは異なった家族の現実をぼくは感じることになった。それは住まいのなかに人がいても、家族がいないという奇妙な状況の出現である。家族として喜びや悲しみを共有するという一体感はもとより、倦怠や嫌悪さえも喪失した、空白としての住まい、空虚そのものという家族像が出現しつつある。
そうした喪失感、空虚感の源であり、出発点になっているのが、じつは現代の「子どもたち」ではないか。もしかすると、いま家族は子どもたちによって解体されつつあるのかもしれない。そうした予感めいたものから、ぼくは子どもたちに焦点をあてて、あらたに家族を考えはじめた。
人々の行動や思考、あるいは存在のありかたはこの五年で、大きく変わっている。
それを加速させているのがケイタイやパソコンといった「電子ネット」を使ったコミュニケーションである。この新しいコミュニケーション手段によって、家庭では「親子」、学校では「子ども同士」あるいは「教師と生徒」、社会では「子どもと大人」といった関係が土台からゆらいでいる。子どもたちは時代の変化とゆらぎをまっさきに受けとり、その混乱をすぐさま体現する。いまや子どもたちにとって、住まい、子ども部屋は存在基盤のごく一部分にすぎなくなっている。
こうした変化のなかで、子どもたちの姿が深い霧のむこうにかすんで見えてこないのだ。
(藤原智美著「「子どもが生きる」ということ」講談社 p1-4)
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──社会秩序は労働者の家庭生活をほとんど不可能にしている。住むに耐えないような不潔な家は夜の宿としてほとんど役に立たず、家具もがたがたで、しばしば雨漏りがし、暖房もなく、人間でいっぱいになった室内の空気は息苦しく、家庭らしさもない。
夫は一日中働き、おそらく妻や年長の子どもも、みんな別々のところで働き、朝と晩に顔をあわせるだけである──そのうえなお、ジンを飲むという誘惑がいつもある。これでは家庭生活はどこにあるのだろうか?
それでもなお労働者は家族からのがれることはできず、家族のなかで生活をしなければならないので、その結果、家庭の破壊や家庭内の争いが絶えずつづき、このため、子どもにも夫婦にもきわめて悪い影響が生じている。
家庭内の義務をおろそかにし、とくに子どもを放置しておくことは、イギリスの労働者のあいだでは、あまりにもしばしば見られるところであり、また現在の社会制度によってきわめてひんぱんに生じているのである。
そして子どもは、両親自身もたいていその一部となっている堕落した環境で、このように気ままに成長していくのに、大きくなったら立派な道徳的な人物になれというのだろうか? 自己満足しているブルジョアが労働者につきつけている要求は、あまりに無邪気なものである。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 上」新日本出版社 p196-197)
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◎「大きくなったら立派な道徳的な人物になれというのだろうか? 自己満足しているブルジョアが労働者につきつけている要求は、あまりに無邪気なものである」と。