学習通信060119
◎アリストテレスの天才は……
■━━━━━
このカリグラの推理はポップスおよびグロチウスのそれと全く一致する。アリストテレスもまた、すべてこれらの連中より前に、人間は決して生まれながら平等なのではなく、あるものはドレイとなるために、また他のものは主人となるために生まれるのだといったのである。
アリストテレスは正しかった。しかし、彼は結果を原因と取りちがえていたのだ。ドレイ状態のなかで生まれた人間のすべては、ドレイとなるために生まれたのだ、世にこれほどたしかなことはない。
ドレイは彼らの鎖のなかですべてを失ってしまう、そこからのがれたいという欲望までも。彼らがその屈従に甘んじているのは、オデュッセウスの仲間が豚にされて喜んでいたのと同じである。だからもし、本性からのドレイがあるとしたならば、それは自然に反してドレイなるものがかつてあったからである。
暴力が最初のドレイたちをつくりだし、彼らのいくじなさがそれを永久化したのだ。
(ルソー著「社会契約論」岩波文庫 p18)
■━━━━━
最後に展開された等価形態の二つの独自性は、価値形態を、きわめて多くの思考形態、社会形態および自然形態とともにはじめて分析したあの偉大な探究者にまでわれわれがさかのぼるとき、さらにいっそう理解しやすいものとなる。その人は、アリストテレスである。
アリストテレスは、まず第一に、商品の貨幣形態は、簡単な価値形態の、すなわち、なにか任意の他の一商品による一商品の価値の表現の、いっそう発展した姿態にすぎないことを、はっきりと述べている。というのは、彼はこう言っているからである。
「5台の寝台=1軒の家」
ということは、
「5台の寝台=これこれの額の貨幣」
というのと「区別されない」と。
彼は、さらに、この価値表現が潜んでいる価値関係は、それはそれでまた、家が寝台に質的に等置されることを条件とすること、そして、これらの感性的に異なる諸物は、このような本質の同等性なしには、同じ単位で計量されうる量として、相互に関連しえないであろうということを、見抜いている。
彼は言う。「交換は同等性なしにはありえないが、同等性は同じ単位で計量されうることなしにはありえない」。しかし、彼はここではたと立ち止まって、価値形態のそれ以上の分析をやめてしまう。「しかし、種類を異にする諸物が、同一の単位で計量されうることは」、すなわち、質的に等しいということは、「ほんとうは、不可能なことである」。
こうした等置は、諸物の真の性質にとって疎遠なものでしかありえず、したがって、ただ「実際上の必要のための応急手段」でしかありえない、というのである。
したがって、アリストテレスは、彼のそれ以上の分析がどこで挫折したかを、すなわち、価値概念の欠如のためであることを、みずから語っているのである。寝台の価値表現において家が寝台のために表わしている等しいもの、すなわち共通な実体は、なにか? そのようなものは「ほんとうは実存しない」とアリストテレスは言う。
なぜか? 家が寝台にたいして一つの等しいものを表わすのは、家がこの両方のもの、寝台と家とのなかにある現実に等しいものを表わす限りにおいてである。そして、これこそ──人間的労働なのである。
しかし、商品価値の形態にはすべての労働が等しい人間的労働として、それゆえ、等しい妥当性をもつものとして、表現されているということを、アリストテレスは価値形態そのものから読みとることができなかった。
なぜなら、ギリシア社会は奴隷労働を基礎としており、したがって、人間およびその労働力の不平等を自然的基礎としていたからである。
価値表現の秘密、すなわち、人間的労働一般であるがゆえの、またその限りでの、すべての労働の同等性および同等な妥当性は、人間の平等の概念がすでに民衆の先入見にまで定着するようになるとき、はじめて、解明することができる。
しかし、それは、商品形態が労働生産物の一般的形態であり、したがってまた商品所有者としての人間相互の関係が支配的な社会的関係である社会において、はじめて可能である。
アリストテレスの天才は、まさに、彼が諸商品の価値表現のうちに一つの同等性関係を発見している点に、輝いている。
ただ彼は、彼が生きていた社会の歴史的制約にさまたげられて、この同等性関係が、いったい「ほんとうは」なんであるかを、見いだすことができなかったのである。
(マルクス著「資本論@」新日本新書 p101-103)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「彼が生きていた社会の歴史的制約にさまたげられて、この同等性関係が、いったい「ほんとうは」なんであるかを、見いだすことができなかった」と。