学習通信060124
◎その瞬間からのみ……

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 ブルジョアジーすなわち資本が発展するのと同じ割合で、プロレタリアートすなわち近代的労働者の階級が発展するが、近代的労働者が生活することができるのは彼らに仕事があるあいだだけであり、また彼らに仕事があるのは、彼らの労働が資本をふやすあいだだけである。

自分を切り売りしなければならないこれらの労働者は、他のどの売買される品物とも同じように一つの商品であり、したがって同じように、競争のあらゆる転変、市場のあらゆる変動にさらされている。
(マルクス・エンゲルス「共産党宣言」新日本出版社 p60)

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 G─A。賃労働者は、労働力の販売によってのみ生活する。

労働力の維持──賃労働者の自己維持──には、日々の消費が必要である。

したがって、彼がその自己維持に必要な購入──A─G─WまたはW─G─Wという行為──を反復しうるためには、彼にたいする支払いが絶えず比較的短い期限で反復されなければならない。

それゆえ、資本家は賃労働者にたいして絶えず貨幣資本家として、また彼の資本は貨幣資本として、相対さなければならない。

しかし、他面では、直接的生産者すなわち賃労働者の大衆が、A─G─Wという行為をなしうるためには、必要生活諸手段が、購買されうる形態すなわち商品形態で、絶えず彼らに相対さなければならない。

したがって、この状態は、すでに、商品としての生産物の流通が、したがってまた商品生産の程度も、高度であることを必要とする。

賃労働による生産が一般的になるやいなや、商品生産が生産の一般的形態になっていなければならない。

商品生産が一般的であると前提されるならば、こんどはそのことが、社会的分業の絶え間のない増進、すなわちある特定の資本家によって商品として生産される生産物の特殊化の絶え間のない増大、互いに補足し合う生産諸過程の自立的な生産諸過程への分割の絶え間のない増大を、生じさせる。

それゆえ、G─Aが発展するのと同じ度合いでG─Pmが発展する。

すなわち、同じ程度に、生産諸手段の生産が、それらを生産諸手段として用いる商品の生産から分離するのであり、また、この生産諸手段は、どの商品生産者自身にたいしても、彼が生産するのではなく彼が自分の特定の生産過程のために購買する商品として、相対する。

生産諸手段は、彼の生産部門から完全に分離されて自立的に経営される生産諸部門から出てきて、商品として彼の生産部門にはいり込むのであり、それゆえそれらは購買されなければならない。

商品生産の物的諸条件は、彼にたいして、ますます大きな程度に、他の商品生産者たちの生産物として、商品として、相対する。

それと同じ程度に、資本家は貨幣資本家として登場しなければならない。

すなわち、それだけ彼の資本が貨幣資本として機能しなければならない規模が拡大される。

 他方では、資本主義的生産の基本条件──賃労働者階級の定在──を生み出すその同じ事情は、いっさいの商品生産の資本主義的商品生産への移行を促進する。

資本主義的商品生産は、それが発展するのと同じ程度に、あらゆるより古い、主として直接的自家需要を目的として生産物の余剰だけを商品に転化する生産形態にたいして、分解的解体的に作用する。

それは、さしあたり外見上は生産様式そのものを侵害することなしに、生産物の販売を主要な関心事にする──たとえば、資本主義的世界貿易が中国人、インド人、アラビア人などのような諸民族に与えた最初の作用がそうであった。

しかし第二に、この資本主義的生産が根を張ったところでは、それは、生産者たちの自家労働にもとづくか、または単に余剰生産物を商品として販売することにもとづく、商品生産のすべての形態を破壊する。

それは、まずもって商品生産を一般化し、それからしだいにすべての商品生産を資本主義的商品生産に転化させる。

 生産の社会的形態がどうであろうと、労働者と生産手段とはつねに生産の要因である。

しかし、一方も他方も、互いに分離された状態では、ただ可能性から見て生産の要因であるにすぎない。

およそ生産が行なわれるためには、それらが結合されなければならない。

この結合がなしとげられる特殊な仕方によって、社会構造のさまざまな経済的諸時代が区別される。

いま問題の場合には、自由な労働者が彼の生産諸手段から分離されていることが、与えられた出発点なのであり、どのようにして、どのような条件のもとで両者が資本家の手中で──すなわち彼の資本の生産的定在様式として──結合されるかは、われわれがすでに見たところである。

こうして一つに結合された人的および物的な商品形成体が一緒にはいり込む現実の過程、すなわち生産過程は、それゆえ、それ自身、資本の一機能──資本主義的生産過程となるのであり、この資本主義的生産過程の本性は本書の第一部で詳しく説明された。

商品生産を行なうあらゆる経営は、同時に労働力搾取の経営となる。

しかし、資本主義的商品生産がはじめて画期的な搾取様式となるのであって、この搾取様式は、その歴史的発展の進行のなかで、労働過程の組織と技術の巨大な発達とによって、社会の経済的構造全体を変革し、従来のすべての時代を比類なく大きく凌駕する。

 生産手段と労働力とは、それらが前貸資本価値の実存形態である限り、それらが生産過程中に価値形成にさいして──したがってまた剰余価値の生産において──演じる役割の相違によって、不変資本および可変資本として区別される。

生産諸手段と労働力とは、さらに、生産資本の異なる構成部分として、生産諸手段のほうは資本家の所有である以上、生産過程の外部でも依然として彼の資本であるが、労働力のほうは生産過程の内部でのみ個別資本の定在形態になる、ということによって区別される。

労働力は、ただその売り手である賃労働者の手中においてのみ商品であるが、これにたいして、労働力は、その買い手である、その一時的な使用を手に入れる資本家の手中においてのみ資本となる。

生産諸手段そのものは、労働力が生産資本の人的定在形態として生産諸手段に合体されうるようになったその瞬間からのみ、生産資本の対象的諸姿態すなわち生産資本となる。

したがって、人間の労働力が生まれながらに資本ではないのと同じように、生産諸手段もまたそうではない。

生産諸手段は、歴史的に発展した特定の諸条件のもとでのみ、この独自な社会的性格を受け取るのであり、それはちょうど、ただそのような諸条件のもとでのみ、貴金属に貨幣という独自な社会的性格が、それどころか貨幣に貨幣資本という独自な社会的性格が刻印されるのと同じである。

 生産資本は、それが機能するあいだに、それ自身の構成諸部分を消費して、それらをより価値の高い生産物総量に転換する。

労働力は生産資本の諸器官の一つとして作用するにすぎないから、労働力の剰余労働によって生み出される、生産物価値のうちその形成諸要素の価値を超える超過分もまた、資本の果実である。

労働力の剰余労働は資本の無償労働であり、それゆえ資本家のために剰余価値──彼にとってなんらの等価物も費やさせない価値──を形成する。

それゆえ、生産物は商品であるだけでなく、剰余価値を身ごもった商品でもある。
(マルクス著「資本論D」新日本新書 p60-64)

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略語: G…貨幣(Geld) W…商品(Ware) A…労働力(Arbeiter) pm…生産手段(Produktiosmittel)

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◎「近代的労働者が生活することができるのは彼らに仕事があるあいだだけであり、また彼らに仕事があるのは、彼らの労働が資本をふやすあいだだけである」と。