学習通信060127
◎実感が子どものからだに……
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からだをとおして実感をつたえる
いまのしつけは、たいへんむずかしくなったといわれています。それは、昔のように、おとなが一方的にどなったり、たたいたりするしつけのやり方が通用しなくなったからと考えられます。そして、どんなに小さくとも、子どもの気持ちを大切にしながらしつけを考える人びとが多くなりました。
ただし、この子どもの気持ちを大切にしながら子どもを育てるやり方も、現状では、いくつかの混乱がみられるようです。
たとえば、「子どもの立場尊重」という考え方から、一、二歳児のわがままなふるまい、他の子どもに乱暴したり、おとなの適切な助言に耳をかさないなど──にたいしてほとんど放任するおとながいます。そして、こうした行動が積み重なって、どうしようもなくなると子どもの前でオロオロしたり、あるいは、ながながとお説教をする──ことばのよくわからない一、二歳児にとって、このいい聞かせる式のお説教は、あまり効果がありませんし、子どもにとって苦痛です。
では、こうした方法によらず、一、二歳児という小さな子どもと人間的なつたえをするためには、どのような方法をとったらよいか、考えてみましょう。
私どもの実験で、ツイタテの向こう側から、しやべったばあいと、子どもたちの目の前で直接話をしたばあい、一、二歳児の反応をしらべたことがあります。結果は、直接話しかけた方が子どもの理解が深まりました。
つまり、小さな一、ニ歳児が何かを理解していく手がかりとしては、おとなの適切な短いことばとおとなの真剣な表情動作が必要であるということです。
たとえば、一、二歳児は、大きな子どものマネをすることがじょうずです。大きな子どもが高い所に登ってとびおりる遊びをすると小さな子どももマネをし、ケガをするということかあります。こうした危険な遊びを禁止するばあい、ただ、「あぶないよ」と声をかけるだけでは、一、二歳児に通じないことが多いのです。
このような危険をともなう行動を止めるとき、おとな自身もその危険なことを実感としてもち、子どものからだをしっかりとおさえ「あぶない!」と声をかけることの方が、効果がありましょう。
このおとなの実感が子どものからだにつたわり、危険についての判断が子どもの大脳に養われていくのです。このようにからだをとおして、理解を深める方法は、小学校低学年まで必要のようです。
(近藤・好永・橋本・天野「子どものしつけ百話」新日本新書 p70-71)
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自然を観察するがいい。
そして自然が示してくれる道を行くがいい。自然はたえず子どもに試練をあたえる。あらゆる試練によって子どもの体質をきたえる。
苦痛とはどういうものかをはやくから子どもに教える。歯が生えるときは熱をだす。はげしい腹痛がけいれんを起こさせる。いつまでもとまらない咳がのどをつまらせる。虫に苦しめられる。多血症のために血液が腐敗する。さまざまな酵母が醗酵して、たちの悪いふきでものがでる。
幼年時代の初期はずっと病気と危険の時期だといっていい。生まれる子どもの半分は八歳にならないで死ぬ。試練が終わると、子どもにはカがついてくる。そして、自分の生命をもちいることができるようになると、生命の根はさらにしっかりしてくる。
これが自然の規則だ。なぜそれに逆らおうとするのか。あなたがたは自然を矯正するつもりで自然の仕事をぶちこわしているのがわからないのか。自然の配慮の結果をさまたげているのがわからないのか。
自然が内部ですることを外部からするのは、危険を二重にすることだとあなたがたは考えている。
ところがそれは逆に、危険をそれさせ、弱めることなのだ。
経験の教えるところによれば、こまごま世話をしてやって育てた子どものほうが、そうでない子どもよりも死ぬ率がずっと大きい。子どもの力の限度を越えさえしなければ、力をつかわせたほうがつかわせないより危険が少ない。だから、いずれ耐えなければならない攻撃になれさせるがいい。
不順な季節、風土、環境、飢え、渇き、疲労にたいして、かれらの体を鍛練させるがいい。冥府(めいふ)の川の水に漬けるがいい。体に習性がつくまでは、なんの危険もなしにどんな習性でもつけられる。
しかし、ひとたび体が固まってくると、あらゆる変化は危険なものとなる。子どもは大人が耐えられないような変化にも耐える。子どもの線維はやわらかく、しなやかだから、苦もなく、あたえられた襞(ひだ)をとる。大人の線維は固くなっているから、強い力をくわえなければ、すでにあたえられている襞を変えることができない。だから子どもは生命と健康を危険にさらすことなしに、頑丈な体にすることができる。
それに、いくらか危険がともなうとしても、ためらってはなるまい。それは人生についてまわる危険なのだから、いちばん危険の少ないあいだに、それを経験させるほうがいいのではあるまいか。
(ルソー著「エミール 上」岩波文庫 p42-43)
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怒りを感じているあいだだけ人間なのである。
科学的社会主義の創始者の一人となった青年エンゲルスはこういいました。
「労働者は支配階級に対して怒りを感じているあいだだけ人間なのである。労働者が自分たちをしばりつけている首かせを辛抱づよくがまんし、その首かせを自分でこわそうとせずにひたすら首かせをされたままで生活を愉快にしようとしはじめると労働者は動物になる」(『イギリスにおける労働者階級の状態』)
エンゲルスがはじめてイギリスに渡ったのは一八四二年のことでした。それから彼は約二年間、マンチェスターで紡績工場に勤めながら、周辺の工業都市やさらには遠くロンドンにまで足をのばしながら、経済、社会、とりわけ労働者の状態を調査研究しました。それが『イギリスにおける労働者階級の状態』です。ときにエンゲルス二十四歳。ここに引用したのは『状態』のなかの「諸結果」と題している部分からのものですが、彼はここでいったい何をいおうとしたのでしょうか。
この問題をとくためには、そもそも人間とは何か、人間と動物とはどこがちがうのかという点を明らかにしなければなりません。エンゲルスの終生の友であり科学的社会主義の第一バイオリンをひいた(エンゲルスの表現)というマルクスは、次のように述べています。
「クモは織物師の作業に似た作業をおこない、また、蜜蜂はその蝋房の建築によって多くの人間の建築師を赤面させる。しかし最初から最悪の建築師でさえ最良の蜜蜂にまさっているのであって、そのわけは建築師はあなぐらを蝋で建築するまえにすでに頭のなかで建築しているからである」(『資本論@」宮川実訳、あゆみ出版)
つまりクモやミツバチには意識的な労働などというものはなく、ただ本能の命ずるままにそうしているだけなのです。だから彼らには、自分をとりまく環境がどんなに不都合でも、それをあらためるために行動するなどということはありません。こころみにあの朝露にぬれたクモの大きな巣、これを破って見たまえ、そうするとクモはどうする? これはたいヘん、というわけで修繕しますか? それとも逃げますか? 答えはきまっています。
ところが、人間はそうではありません。人間は意識的に自然に働きかけてこれを改造して富をつくりだす力をもっています。人間はまず考える力をつかって自分の頭の中に青写真を描き、そして計画的に働くことによってそれを実現していきます。人間の知恵、それは与えられた環境が自分たちにとって不都合なときには、これをつくり変えて生きることを知っているのです。その点では、自然をつくりかえて富をつくりだす人間のいとなみ、つまり労働そのものが自然とのたたかいだといえるのでしょう。
まして人間が労働するに際しての人間どうしの関係、つまり社会的な諸関係の不合理や不都合を取り除く行動は、変革実践そのものなのです。
つまり、クモやミツバチもその他人間以外の動物はすべて環境に順応して生きるだけです。彼らはそのおかれた環境がどんなに劣悪で不合理なものであっても、それにつき従って生きる術しか知りません。いわば環境順応の生です。
ところが人間は違います。人間は相手が自然であれ、人間社会であれ、それが人間にとって不都合なもの、不合理なものは、これを変革するためにたたかうのです。環境変革の生、ここに人間の人間たる真の値打ちがあるといえるでしょう。
だからあの文豪、ロマン・ロランは『ジャン・クリストフ』のなかで、「人生はたたかいである。目に見える敵、目に見えない敵──あらゆる敵とのたえざるたたかいである」といったのです。
人間が、そして労働者が搾取制度、つまり人間による人間のピンハネという社会の不合理な「首かせ」をされたままで、その「首かせ」を取り除くためにたたかおうともしないで「生活を愉快にしよう」とするならば、言いかえると、与えられた環境に疑問を抱くこともなく、たとえ疑問を抱いたとしてもあきらめてしまって、ただ順応して生きるだけというのでは、クモやミツバチの水準となんら変わりがないということになってしまう、とエンゲルスはいっているのです。
人間のほんとうの人間らしさはたたかうことにあると。たたかうことを知らない人間、それは歌を忘れたカナリヤといっしょです。歌を忘れたカナリヤは、カナリヤの格好はしているけれどももはやカナリヤとはいえないように、たたかうことを忘れた労働者は「動物となるのである」と。
変革のためにたたかう、そこにほんとうに人間らしい生活があります。そして変革の生には青春こそがうってつけです。なぜなら、青春とは人間だけに与えられた生命の輝きに満ちた特有の季節だから。環境に順応して生きるだけの生、そこにほんとうの意味の人間はいないのだとすると、ほんとうの人間として生きる道はどこにあるのでしょうか。
(有田光雄、有田和子著「わが青春の断章」あゆみ出版 p211-214)
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10 誤った考えに妥協しないこと
労働組合は労働者階級の階級的な大衆組織です。階級的ということは、資木家階級に対立する労働者階級の立場のことであり、資本によって搾取され、支配される立場のことです。したがって、労働組合運動を発展させるということは、資本の搾取と支配に反対する運動をたかめるということで、労働組合運動を労資協調路線にはめこむことをいうのではありません。
この見地からすれば、組合員大衆のなかには、いくつかの誤った考え方、たとえば、企業主義、労資協調主義、反共主義、極左冒険主義などいろいろあります。
幹部・活動家は、これらの思想傾向とたたかい、これらの誤った考えを克服しなければ、労働組合を階級的民主的につよめることはできないし、また、労働組合を統一戦線の中心部隊にすることもできません。
幹部・活動家は、組合員の意見にたいしては謙虚に耳をかたむけることは大切ですが、それは、組合の民主的運営を通じて労働組合をつよめるためですから、労働組合をよわめようとする思想傾向とたたかうこととは区別しなければなりません。
そして、誤った思想傾向とたたかうというばあい、大切なことが二つあります。
一つは、組合員のなかに誤った思想をもっているものがいるとしても、誤った思想をよりどころにして、労働組合をよわめる方向にもっていこうとしているものと、労働者階級としての自覚がおくれているために、誤った思想からぬけだすことができないでいるものとを区別することです。そして、この両者にたいしては、彼らが組合員であるかぎりは、ねばり強くその誤りを指摘し、説得的に教育することです。
とりわけ、後者の組合員にたいしては、労働者階級の自覚をもたせることが先決ですから、要求を実現するたたかいと宣伝、そして、ねばりづよい説得が必要です。しかし、誤った思想をよりどころにして、労働組合の団結をよわめたり、破壊しようとする言動とは、事実にもとづいてたたかうことをさけてはならないことはいうまでもありません。
二つめは、組合員のなかにある誤った思想を克服するには、理論と事実をつなげて宣伝し、説得することです。理論水準の低いものに理論だけをもって説得しても、理解がえられない場合が多いからです。
具体的事実は、どんな思想傾向のものであろうと、これを否定したり、歪曲したりすることができません。理論と具体的事実をつなげて宣伝するには、幹部・活動家の理論水準の高さがいっそうつよく要求されます。
(細井宗一著「労働組合幹部論」学習の友社 p48-50)
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◎「理論と事実をつなげて宣伝し、説得すること」と。