学習通信≠O60202
◎「労働学校にいってみないか」……
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いちばん言いたいことは何ですか?
たなか先生へ
今日は、うちの子は休ませるほどではないのですが、ほんのちょっと熱があります。 たろうの母より
これは、保育園児のたろうくんのお母さんが、保育士さんに書いたメモです。
伝わらないというか、他人が見ても、なんだかモヤモヤする文章ですね。なぜでしょう?
このメモには、伝えるために一番必要な「あるもの」がないんです。
答えはあとで。まず、カンタンなワークからやってみましょう!
これからあなたに二つ質間をします。心の中で答えてみてください。
質問1 いまから24時間以内に、あなたが一番やりたいことは何ですか?
質問2 なぜ、それをやりたいのか、私にわかるように説明してください。
できましたか? いま、あなたがやったこと、それでいいんです。それが、機能する話の大原則です。伝わる要件2と3はこれです。
伝わる要件A・B意見十論拠 (=機能する話の大原則)
「意見」とは、「あなたが一番言いたいこと」です。まず、これをはっきりさせる。
「論拠」とは、「なぜ、そう言えるか」、あなたの意見の「理由」や「根拠」です。これを相手にわかるように筋道立てて説明する。
意見と論拠。相手が、「なるほど」と言ったらそこが、ゴールです。
なぜそう言えますか?
「意見」は、自分の中にあるもので、そのままぶつけても他人には理解されません。たとえば、先ほどの24時間以内にやりたいことで、中年の男性がニヤニヤしながら、「私は女子高生と話したい」と言ったらどうですか? 「意見」だけぶつけられても、わからないですよね。
そこで、「論拠=なぜ」の出番です。
その中年男性が、「(意見)私は女子高生と話したい。(論拠)なぜなら女子大の理事長をしていまして、深刻な生徒不足に悩んでいます。女子高生が大学に何を期待しているか、ぜひ聞きたいのです」と言ったらどうでしょう? 聞く側にも、「ああ、そうだったの!」という「納得感」が生まれませんか?
「論拠」は、納得感を生み、相手との間に橋を架けます。
「コミュニケーション、何からどうしたらいいか」という人も安心してください。
実は、「意見と論拠」で、社会生活、学問からビジネスまで、だいたいのコミュニケーションはまかなえるのです。
たとえば、ケンカした友だちにメールを書くときも、「(論拠)メールは込みいった話に向かないから、(意見)会って話そうよ」。まずは、これでいい。
大学入試の小論文も、自分の「意見」をはっきりさせ、「論拠」を筋道立てて説明して、読み手を説得すればいい。これを応用すれば、論文やコラムも書けます。
職場で上司にお願いをするにも、意見と論拠です。「(意見)部長、予算をあと30万上げてください。(論拠)30万あれば、小さい子どもも安心してこのイベントに参加できるからです」
会議で、急に「田中さんの発言について、あなたはどう思う?」と尋ねられても、慌てることはありません。人の発言のどこを聞くか? これも、「意見と論拠」です。田中さんの「意見と論拠」を押さえておき、あなたは、田中さんの意見に賛成か反対か、理由はどうかを答えればいい。「(意見)私は、田中さんのイベント中止という意見に賛成です。(論拠)しかし、理由は田中さんの言う予算の間題ではなく、時流に合わなくなってきているからです」というように。
言いたいことと根拠がしっかりあれば、どこへ出てもおどおどすることはありません。困ったときは深呼吸して、「意見と論拠」と思い出してください。
さて、話は戻って、保育園児たろうくんのお母さんが書いたメモ、どこがおかしかったのでしょうか? 実はこのメモ、「意見」が無いんです。
目指す結果は何ですか?
「え? 熱があるっていうのが意見じゃないの?」と思う人もいるかもしれませんが、これは、状況説明に留まって、意見ではありません。
「ほんのちょっと熱がある」、だからどうなのでしょうか? 「いつものことなのでご心配なく」なのか、「充分注意してくれ」なのか? でも、充分注意ってどうするのでしょう? たくさん園児がいるのに、たろうくんだけ、四六時中見張っているのでしょうか? 食べ物は? 着るものは? 運動は?
「意見」、つまり、言いたいことがない文章は、状況の中で機能しません。
そこで、上のようにしてはどうでしょうか?
たなか先生へ
今日、たろうは微熱がります。この時期よくあることで、心配ないとは思いますが、大事をとって、(=論拠)外での運動のみ休ませてください。(=意見) たろうの母より
いかがですか、意見と論拠で、ちゃんと機能する文章になりました。
私たちが日常で書く、どんな小さなメモにも「読み手」がいて、「日指す結果」があります。これが、4番目の要件です。
伝わる要件C目指す結果
このコミュニケーションをとることで、だれが、どうなったらいいのか? どんな状況を紡ぎ出したいのか? できるだけ具体的にイメージしてみましょう。
たとえば、やかんに欠陥があってやけどしそうになった。メーカーに苦情の手紙を書く。こんなとき、まさか、「まとまりのある、おしゃれな文章が書けた」で満足する人はいないと思いますが、「言ってやってスカッとした」でも、まだ足りません。どうしたら苦情担当の窓口ではねられず、作った人のところまであげてもらえるか。そして、会議に採り上げてもらい、次の商品作りに生かしてもらえる、そういう手紙が書ける人が、コミユニケーションの達人です。
就職の志望理由書も、文章がうまいと褒められるために書くのではありません。目指す結果は、面接官に「一緒に働きたい」と思ってもらって採用されることです。お見舞いの言葉は、相手の回復力を生かすことを願って伝えます。
結果を出しましょう!
ポイントは、相手の心が動くことです。人の心が動けば状況は動いていきます。あなたの言葉によって、相手の心が、ほんのちょっと動くことを目指してみてください。「なるほど!」と俯に落ちる。「そうそう!」「いいね!」と目を輝かせる。「ほー、そんな考えもあったのか」と驚く。
そうした、納得・共感・発見などを通して、相手の心を動かし、目指す結果を切り拓いていける、そんなコミュニケーションの達人を目指しましょう。
(「NHK 日本がなるほど塾 05年4/5」日本放送出版協会 p11−17)
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みなさんは、あのメーデー歌の一節に
汝の部署を放棄せよ/汝の価値にめざむべし/全一日の休業は/社会の虚偽をうつものぞ」
というのがあるのをご存知でしょう。「汝の価値」というのは、労働者階級こそやがてくる新しい社会のにない手であり、そのためにたたかうすばらしい階級だという意味です。
そして「めざむべし」というのは、自覚しなさいということです。だから両方あわせて労働者階級として自覚しろ、という意味になります。ところがこの「めざめる」というのがなかなか簡単ではありません。まず労働者の階級的自覚とはいったいどんなことなのでしょうか。
レーニンは労働者の階級的自覚について三つの要素をあげています。
その一つは階級闘争の必要性を理解しているかどうか、二つめに社会階級の一員としての自覚があるかどうか、そして三つめには国政革新をめざす意欲と決意、わかりやすくいうと、こういうことになるでしょう。
もちろん、こうしたものは、ほおっておいても一人でにわかるようになる、などというものではありません。たとえば、いま日本の労働者階級は約四千二百万人(一九八三年)、しかも、自分はその四千二百万分の一なんだなどという意識、これは活動をやっていれば学習しなくても一人でにつかめるようになるなどということは絶対にありません。
そうです、労働者の自覚というのは、レーニンが強調したように「社会主義的意識はプロレタリアートの階級闘争のなかへ(外部から)もちこまれた或るものであって、この階級闘争のなかから(原生的に)生まれてきたものではない」のです。
労働者が階級的に自覚するには、自覚するだけの素地があるのですが、そこに何かのきっかけであるものを注ぎこむことによって「めざめ」がはじまるのです。
それは、現実にいろいろな場合を見聞きすることができるのではないでしょうか。たとえば、すばらしい先輩、友人、兄弟、あるいは先生とか、いろいろな人から、「おい、労働学校にいってみないか」とか、「おい、この新聞すごく面白いしためになるぞ、読んでみないか」とか、かならず何かのきっかけがあって、そのきっかけがもとで科学的社会主義に接近する、そういうさまざまなすじ道があるはずです。
私の場合もそうでした。当時まだ十代後半の私はある友人といっしょの下宿生活でした。ある日、近所の銭湯からの帰り道のこと、「おい! 唯物史観知ってるか?」と聞かれても、なんにも答えることができませんでした。そこで私はすぐに近所の本屋に行って、はじめて手にしたのが、住谷悦治著『社会科学の基礎理論──唯物史観の解説』という二百頁ほどの小さな本でした。いまでも私の本棚の一隅にあるこの赤線でいっぱいの小さな本こそ、私がはじめて手にした科学的社会主義の本だったのです。こうして私の科学的社会主義の理論とのつきあいがはじまりました。
それは低いものから次第に高いものへ、未熟なものからだんだんに熟したものへと前進発展していきました。
十九世紀の空想的社会主義は「資本主義のもとでの賃金奴隷制の本質を説明することも、資本主義の発展法則を発見することも、また新しい社会の創造者となる能力をそなえた社会勢力を見いだすこと」もできませんでした。そういう歴史的な限界をはじめからもっていたのです。
マルクス、エンゲルスの科学的社会主義の理論はこの限界をのりこえたところにあり、それは人類の認識の発展を意味するものでした。こういう人類的な認識発展は、個人の認識の歴史のうえでも、私たち一人ひとりの認識の発展という形でおこりうることです。空想から科学へ、それは私たち自身の体験でもあります。
私たちははじめから社会の発展についての科学的な見方を身につけているわけではありません。はじめはばく然とただよりよい政治や社会をもとめるという意識でしかありませんでした。が、こういう最初の出発点からでて、いろいろな経験や学習をへて、科学的なものの見方や考え方を身につけていくのです。
だから何もあせることはありません。どんな人でもはじめから立派な理論家だったわけではないのです。ねばり強く自分で努力するかどうかの違いです。その努力、そこにはかならず成長と発展があることでしょう。
(有田光男、有田和子「わが浅春の断章」あゆみ出版社 p241−243)
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◎「納得・共感・発見などを通して、相手の心を動かし、目指す結果を切り拓いていける、そんなコミュニケーションの達人」と。