学習通信060206
◎ありのままの……

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「○年生向き」は信用できるか?

 このごろ子ども向きの本の帯などに、こんなことばが書いてあります。「読んであげるなら四歳から、自分で読むなら三年生まで」これを見て、買い手はどう考えるでしょうか。「うちの子は三歳半だけど、理解力があるようだからこの本を買おう」「うちのは三年生で、ちょうどいいと思うけれど幼児といっしょでは……」

 だが、教師ともなると「はてな?」と思います。幼稚園や保育園の読書に熱心な先生は、「今の小学校では、どうしても教科の勉強が中心になりがちで、教科書以外の本を積極的に読ませようとはしていないようだ。だから園にいるうちに、よい本にできるだけふれさせよう。小学校低学年向きとされている本だって、幼児にもわかるんだから」と考え、また小学校の教師は、「文字が読める、読めないだけの問題ではなく、生活経験や情緒などの発達段階を考えて本を選ばなくてはいけない。幼児と小学生をいっしょに考えられては困る。四歳と六、七歳のちがいは大きいのだ」と考えるでしょう。

 それはさておき、具体的に問題になった一さつの本について考えでみましょう。『いやいやえん』(中川季核子作・福音館)をご存じのかたは多いと思います。しげるという、四歳の男の子が主人公です。しげるは元気ハツラツ、なかなかのきかん坊です。チューリップ保育園では、きまりを破ってばかり、うちでは何でも「いや、いや」の連発です。とうとうおかあさんと先生が相談しで、「いやいやえん」に入れてしまいます。

 この話を読んだり、読みきかせてもらったりすると、子どもたちは大いに共感して、解放感を味わったり、自分と同じところがでてくるとはずかしがったりで、しまいには主人公のしげるが大好きになってしまいます。この本が世にでたときは、これまでの児童文学の殼を見事にうち破った作品として高く評価されました。

 人間は、ともすれば自分(あるいは他人)のつくったワクに自分をあてはめ、自分で考えることをせず、古いしきたりやきまりに支配されがちです。そして、おとなは自分のワクを子どもにまでおしつけようとしがちです。しげるは、はじめてはいった子どもたちの社会のなかでぶつかりあい、つまづくなかで、自分で生きていくための知恵や集団生活のルールを身につけていきます。

この過程は、人間が原始時代から今日までたどってきた、社会生活の歴史にかようものがあります。また主人公しげるは、まさにヤンチャ坊主の典型です。そして、かれは試行錯誤をくりかえしながら創造的に伸びていこうとする、幾百万の子どもたちの欲求を代表しているということができます。

 この『いやいやえん』をめぐって、ある研究会で論争がおこりました。主人公が四歳だから幼児の(読みきかせの)本だという意見と、三年生の腕白時代にヒッパリダコで読まれるから三年生の本だという意見とがいつも対立しました。けっきょく何年生の本だなどときまった本はない、よい本は何年生でも感動するんだという意見におちつきました。子どもの本にたいするこの姿勢は、非常に積極的で自主的です。しかし、それだけでよいのでしょうか?

 ここでたいせつなのは、子どもがよろこぶとか、わかるとかいったばあい、どのようにその作品をうけとめているかという感動の内容をたしかめることです。

@本になじめない子を本にひきつける要素をもっているもの
A世の中のひずみによる圧迫から、子どもの心を解放させるもの
B時代や国境をこえて、万人の心につうじる普遍的な感動をふまえたもの

 一般に感動といわれるなかには、少なくともこれらの要素のいずれかがふくまれているといってよいでしょう。わたしたちは子どもの発達段階、環境、読書経験などを正しくみきわめ、同じ感動といってもそれがどのような内容のものかを、正確に認識するよう心がけたいものです。『いやいやえん』が四歳の子どもにも、七歳の子どもにも感動をあたえるといっても、その内容はおのずから異なるはずです。

 もちろん、子どもの発育歴や発達の程度などはさまざまですから、「何歳向き」などとはじめからきめてかかることができないことは当然です。しかし多くの子どもと接していると、本をとおして共通の年齢の子どもにある共通したものを発見できます。

それらをとおして、わたしは『いやいやえん』はやはり幼児期に最適と考えています。わたしたちは子どもに本を買いあたえるばあい、無責任な標示にとらわれず、まず自分の子どもにあたえてみるという立場から、自主的に判断するようにしたいものです。(M)
(代田昇編「子どもと読書」新日本新書 p96-99)

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仲間は信頼できるか

 この本の一番はじめに出てきた、いくつかの組合づくりの経験にもあるように、労働者は表面的に見るかぎり、なかなか信頼できそうに思えません。仲間のカゲ口をいいあったり、おたがいに足をひっぱりあったり、職制にゴマをすったりということは、労働組合のない職場や、労働組合がほんとうに労働者一人ひとりの利益を守ってたたかっていない職場では、ふつうに見られることです。

 しかし、それが労働者のほんとうの姿でしょうか。多くの仲間たちの経験がしめしているように、そうした仲間たちも、おたがいの不満や要求がはっきりし、その原因がわかってくるにつれて、やがて信頼しあい、団結して立ちあがっていくのです。

 労働者が、おたがいに足のひっぱりあいをしているのは、労働者の本性から出たものではなく、まず第一に、資本家が労働者のなかに意図的にもちこんでいる競争によるものです。資本家は、労働者を団結させないために、賃金や昇格・昇進など差別をもちこんで競争させ、労働者どうしの対立をあおり、バラバラにして支配するのです。

 第二に、資本主義のもとでは、学校教育や新聞、放送なども基本的には資本家の支配のもとにあり、それらをつうじて資本家にとってつごうのいい考え方をたくみに労働者にうえつけるうえに、企業内でも、社内報や研修などで思想攻撃をおこなっていることによるものです。

 しかし、資本家がどれほど巧妙に労働者をごまかしていても、資本家が労働者を搾取しているという事実は、やがて労働者の不満や要求となってあらわれざるをえません。わたしたちは、こうした不満や要求が仲間たちと共通のものであることを知り、それを解決するために仲間と団結してたたかうなかで、はじめて自分のなかにひそんでいる労働者としてのほんとうの姿を見出していくことができます。ここに、わたしたちがおたがいに労働者として信頼しあえる根本問題があるのです。

 それでは、労働者のほんとうの姿、労働者階級のすぐれた資質とはどんなものでしょう。

 それは第一に、労働者階級は資本主義の発展のなかで、その「数」がますます多くなり、資本主義をなりたたせている生産力のにない手となっていますが、同時に未来の社会(社会主義・共産主義社会)の生産力のにない手となるということです。

 第二に、その労働者は資本家によって、いやおうなしに工場、企業という組織に組みこまれ、機械にむすびつけられ、規則によって規律ある組織的な生産労働に従わせられます。このことによって、労働者は、多数が団結して規律ある組織的な行動をとることができる能力を身につけていくようになるのです。

 第三に、資本家によって、一つの工場、事業所に幾十、幾百、幾千という労働者が集められているわけですから、労働者が団結しようとすれば、いつでも団結できるように、この条件を生かすことができます。

 第四に、資本家は生産の過程につぎつぎと最新の科学技術をとりいれます。労働者はこうした技術を使いこなせなければなりませんから、高い水準の科学的知識を身につけさせられますし、そうした資本家の必要からも(もちろんそれだけの理由ではありませんが)、子供のときから学校で教育されます。

また、多くの事業所は都市にあるために、労働者も都市に集中して住んでいますから、政治、経済、社会問題に目を開き、啓蒙される機会にめぐまれています。こうして、現代の労働者は、真理を見ぬく力をもったすぐれた階級に育ってきているのです。

 第五に、資本家は、労働者が団結すると、これをきりくずそうとして、さまざまな攻撃をしかけてきます。そこで労働者はきたえられ、新しい未来をきりひらくために不屈にたたかいぬく力を養うことができ、またその指導勢力となることができるのです。

 労働者を団結させることができるのは、もちろん、みなさんのような自覚した活動家の努力の結果でもありますが、より根本的には、仲間の一人ひとりが、労働者階級の一員として、以上のような資質を身にそなえているからにほかなりません。

 労働者を団結させる上でわたしたち活動家の重要な役割は、そうした労働者階級の資質が表面に現れるのをさまたげている資本家の攻撃──それは、直接的なものだけでなく、新聞やテレビや、習慣として日常生活のなかでくりかえされる資本家につごうのよい考え方──をいかにしてとりのぞくかということにあります。

 仲間の表面的な言動で一喜一憂することなく、そうした、ありのままの仲間の状態をしっかりとらえ、そのなかから、仲間の要求は何か、団結のさまたげをとりのぞくのにどんな方針が必要かを考えなければなりません。

 そのためには、わたしたちが、仲間にたいして、仲間が労働者階級の一員であり、すぐれた資質の持ち主であることに、しっかりとした信頼をおくことが、何よりも大切です。
(中森謹重、後藤耕三著「労働組合の基礎知識」学習文庫 p131-135)

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プロレタリアと共産主義

 共産主義者はプロレタリアー般にたいしてどのような関係にあるか?
 共産主義者は、他の労働者諸党に対立する特殊な党ではない。

 彼らは、プロレタリアート全体の利害から切りはなされた利害をもたない。

 彼らは、プロレタリア的運動をその型にはめようとする特殊な諸原則をもたない。

 共産主義者が他のプロレタリア的諸党から区別されるのは、ただ、彼らが一方では、プロレタリアの種々の国民的闘争において、プロレタリアート総体の共通で国民性から独立した利害を強調し、かつ主張するということによって、他方では彼らが、プロレタリアートとブルジョアジーとのあいだの闘争が通過する種々の発展段階において、つねに運動総体の利益を代表するということによってだけである。

 それゆえ、共産主義、実践的には、すべての国々の労働者諸党のもっとも断固とした、絶えず推進してゆく部分であり、理論的には、共産主義者は、プロレタリア的運動の諸条件、経過および一般的諸結果にたいする見通しを、プロレタリアートの他の大衆よりもすぐれてもっている。

 共産主義者の当面の目的は、すべての他のプロレタリア的諸党の目的と同一である。すなわち、プロレタリアートの階級への形成、ブルジョアジー支配の転覆、プロレタリアートによる政治的権力の獲得である。

 共産主義者の理論的諸命題は、あれこれの社会改良家が発明または発見した諸理念、諸原則にもとづくものでは決してない。

 それらは、存在している階級闘争の、われわれの目の前で行なわれている歴史的運動の、事実的諸関係の、一般的な諸表現にすぎない。
(マルクス、エンゲルス著「共産党宣言」新日本出版社 p71-72)

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◎「仲間の表面的な言動で一喜一憂することなく、そうした、ありのままの仲間の状態をしっかりとらえ、そのなかから、仲間の要求は何か、団結のさまたげをとりのぞくのにどんな方針が必要か」

◎「プロレタリア的運動をその型にはめようとする特殊な諸原則をもたない」