学習通信060208
◎目立ちたいって……

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注目される人になりたい?

 みんなの中に、「おとなになったら、まわりから注目される人になりたい!」って思ってる人いる?

「えー、目立ちたいってこと? そんなこと思うのって、イヤな人なんじゃない?」って言わないで。自分のことをたくさんの人に知ってもらいたい、自分の仕事をみんなに見てもらいたいと思うのは、悪いことじゃないはず。

 でも問題は、「なにに注目してもらいたいか」ということだと思う。

 私の知りあいに、ベストセラーを連発している小説家がいる。その人が書くものは、日本中の何十万人もの人に愛されていて、作者である彼女自身の注目度も抜群。雑誌やテレビからインタビューを申し込まれることも多い。「注目されたい」と思っている人から見れば、「うらやましいー。あの人みたいになりたーい」というような存在だ。

 ところがあるとき、おしゃべりをしていると彼女は言った。「みんな、私の書く本を必要としているのであって、私自身を必要としている人は、だれもいないのよねえ。極端な話、私が書くようなものとまったく同じものを、別の人が書いたってだれも気づかないわけでしょ? なんだかむなしくなっちゃうなあ」

 私は、「でも、あなたはだれかに必要とされるために本を書いてる、ってわけでもないでしょ? 自分が本当に書きたい小説を書いているんだから、幸せじゃないのかな」と言った。すると彼女の答えは、「そうなんだけどねぇ。わがままな話に聞こえるかもしれないけれど、世間から注目されればされるほど、なんか違う≠チて思っちゃうんだよね。だれも本当の私のことは見ていない。何十万人にも読んでもらってるのに、孤独だなんておかしいよね。もう小説家なんてやめちゃおうかなあ」

 そう、注目されることってつらいことみたいなのだ。多くの人の視線をあびればあびるほど、逆に「だれも本当の私を見ているわけじゃない」って思うようになる。そう考え始めると、まわりにいる友だちや家族のことまで、「この人たちだって、本当に私のことを思っていてくれるんだろうか?」と疑うようになって、ついには「もう注目なんてしてほしくない!」となっちゃう……。

 でもきっと、そこで「いや、注目されてもされなくても関係ない。私はこの仕事が好きだからやっているんだ」と思うことができれば、また立ち直れるはず。その小説家も、あれこれ迷っていたけれど、結局、これまでとは違う、ちょっと地味な小説を書き始めた。「そう、これが私が本当にやりたいことだったんだ」って気づいたんだね。

 「注目されたいー」って夢いっぱいの人は、「本当にやりたいことはなに?」ってもう一度、自分に聞いてみてはどうだろう。

□ 目立つのは好きですか
□ 二四時間、目立ち続ける生活はどう思いますか
□ もし目立つとしたら、なにをして目立ちたいですか
(香山リカ著「10代のうちに考えておくこと」岩波ジュニア新書 p18-20)

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風ぐるま

 民間の教育研究機関が東アジアの主要五都市の母親を対象にした調査で、意識に違いがあることが浮かび上がりました。

 ▽……昨年三〜六月、東京、ソウル、北京、上海、台北で、三〜六歳児の保護者約六千人に実施。

 「子どもにどんな人になってほしいか」を聞いたところ、東京以外の四都市では「家族を大事にする人」が断然トップでした。東京では「友人を大切にする人」(74・5%)、「他人に迷惑を掛けない人」(71・0%)がこれを上回りました。

 ▽……ソウルでは「リーダーシップのある人」(46・8%)の比率が高く、上海の母親は「尊敬される人」(43%)を望んでいました。
(「しんぶん赤旗」2006.02.08)

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飯島きみ(1912〜1936年)
モスクワで演説した婦人労働者

 「飯島きみさん」といえば、コンパクトに「闘争」「死」と刻み、野蛮な拷問に屈せずに獄中でたたかい、その生き方を誇りたかくつらぬいた女性としてよく知られています。

十六歳でストライキ指導

 その飯島きみさんが、東京モスリンの亀戸工場に働くようになったのは、一九二七年の十五歳のときでした。

 当時、日本の国民は、絶対的権力をもつ天皇制のもとで、いっさいの自由が奪われ、労働者は全くの無権利な状態におかれていました。なかでも紡績工場の過酷な労働実態はかごの鳥より監獄よりも寄宿舎住まいはなおつらい=i『女工哀史』細井和喜蔵著)とうたわれたほどでした。

 貧しい家庭で育ち、十三歳で女中奉公に出たきみさん。彼女は、寄宿舎住まいで同じような境遇にある十代の働く若い仲間と出会います。

 一九二五、六年頃から、解雇、賃下げに反対、労働条件の改善などの要求をかかげた労働者のストライキや、小作料の減免、耕作権の確立を要求した農民の小作争議が各地で大きく発展していました。

 きみさんの働いていた東京モスリンの職場にも労働組合がありましたが、労資協調の労働組合でした。しかし、労組の青年組織「関東青年前衛隊」には、無産青年同盟員がいて、若々しい戦闘性と正義感にあふれて、活動していました。

ちょうど、一九二六年八月に、日本労働組合評議会に結集した青年活動家を中心に全日本無産青年同盟が結成されて、全国各地で、進歩的、革命的青年がそのよびかけにこたえ参加(二七年十一月には全国三十八府県支部、同盟員一万人をこえた)したのでした。きみさんも学習会や懇談会にさそわれ、「無産者新聞」の読者になりました。

 そしてその一年後の八月に、賃上げ要求をかかげたストライキがたたかわれたとき、五百名の女性たちの寄宿舎での団結とたたかいを指導したのがきみさんでした。工場の機械をとめ職場に戻れ≠ニいう職制や組合幹部の説得に応ぜずに、寄宿舎にひきあげていった若い女性たちのなかに目のパッチリした十六歳のきみさんの姿が想像されます。

 負けずきらいの気性で学習していたきみさんの事が伝えられていますが、昼夜十一時間勤務のあいまに学習する、その努力は並々ならないものだったでしょう。学習とたたかいを通じて急速に労働者として成長していったのです。

 そして、きみさんが共産青年同盟(共青・民青同盟の前身)に加盟し、共産党に入党したのは、一九二九年四月十六日、日本共産党中央委員をふくむ三百人を治安維持法違反で検挙した、いわゆる四・一六弾圧の直後でした。非合法におかれていた党、厳しい弾圧がくりかえされている時に敢然と共産党員として生きる道を選択したきみさん。十七歳でした。

 その後、きみさんは工場内の党員が検挙されたあとをうけついで細胞(現在の支部)の責任者となります。細胞新聞「羊の毛」の発行、労働者と結びつきそのなかに深く根をはった党づくりに努力していきます。

 国際舞台で初の婦人代表

 飯島きみさんの活動を語るとき婦人の立場からの果たした役割の大きさをみのがせません。

 一九三〇年八月にモスクワでプロフィンテルン(国際赤色労働組合−全協が加盟)第五回大会が開かれました。この時、紺野与次郎さん(衆議院議員、党東京都委員長、故人)を団長とする日本代表団の一員となり、繊維産業で働いていた婦人労働者の代表として演説をおこないます。この年の九月二十七日付「無産青年」に日本婦人代表の演説(要旨)≠ェ掲載されています。

その内容は「日本の労働婦人の組織は未だ非常に微弱」で、資本家の搾取を欲しいままにさせている、「繊維工業では八〇%即ち八十万人に上り主として若年の婦人である、これらの婦人労働者の賃金は非常に低く男子労働者の半分である」などと婦人労働者の実状を紹介しながら、婦人の活動を指導し正しい方向へ導くことの重要性、国際連帯を強調するものになっています。「無産青年」はこの号から婦人欄を創設し、婦人労働者の独自の組織化を重視していったのでした。

 また、『太平洋労働者』(プロフィンテルン機関誌の日本語版)一九三〇年十月号には紡績産業に働く労働婦人に向って≠ニ題する、殿田みさをペンネームの飯島きみさんの文章が載っています。

 プロフィンテルン第五回大会に出席して、当面している経済危機の性格、ロシアの社会主義建設を知ることができたこと、そして労働組合が未組織労働者の組織、経済闘争の指導等々をどのように進めるのかを知り「紡績企業に働く労働婦人は当面何を要求し勝取らねばならぬか?」と寄宿制度の廃止や七時間労働制などの七項目を明らかにし、婦人労働者にたたかいをよびかけたのでした。

 各国の青年や婦人のたたかいを学んで帰国したきみさんは、婦人部担当岩田義道のもとで共産党中央婦人部の任務につきます。当時の「赤旗」には「即時婦人部を設置せよ!」(第四八号)「革命的婦人運動の発展に就て」(第五二号)「党婦人部の独自的組織活動の領域に就て」(第五三号)の記事につづき、第六一号には「『決定』に忠実たれ! 直ちに婦人部活動を開始せよ」と婦人労働者を積極的に組織するために党、共青、全協、全農などに婦人部をつくり、活動の強化を訴えています。

 この頃の「赤旗」では未組織で低賃金にある婦人労働者が婦人の要求をかかげ、戦争反対のたたかいをすすめるようよびかけています。今、党中央の婦人・児童局の一員として活動している私にとって、飯島きみさんがいっそう身近な先輩に感じるのです。

 こうして私が飯島きみさんの足跡をたどってくるなかで驚嘆(きょうたん)したのは、ぐんぐんつきすすむようなめざましい成長の姿でした。十五歳で女工となり、翌年にはストライキ指導、十七歳で入党し、その翌年は、モスクワの国際会議、二十歳で中央の婦人部……まさに一年一年を力いっぱい活動し、生きる輝きにみちています。

 だからこそ、その生命がわずか二十四歳で絶たれたことの悔しさが私の胸を剌すのでした。

 きみさんは、一九三三年五月二十一日、共青神奈川地方組織の再建活動のなかで検挙されたのでした。検挙後、市ケ谷刑務所に移されます。獄中生活のなかで肺結核になっても病舎にも入れられず、きみさんは、二十四歳の誕生日を迎えた翌日に獄死したのでした。その遺品のコンパクトに刻まれた「闘争」「死」の文字。共産党員として生きぬく決意をみる思いです。

 飯島きみさんは、共青創立五〇周年におこなわれた宮本委員長(当時)記念講演で、侵略戦争に敢然と闘った不屈の先輩たちの一人として紹介されました。

 生きぬくためにこそ節を曲げずにたたかったきみさんについて──

 「獄中で病気にかかると、既決と未決のちがいはありますが、敵は『転向』すれば『処遇』をよくする、早く出してやる、場合によっては病院にいれてやる、こういう取引きをかならずやってきます。もちろん、ただ肉体的に生きるだけなら、それが人間の目的なら、そういう取引きに応じることも可能でありましょう。

しかし、生きぬくことは、自分がはいった日本共産党の理想、共青の理想、──日本の暗黒な社会を変革し、新しい日本をつくるのだ、こういう確信をもっているかぎり、よい『待遇』や釈放を条件に、その真理をすてるということは、いわば動物的に生きるということだけになるのです。

もちろん、これらの同志は若かった。生きたかった。たたかいぬきたかった。生きてたたかいぬきたかった。しかし、どれい的な生き方をするよりは、運命を敢然と、まともにうけて進むのがこれらの人の生き方だったのであります」(「不屈の伝統を発展させ日本青年の大きな希望に」一九七三年四月)と話されました。

 私はいまあらためてこの時の講演を鮮明に思いだしています。
(広井暢子著「女性革命家たちの生涯」新日本出版社 p51-57)

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◎「生きたかった。たたかいぬきたかった。生きてたたかいぬきたかった。しかし、どれい的な生き方をするよりは、運命を敢然と、まともにうけて進むのがこれらの人の生き方だった」と。