学習通信060209
◎資本主義的蓄積の絶対的・一般的な法則……

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潮流

 三日は節分です。立春を翌日にひかえ、季節を分ける節分。
もともとは、中国の「一陽来復」の考えにもとづきます

▼冬がすぎ、また春がめぐってこようとしている。人にあっても、苦しいときが去り、幸福が開け始める……。幸せをよびこみ、邪気を追いはらおうと、「福は内、鬼は外」の豆まき行事が始まりました

▼もちろん、幸せへの願いは、現実とぶつかります。首相が「格差がでるのは別に悪いこととは思っていない」といい放つような国では、なおのこと。格差の広がりとは「誤解だ」と語っていた小泉首相。事実はおおい隠せず、「悪くない」と開き直りました

▼首相は、「成功者をねたんだりする風潮をつつしまないと、社会は発展しない」とものべています。ここで「成功者」とは、「六本木ヒルズのホリエモン」のような人です。金もうけにたける「勝ち組」が力を得るさまが「社会の発展」なら、いかにもさびしい

▼社会の発展といえば、人類は長い間、自由・平等を求めて努力してきました。国連の人権宣言はうたいます。「すべての人間は、……尊厳と権利について平等である」。そう、格差社会・日本で「フリーター」とよばれ、奴隷のように働かされる若者たち。彼らの生活のどこに、人間の尊厳や権利が輝いているでしょう。大企業のリストラ支援などで尊厳や権利をうばい、社会の発展を逆転させてきたのが、小泉「改革」ではないか

▼豆まきで、こんなかけ声がきかれるかもしれません。「鬼は外、小泉さんも外」
(「しんぶん赤旗」2006.02.03)

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『デモクラーティッシェス・ヴォッヘンブラット』に掲載された『資本論』第1巻書評

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 われわれは、よりいっそう理論的な興味のある一連のそのほかのたいへんすばらしい研究をとばして、もう資本の蓄積または集積を扱っている最後の章にだけ向かおう。

ここでは、なによりもまず、資本主義的生産方法、すなわち、一方の側では資本家、他方の側では賃労働者によってもたらされた生産方法が、資本家のためにその資本を絶えず新たに生産するばかりでなく、また同時に労働者の貧困をもくりかえし生産する、ということが、こうして、一方の側では、いっさいの生活手段、いっさいの原料、いっさいの労働用具の所有者である資本家が絶えず新たに存在し、他方の側では、せいぜいのところ、自分を労働可能な状態に維持し、かつ、労働可能なプロレタリアの新世代を育成するのにやっと足りるだけの量の生活手段と引き換えに、自分の労働力をこれらの資本家に売ることを余儀なくされている労働者の大群が絶えず新たに存在するように配慮されている、ということが証明されている。

だが、資本はみずからを再生産するだけではない。

それは絶えず増加され増大される、それとともに労働者という無所有な階級にたいするその権力も増大する。

そして、資本そのものが絶えず増大する規模で再生産されるのと同じように、近代的な資本主義的生産様式もまた、絶えず増大する規模で、絶えず増加していく数で、無産の労働者の階級を再生産する。

「資本の蓄積は、拡大された規模での資本関係を、一方の極にはより多くの資本家またはより大きな資本家を、他方の極にはより多くの賃労働者を、再生産する。……したがって、資本の蓄積はプロレタリアートの増加である」。

だが、機械の進歩によって、改良された農耕等によって、同一量の生産物を生産するのに、絶えずより少ない労働者しか必要とされないのだから、この改善すなわちこの労働者のこの過剰化は、どんな増大する資本よりも急速に増大するのだから、この絶えず増大する数の労働者はどうなることであろうか? 彼らは産業予備軍を形成する。

予備軍は、悪いまたは中位の景気のあいだはその労働〔力〕の価値以下を支払われる、また不規則に雇用される、それとも公的な貧民救済に帰する。しかし予備軍は、事業のとくに活発な時期には、イギリスで明白であるように、資本家階級にとって不可欠なものである。

──だが予備軍は、どんな事情のもとでも、規則的に雇用されている労働者の抵抗力を破砕して、彼らの賃銀を低く抑えておくことに役立つ。

「社会の富……が大きくなればなるほど、それだけ相対的過剰人口(過剰な人口)あるいは産業予備軍が大きくなる。〔……〕しかし、この予備軍が現役の(規則的に雇用される)労働者軍と比べて大きくなればなるほど、固定的(恒常的)過剰人口、すなわちその貧困がその労働苦に反比例する労働者諸層がそれだけ大量的となる。最後に、労働者階級中の貧民層と産業予備軍とが大きくなればなるほど、公認の受救貧民がそれだけ大きくなる。これこそが資本主義的蓄積の絶対的・一般的な法則である」
(エンゲルス著「『資本論』書評」新日本出版社 p176-177)

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 社会主義的変革の中身に入る前に、社会主義に向かって前進する必然性がどこにあるのか、という問題を、ここで考えてみたい、と思います。これは、私たちが共産主義者だから自分の理想の実現を願っている≠ニいうだけの、主観的なものではけっしてありません。私は、二一世紀の世界と日本の現実そのもののなかに、人間社会のそういう前進を必然とする条件が成熟しつつあることを、確信しています。

 もともと、資本主義社会を徹底的に研究して、この社会の体制そのもののなかに、人びとを社会主義革命に向かわせる必然性が存在することを、「科学の目」で証明したのは、マルクスでした。マルクスは、『資本論』での研究をそのことの証明にあてたのですが、そのさい、彼が指摘したのは、大きくいって、次の二つの問題でした。

 一つは、資本主義社会の推進力をなす利潤第一主義が、一方では、社会的生産の担い手である労働者階級にたいする搾取と抑圧の増大、他方では、資本家階級、とくに巨大資本家の手中への富の集中、この二つの極への社会の分化を必然の傾向としており、貧富の社会的な格差の増大にもとづく社会的な矛盾の成熟が避けられないことです。
(不破哲三著「新・日本共産党綱領を読む」新日本出版社 p354-355)

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──「成功者をねたんだりする風潮をつつしまないと、社会は発展しない」とものべています。ここで「成功者」とは、「六本木ヒルズのホリエモン」のような人です。金もうけにたける「勝ち組」が力を得るさまが「社会の発展」なら、いかにもさびしい──