学習通信060215
◎「相手理解」……

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 さて、問題は認識したことが正しいかどうかだ。それはどうしたら分かるのだろう。

 「哲学者たちは、これまで世界をいろいろ解釈したにすぎない。肝心なことは世界を変革することだ」。これはマルクスのことばだ。人間の特徴は、世界に働きかけ変革するところにある。そのためには働きかける対象を正しく認識しないことにはその働きかけ、つまり実践は徒労に終わる。

 自然に働きかけて、生活に必要なものを作りだす労働も、社会をよくする運動も広い意味で実践だ。実践して思いどおりになれば、その認識が正しかったと確信できる。実践しても思うようにいかず、困難にぶつかり、いかに自分が分かっていないかが思い知らされる。あやまった認識で実践すれば確実に失敗する。実践しないかぎりその認識が真か偽かわかるものではない。認識がまともなものかどうかの判定は結局は実践が下す。

 有名な科学者・キュリー夫人はいった。

 「私は、失敗を恐れない。怖いことは失敗の原因がわからないことです。」

 失敗したということは認識にあやまりがあったということだが、認識のどこがまちがいかが分からなければ訂正のしようがない。人間はまちがいは避けられない。問題はまちがったときにその原因を知ることだ。

 人間は失敗を重ねながら、自然や社会を正しく認識しようと苦労を重ねてきた。生きるか死ぬかのきびしい実践が、認識を確かなものにする必要を迫り、認識を深めてきたのだろう。

 実践そのものが目的も手段もはっきりしない、いい加減なものなら、失敗しても反省のしようがない。実践が真剣なものであればあるほど、もっと分かりたい、もっと学びたい、知りたいという認識への姿勢も確かなものになる。

 実践のなかから認識の必要性を自覚し、学ぶ気力がうまれてくる。よく分かれば、自分との関わりが見えてきて、自分がなにをすべきかも自覚でき、心が動き、実践しようという意志が確かなものになり、「やる気」がみなぎってくる。

 認識と実践は相互に追いかけ合っているようだ。

 民主的なとりくみのなかで、なにか役割をになうとき、「分かっているけど、やる気がしない」と実践に足がでないことがよくある。これはほんとうは「分かっていない」から「やる気がしない」のだ。ほんとうに分かったらやる気になるのに、「分かっていない」からやる気になれない。「分かっていない」のに「分かっている」と誤解しているところに問題がある。

 問題はどうしたら分かるか、だ。分かるためには実践しかない。とりあえずやりたいことをやってみる。そこから一歩がはじまるのではないか。

 「NO WAR!」や「憲法9条を守る」署名運動、消費税増税阻止の運動、年金改悪法見直しの署名や、職場の働く条件をよくする運動、イラク派兵反対、など参加したくなる運動で、自分に適した任務をすすんで引き受け、とにかくどんどんやってみる。

 もっとも、やるべきことがよく分かると同時に、社会的な実践の場合、その実践により、自分への攻撃が予想され、それが自分にどんな困難をもたらすかが「分かる」ときもある。そんなとき、ひとりでは足がふみだせない。やはり困難な課題を実践するためには、仲間のはげましや、より深い認識に支えられた勇気がいるのだ。

 人類は長い歴史の中で生きるために実践し、実践のなかでものごとの仕組みが分かり、原因と結果の因果の関係も分かってきた。採集労働をくり返すうちに、森のなかで種が落ちてそこから芽が出て、茎が伸び花を咲かせ実が稔ることを発見したにちがいない。

「種」は原因、「実」は結果。この原因結果の因果関係を認識して、「結果」=実を得ることを目的に、「原因」=種を手段にすればいいということが分かり、田を耕し種を蒔き育てる、つまり採集でなく栽培によって食べるものを手に入れる農耕の技術を獲得したのだ。目的と手段、原因と結果の関係を人類はとらえてうまく実践できたのだ。

 思い込みから出発するのでなく、現実そのものにたちむかい働きかけ確かな認識を得て、さらにそれを力に働きかける、この認識と実践の関係が大切だ。

 四百年以上も昔のイギリスの哲学者、フランシス・ベーコンという人が、私たちが「誤った思い込み」におちいりやすいポイントを「四つのイドラ」にまとめてくれている。

 イドラというのはアイドルと同じ言葉で、「偶像」への信仰のように、ものごとを思い込みから出発し、自分の考えを正しいと信じきって、疑おうとしないという意味があるようだ。

 第一は「種族のイドラ」。私たち人間は、人類という種族からものをみる危険性があり、人間がこう思い、こう感じるから、他の動物や植物もそうだろうと勝手に思い込む誤り。

 第二は「洞窟のイドラ」。洞窟のなかから世界をみているのに、世界の全てをみていると思い込む誤り。専門の深みにはいり、自分の専門分野からしかものをみない誤り。

 第三は「市場のイドラ」。これは市場にいくと、商売人が言葉たくみに売り込むのでつい買ってしまいあとで後悔する誤り。つまり、人間は言葉という便利なもので、実際そうでないことでもうまくいいくるめてしまうことがあるのでご用心。

 第四は「劇場のイドラ」。舞台というのは恐ろしいもので、みごとな演技に魅せられて演劇を観ている人がいつしか本当のものを見ているような錯覚におちいる。同様にみごとに展開されている理論はたとえ誤った考えでも、権威や伝統に屈伏し真理と思い込む誤り。

 ベーコンは、この「四つのイドラ」におちいらないよう、観察と実験によって自然を認識し、その認識を通じてはじめて自然を支配できる、つまり「知は力」だと主張した。べーコンは「科学的にものをみる」ためには、まず事実をしっかりみることからはじめることを強調している。

 「思い込み」ほど危険なことはない。とりわけ医療機関など命をあずかる職場では思い込みによるミスは許されるものではない。「思い込み」を避け、患者さんの「事実」から出発し、長い歴史のなかで獲得された技術や知識を力に診断や治療にあたることが重要だ。

 まず、患者みずからの訴えを深く知ること、そのためにはコミュニケーションがなによりも大切だ。『わかりやすい医療社会学』(野村拓・藤崎和彦著・看護の科学社)に、コミュニケーションのチェックポイントが概略つぎのように示されている。

○ 思い込みで相手をみていないか。一方的にしゃべりまくり押しつけになっていないか気をつける。

○ 相手がどういう状況にいるかは、相手に聴かなければわからない。相手が話しやすいように、傾聴(心を傾けて聴く)できているか。

○ こちらが共感しているつもりでも、相手に伝わっていないことが大半。言葉や態度で共感を確実に示せば、必ず自分の気持ちをすすんで語ってくれる。

○ コミュニケーション・ギャップが生まれると、かならず言葉や表情にあらわれる。注意力を傾けていないと、サインを見逃してしまう。コミュニケーションは投入したエネルギーに比例して、その見返りが返ってくるものだということを忘れずに。

 以上のポイントは単に患者と向かい合うときだけでなく、人と人とのコミュニケーションの参考になるかと思う。

 人間の認識は、実践からはじまる。どんな職場でどんな職種の仕事につく場合でも、仕事に関する膨大な認識は、長い実践のなかで、試行錯誤の実践を積み重ね、蓄積されたものだ。

 それぞれの部署での、人々の日々の実践が、認識を一歩一歩と深め、誤った認識と正しい認識とをふりわけてきた。社会制度や政治のしくみについても、どう改善すればいいのか、どこへどのように働きかけていけばいいのかを考えてきた。だれと手を結び、どのように運動をすすめるのか、社会についての認識を深め、運動のなかでその認識を確かめ発展させてきた。

 こうして獲得し、さらに日進月歩、日々豊かになっていく認識の中から、大切なものを学びとる権利が私たちにはある。

 そこで私たちにとって「学ぶとはなにか」を次に考えよう。
(中田進著「人間らしく自分らしく」学習の友社 p34-39)

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短いやりとりでなぜあの人は信頼されるのか?

 私は企業で編集者をしていたとき、おもに先生に原稿を頼む側でした。周囲には短いやりとりでも、一発で先生の信頼を得て、仕事を引き受けてもらえ、まるで旧知の間柄のように話がはずむ編集者もいれば、同じ先生に対して信頼はおろか、怒らせてしまう編集者もいました。その差は何だろう? という問題意識がずっとありました。

 フリーランスに転向してからは、立場が逆になり、頼まれる側にまわりました。あるとき、短い期間に、似たような趣旨の依頼を受けて、20人以上の編集者さんと立て続けにお会いしたことがあります。まるで依頼の品評会を見ているようでした。驚くことに、ミーティングをはじめて1時間もたたないうちに、全面的に信頼をよせてしまっている編集者さんがいます。そういう人はもう、依頼の手紙をいただいたときから「何か」が違っています。

 四の五の言わなくても相手から一発で信頼される、その「何か」って何? ここ数年ずっと考え続けてきて、一つだけ、核心に近い答えが浮上しつつあります。

 それは、私が一発で信頼する相手は、「私への理解が適確」だということです。

 だれでも自分のことは、自分がいちばんよくわかっています。自分が歩いてきた歴史、その中で自分が大切にしてきたもの、自分ががんばってやりとげたこと、自分がつくったもの、自分が求めているもの。

 そこへもし、相手から、正確で深い理解の言葉が、パンチのように繰り出されたら、一発で警戒が解け、相手を信頼する、ということがありえないでしょうか? 自分で、自分のことを言葉にする以上に、正確で深い理解が寄せられたなら……。信頼を切りひらくコミュニケーションのポイントは、先ほど述べた「つながり」ともう一つ、「相手理解」です。

 相手とのファーストコンタクトや、コミュニケーションの要所で、「自分は日ごろ、相手のやっていることをどう理解しているか?」「そのどこを、どんなふうに良いと思っているか?」、照れずにしっかりと伝えてみましょう。

 私自身は、自分の頭でものを考え、自分の言葉で表現する人が、もっと増えたら、世の中はもっと自由で面白くなると思っています。そのために、人が持つ、考える力・書く力の教育に20年以上取り組んできました。そこに、正確で深い理解や共感を寄せてくださると、たちどころに、相手に対する警戒心が解けていきます。受けたいと思う依頼文には、必ず、私の仕事への適確な理解が書かれています。

 理解は、お世辞とは違います。
 どんなに褒めても、その理解が正確でなければ相手は傷つきます。たとえば、容姿ではなく演技力で勝負したいとひたすら努力を積んできた女優さんに、「かわいいね」と連発しても、それは理解になりません。褒めるのは相手をよく知らなくてもできるからです。理解は、相手をよく知り、相手の仕事などをよく見ていないとできないことです。

 「相手理解」を伝えることは、相手のアイデンティティのような部分に触るので、はずれれば、相手を傷つけるにとどまらず、自分自身の理解力や判断力、感覚の貧しさを披露してしまうことになります。それだけに、「相手理解」が適確だったとき、それは、自分では意図しなくても、自分の理解力や判断力、感覚の正しさを、実に雄弁に相手に伝えています。だから、相手が歓ぶだけにとどまらず、一発で「信頼」の橋がかかるのです。

志望理由書を書く

 就職などの「志望理由書」を書くときも、ポイントは「つながり」と「相手理解」です。細かいことはいいので、まず、71ページの図で、自分のタテ軸とヨコ軸を整理してみましょう。

もっともシンプルな志望理由の構成

@ 私は、この仕事をめぐるいまの社会をこう見ています。(現代社会認識)

A 私は、この仕事と御社をこう理解しています。(相手理解)

B いままで生きてきた私は、このような経験・想い・長所を持っています(自己理解)

C そこで私は、この仕事に就いて、将来、このように人や社会に貢献していきたいと考えます。(意志)

 自分は過去から現在まで、どのような経験をしてきて、いま何を想い、どんな長所を持ち、未来に向けてどのような志を持っているか、という、自分の過去⇒現在⇒未来のつながりの中で、自分の主旋律をはっきりと示すこと。

 そして、もう一つ、自分のやりたいことは、その組織や、人や社会とどうつながるか、どう役立つかをはっきり出すことです。

 志望理由と言えば、自己PRばかりにとらわれがちですが、相手理解、つまり、相手の会社や仕事への理解の正しさ、深さで信頼を築くことができます。

 この中でもとくに大切なのは、いまから未来に向けてどうしたいか、あなたの意志=WILLです。

 さて、4回のレッスン、あなたの「想い」を表現して、人と関わり、目指す結果を切りひらいていくために、何か一つでもヒントになれば幸いです。

 「あなたには、自分の想いで人と通じ合う力がある」
 その力をますます活かしていってください。ありがとう!
(「NHK 日本語なるほど塾 2005年4/5月」日本放送出版協会 p66-70)
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◎「思い込みから出発するのでなく、現実そのものにたちむかい働きかけ確かな認識を得て、さらにそれを力に働きかける、この認識と実践の関係が大切だ」と。