学習通信060216
◎勝った者は負けた者を……

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 小泉純一郎首相は1日の参院予算委員会で「格差が出ることが悪いとは思わない」と述べ、社会の格差が広がっているとの見方に真正面から反論した。ライブドア事件をきっかけに強まる「勝ち組」批判も「成功者をねたんだり、能力ある者の足を引っ張ったりする風潮を慎まないと社会は発展しない」とばっさり。格差論争に一段と火が付きそうだ。

 この日の質疑では与野党とも「格差拡大」を懸念する発言が相次いだ。自民党の市川一朗氏は「改革一本やりでいいのか」と構造改革路線に疑問を挟んだ。

 首相は「どの時代にも成功する人、しない人はいる。負け組にチャンスをたくさん提供する社会が小泉改革の進む道」「今までが悪平等だった」などと言い返した。

 さらに「影ばっかりだったところにようやく光が出てきた。光が見え出すと影のことを言い出す」と格差批判を一蹴(いっしゅう)した。
(NIKKEI NET 2006/02/01)

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 経済発展の一方で、格差の拡大と社会の階層化が問題となり、ニートやフリーターといった社会現象も踏まえて、格差拡大の問題をあらためて取り上げた『下流社会』といった本が売れる時代であります。

こうした時代だからこそ、あらためて「共感と信頼」が問われているのだと思います。行き過ぎた格差は社会全体の活力を失わせることになりますので、一定の再分配政策やセーフティネットによって弱者を救う必要はあります。

しかし、競争に敗れた、いわゆる敗者については、自ら選択した結果は本人がきちんと受け止めるという自己責任原則を徹底するとともに、失敗しても再挑戦が可能な社会システムとすることで、その活力を再度引き出す仕組みが必要であると思います。
(「これからの世界経済と日本の課題」−内外情勢調査会における奥田碩会長(日本経団連)講演−2006年1月18日(水)ー)

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第四章 ドレイ状態について

 いかなる人間もその仲間にたいして自然的な権威をもつものではなく、また、力はいかなる権利をも生みだすものでない以上、人間のあいだの正当なすべての権威の基礎としては、約束だけがのこることになる。

 ある個人が自分の自由を譲りわたして、ある主人のドレイとなることができるものならば、どうして人民の全体がその自由を譲りわたして、国王の臣民となることができないのだろうか、とグロチウスはいっている。ここには説明を必要とするようなアイマイな言葉がたくさんある。だが、譲りわたすという言葉だけを取り上げよう。譲りわたす、それは与えるまたは売る、ということだ。

ところで、他人のドレイとなる人間は自分を与えるのではない、身を売るのだ、少なくとも自分の生活資料をえるために身を売るのだ。

しかし、全人民が何のために自分を売ったりするのか? 国王はその臣民たちに生活資料を与えるどころか、自分の生活資料をもっぱら臣民たちからひき出しているのだ。

そして、ラブレーによれば、国王というものはわずかなもので生活してはいない。してみれば、臣民たちは、彼らの持物までとられるという条件でその身を与えるのか? わたしは、保存すべきものとして彼らに何がのこるかを知らない。

 専制君主は彼の臣民に社会の安寧を確保する、というひともあろう。いかにも。しかし、彼の野心が臣民たちに招きよせる戦争や、彼のあくことなき貪欲や、彼の大臣どもの無理難題が、臣民たちの不和がつくり出す以上の苦しみを与えるとしたならば、臣民たちは何のうるところがあろう?

 もし、この安寧そのものが臣民たちの悲惨の一つであるならば、彼らは何のうるところがあるだろう? ひとは牢獄のなかでも安らかに暮せる。だからといって、牢獄が快適だといえるか? キクロポスのほら穴に閉じこめられたギリシャ人たちは、食い殺される順番がくるまでは、そこで安らかに暮したのである。

 一人の人間が、ただで自分の身をあたえるなどというのは、ばかばかしくて想像もつかぬことである。こうした行為は、それをやる人が思慮分別を失っているという、ただそのことだけで、不法な無効の行為なのだ。それとおなじことを人民全体についていうのは、人民を気ちがいとみなすことである。ところで、狂気からは何の権利も生まれない。

 たとえ各人が、自分自身を他人に譲りわたすことができるとしても、自分の子供たちまで譲りわたすことはできない。子供たちは、人間として、また自由なものとして、生まれる。彼らの自由は、彼らのものであって、彼ら以外の何びともそれを勝手に処分する権利はもたない。彼らが理性の年齢に達するまで、父親は彼らに代って、彼らの生存と幸福とのために、いろんな条件をきめることはできる。

しかし、とりかえしのつかぬ仕方で、無条件で彼らを他人にあたえてしまうことはできない。なぜなら、そうした贈与は、自然の目的に反し、父親としての権利をこえたものであるから。

そこで、ある専制的な政府が正当なものであるためには、一世代ごとに、人民が自主的にそれを認めたり、拒んだりできることが必要だろう。しかし、そうなれば、その政府はもはや専制的ではなかろう。

 自分の自由の放棄、それは人間たる資格、人類の権利ならびに義務をさえ放棄することである。何びとにせよ、すべてを放棄する人には、どんなつぐないも与えられない。こうした放棄は、人間の本性と相いれない。そして、意志から自由を全くうばい去ることは、おこないから道徳性を全くうばい去ることである。

要するに、約束するとき、一方に絶対の権威をあたえ、他方に無制限の服従を強いるのは、空虚な矛盾した約束なのだ。

もし、ある人にすべてを要求しうるとすれば、その人から何の拘束もうけないことは明らかではなかろうか? そして代償もあたえず、交換もしない、というこの条件だけで、その約束行為は無効だということになりはしないか? なぜなら、わたしのドレイはわたしにたいして、いかなる権利をもつであろうか? というのは、すべて彼のものはわたしのものであり、また、彼の権利はわたしの権利であるからには、この〔彼のわたしに対する〕権利はわたしに対するわたしの権利ということになり、それは何の意味もない言葉だから。

 グロチウスやその他の人々は、ドレイ権などと称するものの、いま一つ別の起源を戦争からひき出す。彼らによると、勝った者は負けた者を殺す権利をもっているのだから、負けた者は、自由を代償として自分の生命を買いもどすことができる。つまり、これはどちらの側にもとくになるのだから、いよいよもって正当な約束だというのである。

 しかし、負けた者を殺す権利などというものが、決して戦争状態から出てくるものでないことは、明らかだ。人々がその原始的独立を保って暮しているあいだ、彼らは平和状態や戦争状態をつくるにたるほど持続的な相互関係をもっていないのだから、この事実だけからしても、彼らは自然のままでは決して敵ではない。

戦争が起るのは物と物との関係からであって、人と人との関係からではない。

戦争状態は、単純な個人と個人との関係からは起りえず、物と物との関係からのみ起りうるのだから、個人的戦争、すなわち人対人の戦争というものは、固定した所有権のない自然状態においてもありえないし、すべてが法の権威の下にある社会状態においてもありえない。
(ルソー著「社会契約論」岩波文庫 p20-24)

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──それもそのはずで、この件は、ロビンソンがフライデーを隷属化させたあの有名な堕罪によってもう証明ずみではないか。あれは一つの力ずくでやられた行為であり、つまり、一つの政治的行為であった。

そして、この隷属化がこれまでの歴史全体の出発点また根本事実であり、歴史全体に不正義という原罪を植えつけ、しかもこれがのちの諸時期にはただ緩和されて「もっと間接的な経済的従属の諸形態に転化された」にすぎないほど強く深く植えつけたものだから、また、これまでずっと有効であった「力ずくで手に入れた所有」の全体もやはりこの隷属化にもとづいているのだから、すべての経済現象を政治的原因をもとに、すなわち、〈強力〉をもとに、説明しなければならないことは、明らかである。

そして、これに満足しない人は、隠れた反動家である〔、とデューリング氏は言うのである〕。

 まずはじめに、〈このような見解はけっして「独特な」ものなどではないのに、それを「きわめて独特な」ものだと考えるには、デューリング氏ほどのうぬぼれ屋でなければならない〉、と述べておこう。

派手な政治劇が歴史において決定的に重要であるかのように見る考えは、歴史叙述そのものと同じくらいに古く、そして、こうした騒々しい諸場面の背後で黙々と行なわれていて真の推進力である諸国民の発展についてはごくわずかな資料しか保存されていない、という事態のおもな原因になっている。

この考えは、過去の歴史把握の全体を支配してきたものであって、はじめてフランスの王政復古時代〔一八一四ー三〇〕のブルジョア的歴史家たちがそれに一撃を加えたのである。

ここで「独特な」のはただ、こういうことをデューリング氏がまたしてもなにも知らない、ということだけである。

 さらに、ほんのしばらくのあいだ、〈デューリング氏がこれまでのすべての歴史を人間が人間を隷属させることに帰着させているのは正しい〉と仮定しても、われわれは、これによってけっして事柄の根底に到達したことにはならない。

そうではなくて、まず第一に、どのようにロビンソンはフライデーを隷属させることになったのか、という疑問が生じる。ただの気ばらしのためにか? けっしてそうではない。

その反対にわれわれは、フライデーが「奴隷としてまたはただの道具としての経済的奉仕を強制され、やはりただ道具として養われるだけである」、ということを知っている。

ロビンソンがフライデーを隷属させたのは、ただフライデーをロビンソンの利益のために働かせるためでしかない。そして、どうすればロビンソンはフライデーの労働から自分のために利益を引き出すことができるのか?
 それはただ、フライデーがその労働によって生み出す生活手段のほうが、ロビンソンがフライデーに引き続き労働能力を持たせておくために彼に与えなければならない生活手段よりも多い、ということによってでしかない。

だから、ロビンソンは、デューリング氏の明示的な命令にそむいて、フライデーの隷属化によってつくりだされた「政治的なグループ分けを、それ自体のための出発点としないで、もっぱら食う目的のための手段として取り扱った」わけである。そこでロビンソンは、自分の主人であり先生であるデューリング氏とどう折りあいをつけるのか、自分でやってみるがよい。

 こうして、〈強力〉を「歴史上基底的なもの」であると証明するためにデューリング氏がわざわざ考え出した無邪気な例は、〈強力が手段にすぎず、これにたいして経済的利益が目的である〉ことを証明しているのである。

目的のほうがこの目的を達成するために用いられる手段よりも「基底的」であるが、それと同じ程度に、歴史では、関係の経済的側面のほうが政治的側面に比べて基底的である。

だから、この例は、それが証明するはずのこととは正反対のことを証明しているわけである。

そして、ロビンソンとフライデーとのケースと同じことが、これまでのすべての支配と隷属とのケースにもある。

圧服は、デューリング氏の優雅な表現の仕方を借りて言えば、いつでも「食う目的のための手段」(この〈食う目的〉をいちばん広い意味にとって)であった。

いつでもまたどこででも、しかし、「それ自体のために」導入された政治上のグループ分けであったためしはない。

〈租税は国家において「第二次的な作用」にすぎない〉、とか、〈支配するブルジョアジーと支配されるプロレタリアートというこんにちの政治的なグループ分けは、「それ自体のために」あり、支配するブルジョアジーの「食う目的」のために、つまり、利潤獲得と資本蓄積とのために、あるのではない〉、とかと考えるのは、デューリング氏でなければやれないことである。
(エンゲルス著「反デューリング論 上」新日本出版社 p224-226)

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◎「目的のほうがこの目的を達成するために用いられる手段よりも「基底的」であるが、それと同じ程度に、歴史では、関係の経済的側面のほうが政治的側面に比べて基底的であると。