学習通信060220
◎結合された生産者たち……

■━━━━━

 発展の過程で、階級の差異が消滅して、すべての生産が連合した諸個人の手に集積されると、公的権力は政治的性格を失う。

本来の意味での政治的権力は、一つの階級が他の階級を抑圧するための組織された強力である。

プロレタリアートが、ブルジョアジーにたいする闘争において、必然的にみずからを階級に結合し、革命によってみずからを支配階級とし、そして支配階級として強力的に古い生産諸関係を廃止するときには、プロレタリアートは、この生産諸関係とともに、階級対立の、諸階級そのものの存在諸条件を、したがってまた階級としてのそれ自身の支配を廃止する。
(マルクス、エンゲルス「共産党宣言」新日本出版社 p86)

■━━━━━

 社会主義・共産主義の未来社会をつくるということは、人類史にとって本当に新しい問題ですから、どこかに青写真があって、その設計図どおりにことをすすめればすむ、というものではありません。

将来、日本でこの道をすすむという情勢が熟したとき、発達した資本主義国のなかで何番目の国になるのか最初の国になるのか、それももちろんわかりません。

いずれにしても、この事業が無数の新しい問題にぶつかり、日本国民が英知をもってこれに挑戦する、そしてそのなかで、状況にあい道理にかなった解決策を探究しながら前進する、そういう創造的な開拓と前進の過程となることは間違いありません。

 改定案は、そのことをのべたあと、そのなかで、私たちがとくに注意したいと考える点を、二つ上げています。

 一つは、生産手段の社会化が多様な形態をとるだろうが、どんな場合でも、「生産者が主役」という社会主義の原則を踏み外してはならない、という問題です(第一六節の五つ目の段落)。これは、非常に大事な点で、私たちがソ連の崩壊の過程から引き出すべき大事な教訓の一つもここにあります。

 さきほども触れたように、マルクスは、『資本論』のなかで、機械制大工業の現場を研究し、労働者が集団として巨大な生産手段を動かしている、その集団が、他人の指揮のもとではなく、自分が名実ともに生産の主役となって、生産手段を動かして社会のための生産にあたる、そこに社会主義的変革の最大の中身がある、という結論を引き出しました。

 マルクスは、『資本論』第三部では、社会主義・共産主義の経済体制を特徴づけるさい、そのことを特別に重視して、「結合された生産者たち」が生産と社会の中心になるという点をくりかえし強調し、この経済体制を「結合的生産様式」と規定したりもしました。

「結合された生産者たち」とは、生産体制のなかで結びついた集団的な労働者のことで、こうして「結合された」労働者たちが、連合してその力を自覚的に発揮するようになる、それを社会主義・共産主義の経済の主役として描きだしたわけです。

(注)
 訳語のことですが、生産者の「結合」に関連した用語は、訳書によって、いろいろに訳されています。この報告では、「結合された生産者たち」という訳語を使いましたが、その後、よく調べてみると、資本主義のもとでの生産者の「結合」については「結合された生産者たち」(この場合は、「結合」の原語はコンビニールト)、社会主義・共産主義のもとでの生産者の「結合」については「結合した生産者たち」(この場合は「結合」の原語はアソツィイールト)と使いわけることが、適切なようです。
(不破哲三著「報告集 日本共産党綱領」日本共産党中央委員会出版局 p144-145)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「発展の過程で、階級の差異が消滅して、すべての生産が連合した諸個人の手に集積されると、公的権力は政治的性格を失う」と。