学習通信060228
◎数字としてだけ「金」を考える……

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 ブルジョアジーは、歴史においてきわめて革命的な役割を演じた。

 ブルジョアジーは、それが支配するようになったところでは、すべての封建的、家父長的、牧歌的な諸関係を破壊した。

ブルジョアジーは、人間をその生まれたときからの目上の人々にむすびつけた雑多な封建的きずなを無慈悲に断ち切って、人間と人間とのあいだに、あらわな利害、無情な「現金払い」のほかにはいかなる結びつきをも残さなかった。

ブルジョアジーは、信心深い熱狂、騎士的な感激、俗物的な感傷という神聖なおののきを、利己的な打算という氷のように冷たい水のなかにおぼらせた。

ブルジョアジーは、個人の品位を交換価値に解消して、特許状で認められて既得権となった無数の自由の代わりに、ただ一つ、非良心的な商業の自由をかかげた。

一言で言うと、ブルジョアジーは、宗教的および政治的な諸幻想でおおい隠された搾取の代わりに、あらわな、恥しらずの、直接的な、あけすけな搾取をかかげたのである。

 ブルジョアジーは、これまで尊敬され、かつ信心深い畏敬の念で見られたすべての活動から、その後光をはぎとった。

ブルジョアジーは、医者、法律家、聖職者、詩人、学者を、自分が雇った賃金労働者に変えた。

 ブルジョアジーは、家族関係からその感動的で感傷的なヴェールをはぎとって、それを純粋の貨幣関係に還元した。
(マルクス、エンゲルス「共産党宣言」新日本出版社 p52-53)

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 使用価値としての商品は一つの特殊な欲求を満たし、素材的富の一つの特殊な要素をなす。

ところが、商品の価値は、素材的富のあらゆる要素にたいしてその商品がもつ引力の程度をはかる尺度となり、それゆえ、その商品の所有者がもつ社会的富の尺度となる。

未開の単純な商品所有者にとっては、西ヨーロッパの農民にとってさえ、価値は価値形態とは不可分のものであり、それゆえ、金銀財宝の増加が価値の増加である。

確かに、貨幣の価値は──貨幣自身の価値変動の結果としてであれ、諸商品の価値変動の結果としてであれ──変動する。

しかし、このことは、一面では、二〇〇オンスの金が一〇〇オンスの金よりも、三〇〇オンスの金が二〇〇オンスの金よりも、依然として大きな価値を含んでいるということをさまたげないし、他面では、この物の金属的自然形態が依然としてすべての商品の一般的等価形態であり、すべての人間的労働の直接的に社会的な化身であることをさまたげるものでもない。

蓄蔵貨幣形成の衝動は、その本性上、限度を知らない。

貨幣は、どの商品にも直接的に転化されうるものであるから、質的には、あるいはその形態からすれば、無制限なもの、すなわち素材的富の一般的代表者である。
(マルクス著「資本論@」新日本新書 p225-226)

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京都知事選
哲学者 鶴見俊輔さんに聞く
手仕事と反戦の京都
喜んで衣笠洋子さんを応援

 三月二十三日告示・四月九日投票の京都府知事選で、労組・民主団体や日本共産党、幅広い個人らでつくる「民主府政の会」の衣笠洋子候補への支持をよびかける哲学者・鶴見俊輔さん。「なぜ衣笠さんを応援するのか」。理由を聞きました。

 私は一九二二年生まれです。私の方がちょっと年長なんですが、日本共産党とほとんど同い年。この長い間、日本共産党は日本の戦争に賛成したことがない。その戦争反対という一点で、私は率直に脱帽するんですよ。「よりよく反戦ということを貫いた集団」というふうに理解するんです。
 それから私は近づきのあった人の薦めもあって、当時の住まいに近かった白い鳩保育園(衣笠さんが当時保育士として働いていた保育園)に子どもをあずけていました。

 四年近く、私は毎日、送り迎えをしました。子どもの命を守るってことを、身近でずっと見てたわけです。素晴らしいところだったんですよ。大変に感心しましたね。

 命を守り続けて

 (衣笠さんを推す)日本共産党は、私と同じ八十四年、日本の戦争に反対するという、つまり日常的に命を大切にするということにぶれがない。(衣笠さんが働いていた)白い鳩保育園は、子どもの命を守るということを、やはり日常的に続けている。この八十四年と四年の両方の体験があってね。衣笠さんが、今度知事候補に出るというのを、私は喜んで応援するということなんですね。

 ひとつの理想

 私は政治家の家に生まれ、母方は明治維新のときからそうです。だから政治家に固定観念を持っている。犬のイメージです。弱い犬ほどよくほえ、自分をでかく見せる。衣笠さんに会ってみて、私の固定観念から、かけ離れた人だと思った。とてもいい感じですね。

 京都に女性の知事が出るというのは、ひとつの理想。そうであってほしいと思う。白い鳩保育園から京都府知事が生まれれば、まっとうな大道ができると思いますね。

 保育というのは手仕事なんですよ。京都は職人の都でもあります。この職人の手仕事は日本文化の中心になっています。

 この間亡くなった十二代中村宗哲(茶道三千家の茶道具をつくる職人の十家「千家十職」の塗師で女性)のような手仕事も、麩嘉(江戸時代創業の生麩=なまふ=専門店)のような手仕事もある。そして白い鳩保育園のような保育の仕事も、みんな手仕事の伝統なんですよね。

 日本人の文化の特色の中に手仕事があるという、そういうことから見直していかないとね。

 そういう手仕事と、ホリエモンみたいに数字としてだけ「金」を考えるのとは対照的です。自分が努力した報酬として得る金とは違うでしょ。

 資本主義の原型っていうのかな、そこから離れちゃってんですよ、今。そのへんから考え直さないと、資本主義としても無理じゃないの。

 戦争も日常のいろんな暮らしから見ないとだめじゃないですか。自分の暮らしとして戦争を準備したり、戦争があるってことを採択するのはどうですかという問題です。

 日本文化の中心を担う職人の手仕事を背景に京都の市民は非常に反戦の気性を持っている。「国際戦争には加担しない」「アメリカの手先にはならない」という日本共産党や衣笠さんを今、京都の市民として当然に応援したいと思ってますね。
(「しんぶん赤旗」2006.2.24)

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◎「人間と人間とのあいだに、あらわな利害、無情な「現金払い」のほかにはいかなる結びつきをも残さなかった」と。