学習通信060303
◎万人対万人の戦争……

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大都市

 ロンドンのように、数時間歩きまわっても町はずれらしきものにさえたどりつけず、近くに農村があると推測させるような様子がまったくない都市は、やはり独特なものである。こういう巨大な集中、こういう二五〇万人もの人が一つの地点にあつまっていることは、この二五〇万人の力を一〇〇倍にもした。

それはロンドンを世界の商業の首都におしあげ、巨大なドックをつくりだし、いつもテムズ川をおおっている何千という船をあつめた。私は、海からロンドン・ブリッジヘのぼっていくときに、テムズ川がくりひろげる光景ほど、堂々としたものを見たことがない。

建物の群、両岸の、とくにウーリッジから上流の両岸の造船所、両岸に沿っている無数の船、それはさかのぼるにつれてますます密集し、ついには川の中央の一筋の狭い通路を残すだけとなり、その通路を一〇〇隻もの船が矢のようにすれ違っていく──これらすべてのことがあまりにも大規模で、あまりにも大量なので、われを忘れるほどである。そしてイギリスの土地をふむ前に、イギリスの偉大さに驚嘆するのである。

 しかし、あとになってはじめて、これらすべてのことのために払われた犠牲が発見される。

大通りの舗道のうえを何日かうろつき、人ごみや、無限につづく馬車や荷車のあいだをやっととおりぬけ、世界都市の「貧民街」をおとずれたときに、そのときにはじめて、これらのロンドン人は、自分たちの町に満ちあふれている文明のあらゆる驚異を実現するために、自分たちの人間性の最善の部分を犠牲にしなければならなかったということ、少数の人びとがますます発展し、他人の力をあわせてそれを何倍にもしていくために、ロンドン人のなかに眠っている何百もの力が活用されず、抑圧されたということに気づくのである。

街路の雑踏がすでになにか不快なもの、なにか人間性に反するものをもっている。

おしあいながらすれ違っていくこれら数十万もの、あらゆる階級、あらゆる身分の人びとも、すべて同じ本性と能力をもち、幸福になりたいという同じ関心をもつ人間ではないのだろうか。

そして彼らもすべて、結局は同じ手段と方法によって自分の幸福を追求しなければならないのではないだろうか。

それにもかかわらず、彼らはまったく共通のものもなく、おたがいになすべきこともないかのように、走りすぎていく。

そして彼らのあいだの唯一の約束は、たがいに走りすぎていく群衆の二つの流れが停滞しないように、それぞれが歩道の右側を歩くという暗黙の約束だけである。

そしてしかも誰も他人には目もくれようともしない。この非人間的な無関心さ、各人が自分の個人的利益しか考えない非情な孤立化は、これらの個人が狭い空間におしこまれればおしこまれるほど、いっそう不快で気にさわるものとなってくる。

こういう個人の孤立化、こういう偏狭な利己心が一般に今日のわれわれの社会の基本原理であることを知ってはいるけれども、大都市の雑踏のなかほど、それが恥ずかしげもなく露骨に、また意識的に、あらわれるところはない。

人類が単子(モナド)へ分解され、その一つひとつがバラバラの生活原理とバラバラの目的をもっている原子の世界が、ここではその頂点にたっしているのである。

 したがってまた、ここでは社会戦争、つまり万人対万人の戦争(※)が公然と宣言されている。

わが友シユテイルナーのように、人びとはおたがいを利用できる奴としてしか見ていない。

みんなが他人を食いものにし、そのために強者が弱者をふみつけ、少数の強者、つまり資本家があらゆるものを奪いとり、多数の弱者、つまり貧民には、ぎりぎりの生活もほとんど残されていないということになるのである。

※〔訳注〕一七世紀イギリスの哲学者トマス・ホッブズ『リヴアイアサン』(一六五一年)のなかの言葉。この自然状態を克服するために、社会契約によって国家がつくられると、ホッブズは考えた。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 上」新日本出版社 p50-52)

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第十三章 人間の自然状態、その至福と悲惨について

人間は本来平等である

 《自然》は人間を身心の諸能力において平等につくった。したがって、ときには他の人間よりも明らかに肉体的に強く精神的に機敏な人が見いだされはするが、しかしすべての能力を総合して考えれば、個人差はわずかであり、ある人が要求できない利益を他の人が要求できるほど大きなものではない。たとえば肉体的な強さについていえば、もっとも弱い者でもひそかに陰謀をたくらんだり、自分と同様の危険にさらされている者と共謀することによって、もっとも強い者をも倒すだけの強さを持っている。

 また精神的諸能力にかんしては、〔ことばにもとづく諸技術、とくに学問と呼ばれるところの一般的で誤りのない規則にもとづいてことをすすめる抜術──これは少数者が少数のことについて持っているにすぎない。なぜならそれは生得の能力ではなくまた〔深慮のように〕他のものを求めているあいだに修得されるといったものでもない──を除くとすれば〕肉体的な強さのばあい以上の平等を見いだす。

 たとえば深慮にしても、それは経験にほかならず、等しい時間ある仕事に等しく専念したことについてはすべての人に等しく与えられる。この平等性を信じがたいものとするのは、おそらくは人が自己の知恵についていだく自惚れである。大部分の人間は、自分を自分以外のほんの少数の、名声があるとか自分と意見が一致するとかによって是認している人々を除く他の一般大衆に比べて、自分ははるかに知恵をいだいていると考えている。

 つまり多くの人が自分より知力に富み、雄弁で知識があることを認めながらも、しかもなお、自分と同じ程度に賢明な人間がおおぜいいると信じようとしないのが人間の本性である。自分の知力は手近に、しかし他人のそれは遠くに見る。しかし、これは人間がその点において不平等であるよりは平等であることをむしろ証明している。すべての人がその分け前に満足しているということほど、平等な配分を示す大きなしるしはふつうはない。

平等から他にたいする不信が生じる

 この能力の平等から、目的達成にさいしての希望の平等が生じる。それゆえ、もしもふたりの者が同一の物を欲求し、それが同時に享受できないものであれば、彼らは敵となり、その目的〔主として自己保存であるがときには快楽のみ〕にいたる途上において、たがいに相手をほろぼすか、屈服させようと努める。

すなわちつぎのようなことがいえる。侵入者にとって相手の単独の力以外に恐れるもののないところでは、ある人が植え、種子をまき、快適な屋敷をつくりあるいは所有すると、他の人々が力を結合してやってきて、彼の労働の成果だけではなく彼の生命あるいは自由までも奪おうとすることが、おそらく予期されるであろう。そしてその侵略者自身がまた他からの同様な危険にさらされる。

不信から戦争が起こる

 このような相互不信から自己を守るには、機先を制するほど適切な方法はない。すなわち力や策によってできるだけすべての人間の人格を、自分をおびやかすほど大きな力がなくなるまで支配することである。それは自己保存に必要な程度のことであり、一般に許される。

 また人によっては、自己の安全のための必要を越えて征服を追求し、征服行為における自己の力を眺めて楽しむ者がある。したがって、もしそのようなことがなけれぱ謙虚に限界のなかで安楽を楽しむであろう他の人々も、侵略によって自己の力を増大させないかぎり、守勢にたつだけでは、長く自己を存続させることができなくなる。であるから、他にたいする支配の増加は自己保存のために必要であり、許されるのが当然である。

 また、すべての人間を畏怖させうる権力のないところでは、人間は仲間をつくることになんの喜びも感じない〔どころか、逆にひじょうな悲哀を覚える〕。というのは人間はだれしも自己評価と同じ高さの評価を仲間に期待する。そして軽蔑とか過小評価とかのどのようなしるしに出あっても、彼らには害を与え、また他の者にはこれを見せしめにすることによって、彼らからより大きな評価を引きだそうと努力する。〔そしてそれは、双方をしずめる共通の権力がないばあいには、たがいに相手を滅亡させるに十分なのである〕

 すなわち、人間の本性には、争いについての主要な原因が三つある。第一は競争、第二は不信、第三は自負である。

 第一の競争は、人々が獲物を得るために、第二の不信は安全を、第三の自負は名声を求めて、いずれも侵略を行なわせる。第一は、他人の人格、妻、子ども、家畜の主人となるために、第二は自分を防衛するために、いずれも暴力を用いさせる。第三は一語、一笑、意見の相違、その他過小評価のしるしになる瑣末事にかんして、それらが直接自己の人格に向けられたか、間接に自己の親戚、友人、国民、職業あるいは名称に向けられたかを問わず、やはり暴力を用いさせる。

社会状態の外では、各人の各人に対する戦争状態は常に存在する

 以上によって明らかなことは、自分たちすべてを畏怖させるような共通の権力がないあいだは、人間は戦争と呼ばれる状態、各人の各人にたいする戦争状態にある。すなわち《戦争》とは、闘いつまり戦闘行為だけではない。闘いによって争おうとする意志が十分に示されていさえすれば、そのあいだは戦争である。

戦争の本質を考察するにはしたがって、天候の本質を考察するばあいと同じく「時間」の概念を考慮しなければならない。悪天候とは一度や二度のにわか雨ではなく、雨の降りそうな日、が何日も続くことであるように、戦争の本質は実際の戦闘行為にあるのではない。その反対へ向かおうとする保証のまったく見られないあいだはそれへの明らかな志向がすなわち戦争である。その他の期間はすべて《平和》である。

戦争状態に伴うさまざまの不便

 したがって、各人が各人にとって的である戦争状態に伴うあらゆることは、自己の力と創意によって得られる以外になんの保障もなしに生きてゆく人々についても同じように伴う。このような状態においては勤労の占める場所はない。勤労の果実が不確実だからである。したがって、土地の耕作も、航海も行なわれず、海路輸入される物資の利用、便利な建物、多くの力を必要とするような物を運搬し移動する道具、地表面にかんする知識、時間の計算、技術、文字、社会、のいずれもない。そして何よりも悪いことに、絶えざる恐怖と、暴力による死の危険がある。そこでは人間の生活は孤独で貧しく、きたならしく、残忍で、しかも短い。

 こうした事情を十分に考察したことのない人は、自然がこのように人々を分離させ、相互に侵略したり滅ぼしあったりさせるということをふしぎに思うであろう。そして彼は、情念から引きだされたこの推論を信用せず、それが経験によって確認されることを望むであろう。

 そこで彼に、自分に即してつぎのようなばあいを考えてもらいたい。旅に出るとき、人は武装して、さらに十分な仲間をつれて行きたいと思う。また、睡眠をとるときにはドアに鍵をかける。自分の家のなかですら、金庫に鍵をかける。しかも法律があり武装した公吏がいて、権利侵害がなされたばあいにはその復讐をしてくれるということがわかっているのにそうするのである。

さらに、人が武装して馬に乗るというのは、自分と同じ国民をどう思っているのか、ドアに鍵をかけるとき自分と同じ市民たちをどう思っているのか、金庫に鍵をかけるとき自分の子どもや召使たちをどう思っているのかを考えてみるがよい。私がことばで行なったと同じように、彼は行為によって、人間を責めているのではないか。

 だからといって、彼も私もそうすることによって人間性を責めているのではない。人間の意欲やその他の情念は、それ自体としてはけっして罪ではない。それらの情念から生じる行為も、それを禁じる法の存在を人が知るまでは罪ではない。そして法が禁じていることは、法がつくられるまでは知りえないし、またいかなる法も、それをつくる人格について人々が同意するまではつくりえない。

 あるいは、こうした戦争の時代または状態は一度も存在しなかったと考えられるかもしれない。そして私も、それが一般に全世界にわたって見られたとは信じていない。しかしこんにちでもそのような生活が行なわれている地方はたくさんある。たとえばアメリカの多くの地方の野蛮民族のばあい、たしかに小家族においては自然の情欲にもとづく和合によった統治が見られるけれども、それ以外にはまったく統治は見られない。そしてこんにちでも前述したとおりの残忍な生活法がとられている。

 いずれにせよ、万人が恐れをいだく共通の力が存在しないばあいの生活がどのようなものか。それはかつては平和な統治のもとに暮らしていた人々が内乱によって落ちこむ生活のしかたを考えれば、そこから看取できるであろう。

 たとえ個々の人々がたがいに戦争状態にあった時期がまったくなかったとしても、しかもあらゆる時代において王や主権所有の人格たちは、その独立性のゆえにたえず嫉妬しあい、たがいに武器を向けあいじっと相手の様子をうかがって、まるで剣闘士の姿勢よろしく身構えてきた。すなわち王国の国境の要塞、守備兵、銃砲、それに隣国にたいする絶えざるスパイ、これらの存在は戦時体制にほかならない。もっとも、そうすることによって国民の勤労は維持されるから、そのために個々人の自由に伴う悲惨は生まれないのである。

戦争状態においては何事も不正ではない

 このような各人の各人にたいする戦争からは、何事も不正ではないということが当然帰結される。正邪とか正義不正義の観念はそこには存在しない。共通の権力が存在しないところに法はなく、法が存在しないところには不正はない。力と欺瞞(ぎまん)は戦争における二つの主要な美徳である。正義と不正義とは肉体と精神のいずれの機能でもない。もしもそうであれば、それらは感覚や情念と同じように世界にただひとりでいる人間のなかにも存在するであろう。それらは孤独のなかではなく社会のなかにある人間にかんする性質である。

 また前述の状態の必然的結果として、そこには管理化も支配権もなく、「私の物」と「あなたの物」の区別もない。各人が自分で獲得しうる物だけが各人の物であり、しかもそれは、それを保持していることができる期間だけである。

 人間が実際にまったくの自然状態におかれたさいの不幸な状態にかんしては以上にとどめる。もちろん彼はそこから脱却しうる可能性を持っており、それは部分的には情念に、部分的には理性による。

人びとを平和に向かわせる情念

 人々に平和を志向させる情念には、死の恐怖、快適な生活に必要なものを求める意欲、勤労によってそれらを獲得しようとする希望がある。また人間は理性の示唆によって、たがいに同意できるようなつごうのよい平和のための諸条項を考えだす。そのような諸条項は自然法とも呼ばれる。私はつぎの二章において、それらについてさらに詳しく論じようと思う。
(ホッブス著「リヴァイアサン」中央公論社 「世界の名著 23」 p154-159)

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 ホッブズは自分の生きている時代をヨーロッパ史上未曽有の危機の時代として捉え,イギリスで現におこっているような騒乱は,やがてヨーロッパの他の国ぐににもおこるにちがいないと考えていた。ホッブズがその政治理論を構築した緊急な目的は,国内に平和を生みこれを維持するための条件を明らかにすることであった。平和の条件を明らかにするには,戦争の原因を明らかにしなければならない。

ベーコンとガリレイから科学の方法について学んだホッブズは,それをさらに練りあげて哲学(科学)の方法と課題をつぎのように設定した。哲学とは,原因にかんする知識からの正しい推理によってえられる結果についての知識であり,また,結果についての知識からえられる原因についての知識であって,その目的は,人間生活が必要とするような諸結果を,物質と人力のゆるすかぎり生み出しうるようになることである,と。ホッブズはこうした学問の方法を社会と国家の問題に適用しようとしたのである。

 ホッブズは,内乱を,現世的権力と宗教的(教会的)権力とのあいだの,封建期中世以来の対立における矛盾の最終的な現われとみていた。内乱におけるどの党派も,それぞれの立場から宗教的権力を現世的権力の上位におこうとしている。内乱はそのような土俵のうえで,新しい経済的利害の発生を契機としてひきおこされた衝突にほかならない。時代の現実をこのように捉えたホッブズは,そこから伝統的な政治理論の核心をなしていたアリストテレスの政治学にたいする批判を展開したのであった。

 アリストテレスの政治学は文字どおりポリスの理論であって,かれはポリスをポリス的(政治的)共同体ともいいかえている。その「ポリス的共同体」という言葉をラテン語訳し近代語訳したのが「市民社会」という言葉である。これらの言葉は自由な市民たちの連合体を意味している。しかし周知のように,ギリシアのポリスは奴隷制を基礎にしていた。これにたいして,万人の平等という原理のもとに自由な市民の連合体という理念を実現しようとしたのが近代市民革命である。近代国家と近代市民社会の理論を築くには,アリストテレス政治学との対決を避けることはできなかった。これを最初に,しかももっとも徹底的におこなったのがホッブズなのである。

 ホッブズは,人間を生まれながらにして(自然的に)ポリス的(政治的社会的)な動物であるとみたアリストテレスに反対して,人間が社会をなすのは利益と名誉のためであり,人間が集まったときに自然必然的に生じるのは,和合ではなく競争と羨望と憎悪であると主張した。生きるために欲求の充足をめざすのは人間の自然なあり方である。人びとは欲求の実現を望むことにおいて平等である。だから,そういう自然の状態においては必然的に「万人の万人に対する戦い」が結果するだろうし,そこでは何ごとも不正ではないであろう。

共通の価値基準がないところでは,正不正の区別も存在しないからである。これがホッブズの有名な自然状態論で,それはまさに中世的秩序原理の完全な崩壊と人間の平等性との宣言にほかならなかった。

 ホッブズのこのような捉え方の積極的な意義は,かれがそこに国家ないし社会形成の主体的条件を見いだそうとしたところにある。人間は自然本性上社会的な動物ではないからこそ,平和を実現し保障するような国家ないし政治社会が必要なのであり,また,人間にはみずから国家をつくり社会を形成する能力がある,とかれはみたのである。

 人間は国家の素材であるとともに創造者である,とホッブズはいっている。自分自身を素材とする創造というこの思想のうちに,ホッブズの唯物論が示されている。ベーコンの感性的な生きいきとした自然の捉え方は,唯物論の全面的な発展の萌芽を包み込んだ最初の素朴な表現ともいうべきものであった。

ベーコンは物質の多様な運動形態に目を配らせていた。これにたいしてホッブズは,もっぱら力学的な運動形態についての把握を深めてゆく。これは近代における唯物論の発展の最初の一歩であった。生きるために欲求の充足をめざし,つぎからつぎへと力を求める止むことのない意欲,自然状態におけるそのような運動を,ホッブズはすべて力学的な運動を捉える視点で解明した。

ホッブズにとって人間の生存はたんなる事実ではなく,あらゆる物質につうじる運動の原理の現われであるという理由によって,「権利」としてつかまれることになる。しかし,他の物体の運動とは異なる人間の運動の特性は,生きてゆくなかでさまざまな知的能力と感情的能力を生み出して,それらを高めてゆくところにある,とホッブズはみた。

自然状態は戦争の状態であって,そこでは人間はたえず暴力による死の恐怖にさらされている。だが,そうした死の恐怖を前にして,人間には平和を求める情念が生まれ,理性がこれを助けて,平和を実現し生存を維持するための条件と手段を明らかにする。国家の成立根拠はそこにあるのだとホッブズは説くのである。

 国家の任務が平和を生み出し,人民の安全と福祉をはかることにあることをホッブズは繰り返し強調している。国家にかんするかれの学説にはさまざまな矛盾や欠陥があるが,平和と人民の安全のためにこそかれが国家権力の絶対性を主張したのだということが見落されてはならないであろう。
(岩崎・鰺坂編「西洋哲学史概説」有斐閣 166-168)

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◎「みんなが他人を食いものにし、そのために強者が弱者をふみつけ、少数の強者、つまり資本家があらゆるものを奪いとり、多数の弱者、つまり貧民には、ぎりぎりの生活もほとんど残されていない」と。