学習通信060306
◎山宣……

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1929年3月5日
衆議院議員の山本宣治が暗殺された。

 治安維持法の罰則に死刑・無期刑を追加した案が、この日衆議院を通過した。山宣と愛称された山本宣治は、この時ただ一人の日本共産党系の代議士であった。彼は労働運動や農民運動などの取締りを強めるこの法律に反対する演説をしようとしたが、妨害されてできなかった。

 その日の夜のこと、午後一〇時五分前、宣治の宿泊している神田の旅館光栄館に、黒田と名のる男が訪ねてきた。訪問者の知らせに、彼は二階から玄関に行き、その男と一緒に自分の部屋にもどった。宣治が用件をききただすと、男は、七生義団の者だと答えて「自決勧告書」をつき出した。その直後、男は宣治におどりかかって刃物で胸を刺した。前日、大阪で「ひきょう者去らば去れ、我一人赤旗守る」と演説した山宣は、その場で凶刃に倒れた。
(永原慶二編著「カレンダー日本史」岩波ジュニアー新書 p38)

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3 無産者生物学の道

 「戦争の生物学」の翻訳は、生物学者山宣の人生と社会への関心方向を示すものであるが、彼が無産者生物学者として無産大衆との直接的ふれあいとその生活防衛闘争に参加していくうえで、大きな転機となったのは、産児制限運動である。そのきっかけとなったのは大正一一年(一九二二)に来日した産児制限運動の旗手サンガー女史との出会いである。

 山宣は、サンガー夫人の通訳を依頼された関係もあって、夫人と産児制限問題について意見を交換する機会をもった。この機会が、夫人の産児制限論を日本に紹介する機縁となった。

──略──

 こうして山宣は、労働者階級のために産児制限の宣伝をする活動にたずさわるようになった。貧乏人の子沢山、といわれるように、労働者たちにとっては、ただでさえ苦しい家計のなかで、子供が多いことは苦悩の種であった。このような彼らに正しい性知識をあたえようということが、山宣の産制運動を方向づけた。彼は、まずサンガー夫人のパンフレットの翻訳・紹介にとりかかった。検閲の網にかかることを避けるために、非売品の形式をとり、表題も『山峨女史家族制限法批判』とした。

ところが実費五〇銭のこのパンフレットは、その後数年のうちに五万部以上が出版され、この運動の拡大の条件が、底深く広く存在していることが明らかとなった。つまり、この運動が、無産運動における生活防衛闘争の一環として広汎な支持を獲得したのである。当時山宣のところには、主婦や労働者などから家計の苦しさや子沢山の悩みを訴える手紙が、ひきもきらず舞いこんだという。

 この時点における山宣の産児制限論が、どのような方向性をもっていたかを知ろうとするとき、大正一二年(一九二三)の「改造」新年号にのった「結婚・三角関係・離婚」(『全集』5)という一文が注目される。

 もともと山宣の性教育論は、封建的性道徳への批判であるとともに、資本主義的性道徳から解放された新しい性道徳の提唱であった。この見地は、「結婚・三角関係・離婚」においては、当時評判の厨川自村の「恋愛至上主義論」への批判とともに、資本主義経済との関連のもとで、問題を論じる視点を提出していることにあらわれている。

 この論文において、以下のように主張された。すなわち「現在日本に於ける多数の結婚生活」は、私有財産制の一変形ととらえられうる。そして夫という占有者が、妻と名づける家畜を養い、性的快楽をうるための機械としている、これは疑うことのできない一つの奴隷制である。

また他方では解放の新時代にはいった将来には、だれしも自由に恋愛に酔い、自由に結婚できる権利をもつはずであるが、ところが「資本主義制」のもとでの「重荷の下に悩む貧乏線以下の男女は、結婚し得る権利を奪はれて居る。」、「ブルヂョア政府は労働搾取の為に賤民共の労働能率の低下を惹起すと見たら、出来るなら性的享楽を為すの自由をも奪ひかねない。併し一方に於て過剰労働を掠奪する為に潤沢な予備隊を備ふべく、労働者間の出産率減退を憂ひて産児制限の宣伝を妨げ又は之を禁じ、健全なる児を多く産む事は国家に対する忠義であると云ふて居る。」

 ここには結婚をめぐる社会現象について、たんに女性解放や自由を要求するのではなく、その現象の背後にある資本主義社会と国家への批判のメスがくわえられている。だから、恋愛至上主義の叫びは、山宣には、「虐げられた奴隷どものあきらめのはての捨ぜりふであり、鉄鎖につながれて巨船を漕ぐものどもが、いつ板子一枚下の地獄にほうむられるとも知れぬはかない運命を悲しんで、歌いかわす哀調にほかならず、奴隷を使う主人は、その亡国の悲歌を彼らが歌っているかぎり、彼らがおとなしく勤勉に働くことを知って安心していられるのだ。」と思われたのである。

 こうして山宣は、このような性的奴隷制が資本主義体制のもとにおこる必然的現象であるかぎり、これを撤廃するために、なんらかの経済的具体的方法によらなければ、そのほかの感傷的お念仏や抽象的お説教では解決にならない、と断じるのである。つまり山宣は、結婚生活という社会の一部の現象を批判し分折するにあたって、資本主義社会と国家とについての全般的視野のなかで考察しており、そこから資本主義社会そのものの変革を展望しようとしているのである。

いまや進歩的学究として「人生生物学」を講じていた彼が、はっきりと「無産者生物学」の方向に歩をすすめつつあるのを確認することができる。このような山宣の学問方向の転換は、彼が大正一二年(一九二三)四月に、高倉輝に献じた訳書『戦争の生物学』の扉に書かれた数行のなかにも如実にあらわれている。

「謹呈 高倉輝大兄 訳者 山本宣治
 我等を縛る鎖の強さがいかに
一目見ていかめしくも亦頑丈らしい、それももはや所々錆びくち、ゆるまんとしてゐるのを我々は明かに知つてゐる
其鎖を断然切り離さうと試みる勇士達の為に私は此書を武器の一として献じた好むにせよ好まないにせよ
やがて来るその日の為に」

 サンガー女史の産児制限論をあつかったパンフレット『山峨女史家族制限法批判』を出版した頃の大正一二年に、すでに山宣は、左翼の闘士三田村四郎や久津房子、野田律太らとの交りをはじめていた。彼をこれらの左翼の闘士たちに結びつけたのは、ほかならぬ同志社大学の学生であった本多季麿であった。本多は、早稲田大学の元学生であったが、大正一〇年に暁民共産党事件に連座して早稲田を追われたのち、同志社に編入し、大正一一年秋頃から足しげく山宣の家に出入りしていた。この本多が大正一二年の一月元旦に当時印刷工であった三田村四郎を宇治にひっぱってきたのである。

三田村の手引きで日本労働組合総同盟の大阪聯合会に属していた左翼分子の九津、野田、大矢省三、平井美人などが、ぞくぞくと来訪するようになり、ついに山宣は、産児制限運動を無産階級のなかにまきおこしていく活動の顧問をひきうけさせられたのである。労働運動のなかで産制運動がとりあげられるにいたったのは、労働争議に際して裏切り職工の統計を調べたところ、その大部分が子供をたくさんかかえた職工で、裏切るまでの苦悩には血のにじむような生活難があることがわかった。

ここから労働運動における生活防衛闘争の一環として産制問題がクローズ・アップされてきたのである。こうして山宣を顧問として大阪産児制限研究会が設立された。つづいて神戸、京都、名古屋、岡山、堺、広島、徳島などにも研究会支部が生れた。山宣は、これらを足場に彼の理論と見解の宣伝旅行をくりひろげたのである。こうして彼は、いまやしっかと労働者運動と自分の学究活動とを結びつけるようになった。

 さらに翌年の大正一三年(一九二四)に、京都労働学校の開設とともに、その学校長に就任した。ここで、後に彼が労農党代議士となり殉難の道を歩むにいたる機縁となった衆議院議員立候補に彼をふみきらせることとなった谷口善太郎との出会いがあった。それはともかく、ますます彼と労働者運動との結びつきは強まっていった。だが、彼がこのような方向につきすすんでいったのは、彼がそれまでに歩んできた人生の帰結でもあり、また客観情勢の要請に応えんがためのものでもあったが、けっして彼が自分の理想を実現しようとして、なんのためらいも迷いもなく、はっきりとした見通しをもって、とびこんでいったのではなかった。当時彼は自分の行動についてつぎのような意味のことをいっている(『全集』5、三三八、三四二ページ)。

 私は過去半生のうち最近の数年間において、とくに重大な意味のある二又路の口に立たされた。私には、その二又路のゆくては実のところ見通しがつかなかったが、生得の傾向のまにまにほとんど衝動的に、これかあれかを決定して進んできたように思う。

 ところが、その私自身の今日の生活と事業と思想は、私がまえに望み努め求めてきたものとは、まったくかけはなれた予想外のものだ。なにもかも私の身のまわりは、実行第一の産物で、理論や哲学は、その後につけくわえられたものである。

 また彼はつぎのような意味のこともいっている。今日私が今後の仕事としてにぎっていることは、すべてただ一時の気まぐれか偶然の機会でとりくんだのがやみつきとなって、ズルズルベッタリに引張りこまれただけのことで、なにもはじめからとくに高遠な理想と遠大な先見の明と万難に屈しない一大勇猛心とをもって、断固として没頭したのではないから、けっして自慢にはならない。

 しかし一度あたえられた最初の一撃は、そののち加速度をくわえて、山宣の人生をつき動かしていった。大正一四年(一九二五)三月一七日に総同盟が分裂の危機に直面したときに、関西労働学校連盟のもとに、大阪に全国の労働学校関係者が一堂に会したときも、彼は議長をつとめている。

この会合では、総同盟内部の左右の対立を反映して見解の一致がみられず、山宣を当時の政治戦線と労働戦線とにおける政治的対立の渦のなかにまきこんでいくようになった。この翌年には、月刊雑誌『産児調節評論』を、のちに改題した『性と社会』を編集するようになり、自ら社長兼小使となり、毎月自分で自転車にのって郵便局に雑誌発送に出かけたりしている。ところで、この月刊雑誌は、日本労働組合評議会系の幹部、野田、三田村、谷口らと協力して発行されたものである。この評議会は、山宣を労働者運動と結びつけるきっかけとなった総同盟が分裂したのちに、その左派系の全国的組合として組織されたものであった。こうして山宣の政治的立場は、だんだんに明確化されていった。

 さて山宣が、研究室から街頭に進出した初期には労働者出身の闘士たちとの交りのほうが多かったが、学生社会科学研究会の運動が激化するとともに、京大社会科学研究会との関係も深まっていった。この関係は、彼が全国各地の社研主催の性教育講演会をおこなっていたこともあるが、彼がたずさわっていた労働者教育に、これら社研の学生たちが参加していたからである。

当時の学生運動における主要問題の一つは、軍事教育反対運動であったが、山宣は、この運動のための資金集めのための講演会の講師もひきうけている。こうして彼は、評議会と社研という当時の大衆組織のうちでも、もっとも左翼的な団体とのつながりを深めていった。そして、この評議会と社研との協力によってできた京都無産者教育協会による労働者教育に専念した。一個の生物学者が、無産運動のために自分の学問を通じて貢献していく方向性が、はっきりと確立され、まさに「無産者生物学」の名にふさわしい「山宣生物学」の樹立を告げるものであった。

この時期における山宣の活躍は、直接に無産大衆のなかでおこなわれるとともに、ジャーナリズムにおいても健筆をふるい、産制問題の旗手となった。当時、彼は「女性改造」、「改造」、「大観」、「サンデー毎日」、「大阪毎日日曜版」、「週刊朝日」、「学芸」、「解放」などの雑誌に寄稿している。

 このように無産者のための学問=無産者生物学のために大活躍をつづけていた彼に、またふたたび大きい転機がおとずれた。それは大正一四年(一九二五)一一月一五日のことである。軍事教育反対運動の高揚のなかで、同志社大学内の掲示板に朝鮮自由労働団体などによって「狼煙ハアガル、兄弟ヨ、コノ戦二参加セヨ」と題するビラがはられていたのをきっかけに、京大や同志社大の社研メンバーなどの学生三三名が、治安維持法違反の疑いで一斉に検挙された。この事件に連座して山宣も家宅捜索をうけた。このことによって彼は京都大学からはもとより、また同志社大学からも金一〇円の解雇手当の支給をもって追放された。このときのことを、後年山宣はつぎのように語っている。

 「当時学生の下宿は片つ端から捜索され、私の所も河上さんの所も捜索されたのであります。学生の下宿は固より同志社にも警視庁の手が及んだ。その為め皆様が私を呼付けて『生物学に特に誠意をもってやって居るとは思はれるが、此の際一応退いて呉れ』と云ふお話がありました。『然らば意見を闘はした上でなければ退職しない』渡せ、渡さぬと押問答して居る中に到頭辞めさせられる事になって……」

 こののち山宣は、皇室中心主義のある学校に内密で勤めたが、すぐに発覚してここも追い出されてしまった。こうして教育界からシャット・アウトされた彼のその後の人生航路は、ひたすら労農運動の渦中にとびこんでいくことになるのであった。大正九年に就職して以来の六年間の同志社大学教師時代は、以上にのべてきたように、人生生物学から無産者生物学へ、そして直接に労農・社会運動へ、という山宣の人生における転換の分水嶺ともいうべき時代であった。
(和田洋一編「同社の思想家たち ──望田幸男著「山本宣治」」同志社大学生協出版部 p292-301)

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◎「大正一三年(一九二四)に、京都労働学校の開設とともに、その学校長に就任……後に彼が労農党代議士となり殉難の道を歩むにいたる機縁となった衆議院議員立候補に彼をふみきらせることとなった谷口善太郎との出会い……、ますます彼と労働者運動との結びつきは強まって……、彼がこのような方向につきすすんでいったのは、彼がそれまでに歩んできた人生の帰結でもあり、また客観情勢の要請に応えんがためのものでもあったが、けっして彼が自分の理想を実現しようとして、なんのためらいも迷いもなく、はっきりとした見通しをもって、とびこんでいったのではなかった」と。