学習通信060307
◎君の後に続く無数の同志が……

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同志山本宣治兇刃に歿る

──旧労働農民党は解散され、新たに企てられた労働者農民党も結成を見ずしておわったので、山本宣治君は、旧労働農民党から選出された代議士として、ただ一人、政治的自由獲得労農同盟(普通には簡単に政獲同盟または労農同盟といっていた)のために働いていたのであるが、同君は昭和四年三月五日、その前年三・一五事件直後発布された治安維持法の改正に関する緊急勅令の事後承諾の件が議会に上程された日、反対意見を述べるために草稿をポケットに入れたまま、遂に発言の機会を得ず、タ刻旅館に帰り、──その頃氏は神田の光栄館をその定宿にしていた、──晩餐を済ますと間もなく、七生義団という右翼反動の一グループに属する黒田某なるものにより暗殺され、忽ちにして不帰の客となった。

 私は、山本君が暗殺されたという報道がまだ新聞でもラジオでも伝えられていないうちに、新聞記者の来訪によって即刻そのことを知った。その時は、同君がすでに絶命しているか、何者が襲ったのか、まだ分からずにいたが、私は新聞記者に対し、もし思想上の信念のために斃(たお)れられたのなら、山本君も本望だろう、という意味のことだけを語った。

──略──

 告別式に列席した私は、用意していた短い告別の辞を朗読するつもりだったが、それは最初の一行分を読んだだけで、臨監の警官から中止を命ぜられた。

それについては、『社会問題研究』第九十冊に、私は次のような一文を載せている。

「山本君と最後に会ったのは、去る二月十五日、全国農民組合京都府連合会第一次大会の開催された日、五条署に検束されている私を、同君が貰い受けに来てくれた時である。私が釈放されて署を出ようとした時、私は出口につき立っている同君の笑顔にぶつかった。「ありがとう」と言ったきりで、その場は別れたが、それが、私にとっては、肉体的に生きている君と語りうる最後の機会であったのだ。

(こうして思い出を書いていると、色々の人の姿が次ぎ次ぎに浮んでくるが、深い交際ではなかったけれども、何一つ悪い思い出の伴わない、山本君はなつかしい。昭和十八年九月二日追記。)

三月八日、東京で催された告別式の当日、せめて君の遺骸がまだ灰にならぬうちに、その前に立って、わずかに数言を述べんと欲したが、私は口を開いて、告別の辞の最初の行の「断乎たる闘争の」という言葉を発音した刹那に、臨監の警官によって中止を命ぜられた。

かくて私は、君の遺骸に向ってすら、思うことの万分の一を述べる機会を、永久に失ってしまった。かくまでに吾々は発言の自由を有しないのだ。だからこそ、議会内において議員の発言の自由を、被圧迫民衆のため極力利用せんと努力した君は、かかる努力の現われと共に殺されたのだ。私は今、墓前に剣を献じた古人に倣(なら)って、読みえなかった告別の辞を、ここに本誌に掲げる。

告別の辞

 同志山本宣治のなきがらの前に立って、私は謹んで告別の辞を述べる。

 君の流された貴き血しおは、全国の同志に向って更に深刻なる覚悟を促し、断乎たる闘争の決意を百倍にし千倍にした。君は何がゆえに、如何なる階級のために、如何にして殺されたかを、残された同志は、はっきりと意識しているからだ。吾々は君と別れることを深く惜むが、しかし君の死は決して無益で`なく、また君の後に続く無数の同志が決してこれを無益にしない筈だ。私は同志の一人として、君が全運動のために献げられた貴き犠牲に対し、ここに満腔の敬意と限りなき感謝の意を表せんとするものである。」

(河上肇著「自叙伝@」岩波文庫 p300-306)

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序章 ゴルゴタの丘

 ぶきみな、なまあたたかい風が吹いていた。

 その丘陵の南方から上空にかけて、灰いろの雲がいちめんに重苦しくおおいかぶさり、反対側の北方に起伏している低い山脈には、まだ夕映えの光があかるくカッと照っていた。が、それもほんのつかのまで、強風に吹きまくられた雲影が、あたかも巨大な古代恐竜がのたうつようにみるみる移動して、北方の山脈をも、うす暗く包みこんでしまった。山脈の樹々が、枝をゆさぶられ、無数の白い葉裏をみせて、なにか密生した獣の毛をいっせいに逆撫でするように、ざ、ざあ、とおののいているさまが遠くからもハッキリと眺められた。

 丘陵の中腹には、大小さまざまな墓石が、それぞれの向きに幾十となく並んで立っていた。そこは宇治町の墓地だった。石垣や鉄柵にかこまれて格式ばった墓があるかとおもうと、捨石まがいにポツンとただ一つ孤立した墓石もあった。いまにも倒れそうに朽ちはてた木製の卒塔婆(そとば)も、斜めに何本か列をなしている。いずれにせよ、その地底にはすでに一片の白骨と化したかずしれぬ死者たちが、まさにその死者という平等の資格で眠っているのだ。そのせいか、近よって吟味すると、生前の貧富や地位を示す墓石の大小や格式の差があるとはいえ、全体としては、何の差別もなく白骨を吸って生えでた奇怪な茸にも似て、一定の地帯に仲よく群がっているのだった。

 暗い空の一方で稲妻が青白く走ったかとおもうと、それにつづいて雷鳴が、遠くから地上のすべてを押しつぶすように、とどろきわたってきた。宇治の町から、この墓地へ通じる一本の狭い坂道は、ふだんから寂しかったが、ましてこの天候では人っ子ひとり見あたらない。よほどの目的をもつ者か、それとも狂人ででもないかぎり、こんなとき、こんな場所へ来るはずがなかった。

 ところが──それは昭和六年初夏のことだが──その異常なことが起った。坂道からではなく、道らしい道もない丘陵の裏手の茶畠のあいだを潜って、背をかがめながら三人の屈強な男たちが、この墓地へ忍びこんで来たのだ。

彼らは顔を見られぬよう古手拭で頬かむりをしていたが、垢じみた盲目縞の筒袖や股引などからおして、どうやら近在の農民らしかった。が、あらかじめ打合せてあったとみえ、その動きはすばやかった。一人が墓地のはずれの竹やぶの蔭に身をひそめると、もう一人はさらに遠く坂道の中途まで走って行って、大きな欅(けやき)の幹に姿をかくした。ひょっとして、こんな空模様にもかかわらず、町の方からやってくるかもしれぬ人間を見張るためだ。やがて遠くの男から順に片手をふって合図が送られると、墓地に残っていた最後の一人が、つかつかと或墓の前へ近づいて、頬被りのまま、ぎこちなく頭をさげた。

 「先生──わしらは負けまへんで。やつらが十一回塗りつぶしやがったら、わしらは十二回彫りおこすまでや……」

 その墓の構えは、周囲に低い石柱と鉄柵をめぐらせた格式ばったものだったが、その中央の台石の上に立っている黒灰色の墓石そのものは、生きた人間の上半身が何ものかに向ってグッと肩をそびやかせているような恰好の、ふしぎな力づよさと素朴さにあふれていた。

 ひとりごとを呟きおえた男は、もう一度、見張役の方をふりかえりながら、すばやく鉄柵をのりこえて墓石の裏側へ廻りこんで行くと、ふところから妙な道具をとりだした。ふだんの野良仕事には用のない太い五寸釘と金槌とである。

 コツ、コツ、コツ──男はその墓石の裏面の或部分を指のさきで探りながら、注意ぶかく五寸釘をあてて、右手に握りしめた金槌で叩きはじめた。不馴れな、こまかい神経の要る仕事とみえて、男の眼つきは、憑(つ)かれたようにギラギラと光っていた。

 「ちくしょう、やつら、いつになったら根負けしくさるや」

 墓石に文字を彫る石工に似たこの仕事は、じっさいには、その逆だった。男は、すでに刻みこまれた文字が《やつら》の命令で一面に石膏で塗りつぶされているのを、彫りおこしていたのだ。それだけに、文字以外の部分をまちがって彫り欠いたりすると、せっかくの努力がむだになるし、大切な墓石に傷をつけることになる。素人にはむりな仕事だが、そうかといって大ぴらに専門職人に頼める性質のものではなかった。もしこんなところを《やつら》に見つかって捕えられたが最後、おそらく半殺しにされたあげく、一年や二年の懲役は覚悟しなければならなかったのである。それも最初のうちはとにかく、ちかごろでは監視の眼がひどくきびしかった。

 「あっ、降ってきたな」

 乾いた石膏の面を大粒の雨がバラバラと叩き、ジミのようにひろがったかとおもうと、つぎの瞬間には、無数の銀の棒に似た太い雨脚が、ザザァ、ザァとあたり一帯に落下し、水しぶきとともに包みこんでしまっていた。すぐ附近の墓石さえ見えなくなるほどのすさまじさだった。男の躯(からだ)は、たちまちドブ鼠のように、ずぶぬれになってしまった。頬かむりの手拭がべったりと顔にへばりつき、その結び目や顎から、ポタポタと水滴がしたたり落ちた。いくらあせっても、五寸釘や金槌を握った両手の見当が狂って、ほとんど仕事にならなかった。それどころか、この雨では、かんじんの見張番の合図も見えないし、叫び声もきこえないおそれがあった。

 しかたなく仕事を中止しようとして、男がなかば腰を浮かしたとき──一瞬、墓場全体が青白い閃光に照らされ、バリリーンと耳膜も裂けるほどの雷鳴とともに、男のからだは、しびれるような衝撃をうけて、もとの墓石にへばりついていた。ちかくに落雷したのか、かすかにキナくさい匂いが男の鼻をついた。かなりのあいだ男はそのままの姿勢でうずくまっていたが、やがてどう気をとりなおしたのか、ずぶぬれの、はげしくふるえる手で、ふたたび五寸釘を墓石に突きたてたのだった。すでに最初の一字──《山》という字は彫りおこされていた。墓石にしがみつくような恰好で、男はその次の一字にとりかかったのだ。

 「くそっ、こっちがしんどいときは、やつらもしんどい、へこたれるな。この雨と雷とは、天のたすけちうもンや、こんな中を、なんぼなんでも、やつら、出向いてこんやろかい」

 地獄の幽光さながら、やつぎばやに青白く閃めく稲妻と、耳をつんざく雷鳴の下で、男の躯は、まるで執念のかたまりと化したように、その墓石にへばりついて離れなかった。ずぶぬれの石のおもてを探りながら、五寸釘が動いてゆくにつれて、何分間か経つと、ようやく《宣》の一字が浮かびあがり、さらに何分間かの後には、つぎの一字が彫りおこされて行った。雨滴は、とっくに男の木綿着を透して肌にしみこみ、初夏とはいえ、ぞくぞくと冷たかった。男は、その気味わるい冷たさをふるい落そうとでもするかのように唇をかみしめながら、低い唸声で唄をうたいはじめた。《しののめ、くらく、反動の……》というその文句は、調子はずれの経文にも似て、絶えてはつづき、つづいては、とだえた。

 だが、そんなふうに、うろおぼえの唄をうたいながら、一心不乱に仕事をつづける男の胸には、いまさらのようにふかい悲しみの念がこみあげてくるのだった。この墓の下の人は、貧乏人の身がわりになって死んでくれたのだ。いわば自分たちが、その人を前へ前へと押しだして、《やつら》に殺させたようなものだった。そうおもうと、遺族の人々にたいして申しわけがなかった。

が、それにもまして《やつら》の仕打ちが憎かった。寺の住職もいうとおり、どんな悪人でも死ねばみな仏のはずなのだ。しかも、その人は悪人どころか、りっぱな、りっぱな人だった。それを、死人に鞭打つという言葉があるが、墓石にまでたたるとは──つまり《やつら》は人間ではないのだ。裏面の文字を石膏で塗りつぶさないかぎり、墓石を立ててはならぬ──そんなむごい法律がどこにある。そのために、その人の母堂は年寄りの身で、やっと中学生になったばかりの喪主の孫をつれて、一ヵ月もの永いあいだ東京まで嘆願に行かれたが、ついに許可はおりなかった。《やつら》の一人が石工の親方のところへきて、いますぐ塗りつぶせと命じたとき、昔気質の親方が、遺族の指図以外は受けられぬと突っぱねたのも、やはりむだだった。結局、いまから二年前の昭和四年に、墓石は《やつら》のいうままに塗りつぶして立てるほかはなかったのだ。

 最初、その塗りつぶされた墓石の文字を彫りおこしたのが誰なのか、それはいまだに謎だった。げんに雷雨に打たれながら金槌をふりあげているこの男ですら知らないのだ。だがその噂は、宇治の町から、日本中の《やつら》を憎んでいる仲間たちのあいだへ波紋のようにつたえられた。それは、殺されたその人の最後に叫んだ言葉を永久に忘れない仲間が、いくらでもいるぞ、という痛烈な意志表示であった。

《やつら》にとっては《一個の怪物がヨーロッパをうろついている》どころか、まさにその怪物が、日本を、しかも叩きこんだはずの牢獄のそとを、憎むべき跫(あし)音をたててあるいているということであった。だが獣じみた憎悪の牙をむきだして、遺族やそのまわりの人々をいくら責めたて調べあげてみても、すべてむだだった。二千年の昔、あの荒涼としたゴルゴタの丘から十字架の主を運び去った犯人が永遠の謎であるのとおなじように、《やつら》はどうしてもこの犯人たちを捕えることができなかった。のみならず秘密の仲間は仲間を呼び、ついに二年後のこの日、ねばりづよくも十二回目の抵抗が決行されたのである。

 初夏の雷雨にしては、めずらしく一時間ちかくも降りつづいた猛烈な雨脚がようやくおとろえて、銀糸のように夕闇に仄めくころ、男はどうやら仕事をやりとげていた。気がせいていたので、墓碑銘の前文と、署名者の部分までは手をつけられなかったが、かんじんの本文だけは彫りおえたのだ。雨中での馴れぬ仕事に疲れきった男は、さすがにほっとした面持で、よろめきながら立ちあがると、墓地の外で忍耐づよく見張りをつづけていた仲間に向って、片手を大きく振って合図をした。永らくうずくまっていたその見張役の男が、竹やぶの蔭から這いだすと。頭上の竹の葉に溜っていた緑色の水しぶきがバサバサとその背巾へしたたり落ちるのが、遠目にも見てとれた。さらに遠くの坂道にいた男も、づぶぬれのまま小走りに駈けもどってきた。

「殺生な雨や、まるで滝に打たれたみたいに、躯の芯までぬれくさった」
「文句をいうな──どうや、これでええやろ」

 あとに証拠を残さぬように用心ぶかく金槌と五寸釘をふところにしまいこんだ男にいわれて、見張りの二人は、じっとその墓石を見つめながらうなずいた。

「上出来や。まさかわしら百姓の仕業とは気がつくまい」
「これでわしらも、山本さんに一つ恩返しができたわけやな」

 三人の男たちは、やや改まった面持で、骨太い両手を合わせながら、頭をさげて黙祷した。だが、むろん長居は危険だった。やがて三人は、もときた茶畠のあいだを、ドブ鼠のようなすばやさで、どこかへ逃げ去って行ったのだった。

 男たちが逃げ去ったすぐあと、あれほど暗かった空の一部がポッカリと切れて、まだ沈みやらぬ夕映えの残照が、ほんのしばらく、ぬれそぼった大小の墓石を、ふしぎな美しさで照らし出した。とらえどころのない乳白色の霧が、あたりいちめんにけぶっていた。そのなかの、男たちが黙祷をささげた墓石には、ちいさな真珠のような水滴がキラキラと光り、次の墓碑銘が、神秘なまでのあざやかさで浮かびあがっていた。……

山宣ひとり孤塁を守る
だが私は淋しくない
背後には大衆が支持しているから
(西口克己「山宣」大阪山宣会 p5-11)

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京都
「戦争あかん」と表現したい
街中に平和ポスター

 4月22日に平和の願いを込めたポスターを街中に張り巡らそう──。京都の若者たちが取り組んでいます。この日は、思想と言論が弾圧された「治安維持法」(1925年)が公布された日だからです。若者たちの思いとは──。 立花 亮記者

 企画しているのは芸術家や学生、社会人などでつくるグループ「アートプロジェクト『81年目の応答』」。4月22日に京都市内の住宅や商店などに千枚以上のポスターを張る計画です。

 実行委員長の三嶋あゆみさん(25)はデザイン会社で働いています。発案者のひとりです。

 「街中に張り出されたカッコいいポスターを『何の絵かな』と見てもらって、そこから平和について考えてもらえるようなものにしたい」といいます。

 今までにない

 平和運動をしている仲間たちで「今までにないイベントをやろう!」と何度も語り合いました。

 「ピースマップを作る」「ライブや演劇で平和をアピール」「平和美術展を開催する」などいろんな意見が出ました。歴史年表を開くと、「1925年4月22日、治安維持法公布」の文字がありました。

 「今の日本で『治安維持法』を見つめ直すのって大事ちゃう?」という意見も出て、「この日に街中でアピールしよう」と企画を立ち上げました。

 「イラク戦争反対のビラをまいたら逮捕されるとか、NHKの番組改ざん問題など、表現の自由が脅かされてるんちゃうかなと思います。改憲の動きもある中、戦争したらあかんと表現したい」と話すのは、実行委員の福元恵海さん(29)。漆作家でアトリエ講座の講師をしています。イラク戦争反対署名を集めるなど平和運動をつづけてきました。

 「治安維持法は、天皇絶対の政治をおしつけて、侵略戦争をすすめるために、死刑まで科して思想を弾圧した法律です。その歴史をみつめ直すことで、自由に表現できることの大事さをみんなで考えたい」

 公募し審査も

 実行委員たちは京都市内の商店やギャラリー、住宅などに、「ポスターを張らせてほしい」と呼びかけ、賛同者を募っています。

 対話した店主からは、「自由に表現できることって大事やな」「ええ企画やしポスター張ったげるわ」と好評です。

 ポスターは公募し、街頭審査などを行った後、審査会を開いて決定します。審査員にはフォトジャーナリストや美術史家、画家らを招きます。

 落ちてくる小さな丸い玉を両手で受け止めようとする絵を出展したのは岡村多恵さん(27歳、会社員)。

 「玉はこれまでの歴史をイメージしたもので、今までの歴史をちゃんと受け止めようという思いを込めました」と話しています。

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4月22日
戦前の思想弾圧法
治安維持法公布の日

治安維持法とは……
 戦前、国民の運動だけでなく思想そのものを弾圧する法律として猛威をふるいました。 1925年4月22日に公布され、敗戦の年、45年10月に廃止されました。
 天皇が絶対的な権力をもつ当時の政治体制を国民主権・主権在民の政治に変えようとする組織や運動にたいし、最高で死刑という重罪を科すものでした。日本共産党だけでなく、こうした活動に少しでも協力すれば犯罪とされ、宗教者や自由主義者も弾圧されました。
 政府の統計では、送検された人は7万5681人、起訴された人は5162人。謝罪と国家賠償をおこなう法律の制定をもとめて運動している治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の調べによれば、拷問で虐殺されたり獄死した人は194人、獄中で病死した人は1503人、逮捕された人は数十万人にのぼります。
 司法によって執ような弾圧を受けた日本共産党は、作家の小林多喜二などたくさんの犠牲者を出しました。
 司法によるでっちあげの言論弾圧、「横浜事件」の再審をもとめて、裁判がつづいています。
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(「しんぶん赤旗」日曜版 20060305)

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◎「最初、その塗りつぶされた墓石の文字を彫りおこしたのが誰なのか、それはいまだに謎だ……げんに雷雨に打たれながら金槌をふりあげているこの男ですら知らない……だがその噂は、宇治の町から、日本中の《やつら》を憎んでいる仲間たちのあいだへ波紋のように……それは、殺されたその人の最後に叫んだ言葉を永久に忘れない仲間が、いくらでもいるぞ、という痛烈な意志表示であった」と。